結び目は真ん中に 3 「横顔の影、やさしい声」
四月の風は、まだ制服の布を冷たくする。
昇降口の硝子に、うすい雲が流れて映った。わたしはネクタイの結び目をそっと直す。結び目は、きつすぎないように。
「りん、今日の委員、私も手伝うからね」
渚が肩を並べる。
「ありがとう。……でも大丈夫、今日は配布だけ」
遼が当番表を指で叩く。
「二年の掲示、破れてる。テープ、持ってく」
「うん。お願い」
◇
放課後の廊下。窓の外に、花びらの名残がいくつか舞っていた。
「星空さん、こっち」
浅野航生が軽く手を振る。生活委員の配布物は四クラス分。わたしが抱えている束を、彼は半分以上さらりと持っていった。
「重いのは俺が。ほら、気遣いは得意」
「……ありがとう」
彼は笑って、階段を先に降りる。踊り場で立ち止まり、わたしを待つ。
「ね、星空さん。渚ちゃん……距離、近くない?」
足が、少し止まった。
「え?」
「悪い意味じゃなくてさ。あれ、誰にでもやってるの? 肘つつくやつ」
「ううん。友達だから」
「ふうん。俺はさ、星空さんには“特別”でいてほしいんだよね」
言いながら、プリントの束をわたしの分と同じ高さに揃える。きれいな手つき。さりげない「整える」。心臓が、ひとつだけ速くなる。
「……配ってくるね」
「おう。終わったら昇降口で」
◇ ◇ ◇
配布が終わって昇降口に戻ると、彼は自販機の前でキャップを回していた。
「星空さん、炭酸いける?」
「今日は水にする」
「正解」
わたしが水を選ぶと、彼は自分のペットボトルのキャップを軽く当ててくる。
「かんぱい。――入学、二週間目」
「かんぱい」
「で、さ。星空さん、“りん”って呼んでいい?」
肩が、小さく跳ねた。
「……うん」
「りん、今日、帰りにちょっと寄り道しない?」
「寄り道?」
「校外学習の下見。生活委員の有志ってことで。ほら、この前プリント、出してくれた礼」
ことばは軽い。目の奥は、きれいに笑っている。
「渚に……」
「渚ちゃん、今日は塾だよ。遼くんは図書室。俺、時間ある」
なんで知っているの、と喉まで来て、飲み込んだ。廊下の端で、掃除用具の柄が風に揺れる。
「……少しだけ」
「決まり」
◇
川沿いの遊歩道。春の光は低く、欄干の影が斜めに伸びている。遠くの水音が、前よりも小さく聞こえた。
「ここさ、行事で通るかも。道幅、狭いよね。危ないから、俺が前歩く」
「ありがとう」
彼は半歩前。ときどき振り返って、わたしの歩幅に合わせる。
「りんって、歩くの静かだよね」
「そう?」
「うん。靴音で、誰かわかるじゃん。りんは風っぽい」
「風?」
「ふっと来て、ふっと笑う」
とたんに恥ずかしくなって、髪の結び目に触れる。白いリボン。結び目は、きつすぎない。
「似合ってる」
「ありがとう」
「――俺さ、りんのこと、好きだよ」
川の音が、一瞬だけ止まったみたいに感じた。
「……どうして」
「理由、必要? 横顔見て、全部持ってかれた。入学式の日」
横顔。胸の奥で白い石がころんと鳴る。
「でも俺、横顔だけじゃ決めないタイプだし。だから見てる。いまも。正面も」
「……わたし、まだ、わからない」
「いいよ。わからないなら、わからないって言って」
彼は欄干に肘をのせ、空を見た。雲はうすく、陽は傾き始めていた。
「ね、ひとつだけ約束しよ」
「約束?」
「俺のこと、最初に信じるのは“りん”だけでいて。……友達より、先に」
喉の奥に、小さな棘が触れた。言葉はやさしいのに、形がとても細い。
「渚と遼は、たいせつ。――でも、わたしはわたしで考える」
「うん。そういうところ、好き」
彼はさらりと言い、スマホを取り出す。
「番号、交換しよ。連絡は個チャで。委員の仕事、さ。早く回るから」
「……うん」
画面に新しい名前が増える。浅野航生。登録のあと、即座にメッセージが届いた。
《いま目の前にいるりんへ。好き》
指先が熱くなって、画面を伏せた。
◇ ◇ ◇
帰り道、角を曲がったところで渚が待っていた。腕を組んで、少し膨れている。
「寄り道って聞いてない」
「ごめん。生活委員の下見で」
「ふーん。遼は?」
「図書室。あとで合流するって」
渚はわたしの顔を覗き込んで、ため息をひとつ。
「りん。“嬉しい”と“ざわざわ”の割合、何対何?」
「……七対三くらい」
「どっちが七?」
「……わかんない。たぶん、嬉しい」
「了解。じゃ、それ、毎日変動するか見るから」
「毎日?」
「毎日」
渚はにっと笑って、わたしのリボンを指でつつく。
「結び目、今日はきれいだね」
「うん。……ありがと」
遼が追いついて、小さく会釈した。
「“個チャ”に招待、来てたね」
「うん。交換した」
「グループにも共有、しておこう」
「うん」
遼は空を見上げる。
「明日、雨」
「傘、忘れない」
◇
夜。机の上に、白い石をひとつ置く。画面には短い通知がいくつも並んだ。
《今日のりん、髪、光ってた》
《委員の連絡、俺から出しとくよ。りんは休んで》
《明日の朝、昇降口で。五分だけ貸して》
短く返事を書く。
《ありがとう。おやすみ》
《おやすみ。好き》
画面を伏せ、リボンをほどく。梳かし、指で絡まりを解く。結び直す瞬間、吸って、吐く。
「……好き、って」
声に出してみる。部屋の空気は動かず、言葉だけが枕元に落ちた。
◇ ◇ ◇
翌朝。雨。傘立ての前に、彼は先にいた。一本の透明な傘を差し出す。
「りん。これ、貸す」
「自分のがあるよ」
「そっちは渚ちゃんに。さっき見たら、忘れてたから」
「え?」
振り向くと、渚が小走りで来ている。傘、忘れてる。わたしは自分の傘を渚に押し付けた。
「はい」
「え、りんは?」
「あるから」
「……あるならいいけど。ありがとう!」
渚はわたしの肩を軽く叩いて、走っていく。遼が静かに見ていた。目は笑っていない。
「りん、その傘、浅野くんの?」
「うん」
「返すとき、二人で昇降口に寄る」
「……うん」
浅野は透明な屋根の下で、わたしの歩幅に合わせて歩いた。ビニールの匂い。雨の音。昨日の川の音とは違う、近い音。
「りん、今日の放課後、少しだけ」
「何を?」
「連絡事項。あと……俺の話」
「俺の話?」
「うん。家のこととか。――りんにだけ、先に知ってほしい」
透明な屋根の内側で、息が白く近づく。わたしは小さくうなずいた。
「わかった」
◇
放課後、理科準備室裏。人通りは少ない。雨は弱くなり、屋根の水がぽたり、と落ちる音がする。
「俺さ、ちょっと家庭、複雑で」
浅野は語り始める。父親は忙しい、母親とはうまくいっていない、家の手伝いは全部自分、先生はわかってくれない――重たい言葉が、やさしい声で並ぶ。
「だから、頼める人、欲しい」
「……頼める?」
「うん。りんに、頼りたい」
胸の中で、何かがほどける音がした。誰かに必要とされる形のことばは、あたたかい。
「できることなら」
「助かる」
彼は、わずかに口角を上げる。
「じゃあさ、まずはプリント整理。家に持って帰って、明日までにまとめよう」
「それ、学校の仕事は学校で……」
「りんと一緒の方が、俺、がんばれる」
ことばはやさしい。形は、少し細い。
「……わかった」
そのとき、廊下の向こうで足音。渚だった。傘をくるくる回しながら近づく。目が、鋭い。
「りーん。帰ろ」
「うん。今、行く」
浅野が笑って言う。
「渚ちゃん、傘、りんから借りたんだって? よかったね」
「うん。――でも私、今日、塾やめてるから」
「え?」
「りんの“ざわざわ”が昨日から三。今日は四。……たぶん、もう少しで五」
浅野の笑顔が、一秒だけ止まる。すぐ戻る。
「数えるの好きだね。じゃ、また明日」
彼が去る。渚はため息を小さく落として、わたしの手首を握る。指が温かい。
「りん。“助けて”って言っていいからね。言う場所、ここにあるから」
「……うん」
遼が角から現れて、傘を半開きにしていた。
「帰ろう」
「うん。帰る」
白い石は、今日はポケットに入れてこなかった。代わりに、結び目を確かめる。指先の感触は、いつも通り。きつすぎない。ほどけすぎない。
雨は、まだ小さく続いていた。
⸻




