結び目は真ん中に 2 「透明の傘、ざわざわの数」
春は、ちゃんと来た。
校門の上で桜がほどけて、花びらが制服の肩にやさしく落ちる。わたしたちは中学生になった。ネクタイの結び方を何度もやり直して、鏡に向かってうなずく朝。歩幅はまだ小さいけれど、昨日よりは、たぶん大きい。
昇降口の前で、渚がスカートの裾をつまんで回ってみせた。
「どう? 丈、校則の“ギリ上品”」
「それ、どこに基準書いてあったの」
「心に」
遼がすかさずメジャーを出す。
「膝から三センチ。許容範囲内」
「ね、りんのは?」
「……普通。たぶん、“ふつうに上品”」
わたしが照れて言うと、渚は笑って親指を立てた。遼はネクタイを軽く直してくれる。結び目は、きつすぎないように。
◇
体育館のパイプ椅子。式辞は長いけれど、スピーカーのハウリングが少なくて助かった。わたしは校歌の紙を持ちながら、ふいに風を感じる。背面の扉が少し開いて、桜の匂いが揺れ込む。
その時だった。
整列の列の端、光の方から歩いてきた誰かが、まっすぐこちらを向く。息が止まった。
横顔、眉の角度、笑う前の目の形――“そこ”に、こうきがいた。
「……りん?」
渚のささやきが耳に触れる。わたしは小さく首を振って、視線を外せない。
彼は列に加わり、前を向いた。正面の姿は、やっぱり“同じ”じゃなかった。背丈も、目の奥の光も、違う。けれど、最初の横顔は、忘れたくても忘れられない“あの夏”の輪郭をなぞっていた。
胸の奥で、白い石がころんと転がる音がした。
◇ ◇ ◇
教室の出席確認。担任が名簿を読み上げる。
「浅野――航生」
はい、と彼が答える。わたしの喉が勝手に鳴って、水を飲んだ。渚の視線が心配そうに滑ってくる。遼はノートに小さく線を引いた。そこに、音のない境界線が引かれたみたいだった。
「星空りん」
「はい」
声は、ちゃんと出た。わたしは前を向く。名札の「浅野」の字が、黒板の粉で少し霞んで見えた。
◇
休み時間。新しいクラスの空気は、まだ“誰のものでもない匂い”がしている。窓際には光、後ろの掲示板には白紙の模造紙。渚がわたしの机に身を乗り出す。
「さっきの、“浅野くん”。……大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「似てるのは、横顔だけだった」
遼が静かに言う。観察の声。やさしい事実。
「うん。横顔だけ」
それでも、横顔は横顔だ。最初の一撃は、十分だった。
「りん、息」
「あ、してる。……吸って、吐いて、ね」
「うん。結び目、後で直すから」
遼が言って、ネクタイの結び目を指先で示した。少しだけ曲がっていた。
◇
放課後の帰り道。桜の花びらが足元でほどける。下駄箱の前で靴を履き替えたとき、肩に軽い影が落ちた。
「星空さん、だよね」
振り向くと、浅野航生が立っていた。近くで見ると、やっぱり“同じ”ではない。声の高さも、立ち方も、違う。けれど、笑う前の目の形が、やっぱり少し似ている。
「さっき、出席のとき、顔色、悪かったから。大丈夫?」
「うん。ちょっと、緊張してただけ」
「そっか。――俺、浅野。航生って書いて“こうき”」
「……星空りん。りんは“りん”」
隣で渚が、空気を読みながらにっこり笑う。
「わたしは渚。よろしくね」
遼は軽く会釈する。
「遼。よろしく」
浅野は二人を一瞥して、すぐに視線をわたしへ戻した。
「星空さん、委員会とか決めた? 俺、生活委員やろうかなって。面白そうだし」
「まだ。相談して決める」
「そっか。――じゃ、またね」
軽い手の振り方。去り際、廊下のゴミ箱に誰かが落とし損ねたプリントが引っかかっているのを見て、彼は爪先で押し込んだ。さりげない“整える”仕草。それは、こうきと同じ癖だった。
心臓が、ひとつ跳ねる。
渚が、わたしの袖をそっと引っ張った。
「りん、“横顔”だけ見ないで」
「……うん。正面も、見る」
遼が、窓ガラス越しに空を見た。
「今日は、風が強い」
「うん」
白い花びらが、踊るみたいに舞い上がった。
◇ ◇ ◇
一週間後。席替え。抽選のくじは、予想よりずっと無慈悲に、わたしの机の斜め前に「浅野」を置いた。担任が黒板に座席表を書き終えるころ、渚はわたしの膝をこつんと蹴ってウインクする。遼は「呼吸」とだけ書いたメモをそっと渡してきた。
「星空さん、消しゴム貸していい?」
浅野が体を少しねじって言う。
「どうぞ」
「ありがと。――あ、そうだ。係のプリント、先生に出しといて。俺、ちょっと用事で」
「……今?」
「今」
返事を待たずに彼は立ち上がる。渚が目だけでわたしを見る。わたしはプリントを受け取って、前に歩いた。担任は微笑み、ありがとう、と言う。用事を終えて戻ってきた浅野は、悪びれた様子はない。
「助かった。星空さん、頼りになる」
言い方は上手い。誉め言葉の形をして、当たり前を人にやらせる手。
渚が小声で言う。
「ね、“横顔”以外、見えてきた?」
「……ちょっと」
遼が、ノートの端に鉛筆で小さく丸を描く。
「“頼み”の頻度、三日で四回」
「統計、はや」
「気になったから」
わたしは笑う。笑える。けれど、胸の奥で何かが小さくざらついた。
◇
雨の日。傘立ての前で、浅野が誰かに声をかける。
「それ、俺の傘だから。返して」
相手の一年生が困った顔で言う。
「でも、名前、書いてない……」
「俺のだって言ってる。返してよ」
通りすがりの渚が、すっと割って入る。
「これ、白いライン二本で、うちのクラスの配布品だよ。誰のでもない。今日は立て替えで、保健室で借りておいで?」
浅野は一瞬だけ渚を見て、笑って肩をすくめた。
「冗談冗談。そんなに怒るなよ」
去っていく背中。遼が呟く。
「“冗談”って言いながら、目が笑ってない」
「りん、大丈夫?」
「……うん」
“似ているもの”と“違うもの”が、雨粒みたいに交互に落ちてくる。
◇ ◇ ◇
放課後。掲示板の前。生活委員の当番表。浅野は黒マジックで自分の名前を太く書くと、すぐ振り返って言った。
「星空さんは、何曜日にする? 俺、星空さんと同じ曜日がいい」
「わたしは、水曜」
「じゃ、水曜にしよ。ね、連絡、これから“個チャ”でいい?」
渚が間に割って入る。
「クラスの連絡は、みんなのグループにしておこうね。透明性って大事」
「渚ちゃん、堅いなぁ」
浅野は笑い、ポケットの中でスマホをいじった。わたしの画面に、個人チャットの招待が表示される。迷って、承認はしないでポケットに戻した。心臓が、少しだけ速い。
遼が横で言う。
「“同じ曜日”は、仕事が分けやすいという利点もある」
「うん。……利点、だけ?」
遼は黙って、マジックの太い字を見つめていた。
◇
帰り道。渚がわたしの腕に頬を寄せる。
「ね、りん。私、りんの“好き”がどこにあるのか、ちゃんと一緒に見たい」
「……うん」
「“横顔”に引っ張られてないか、時々確認させて」
「お願い。……わたし、自分でわからなくなる時あるから」
遼が前を歩きながら、振り向かずに言う。
「わからない時は、立ち止まる」
「うん。立ち止まる」
白い石が、ポケットの中で静かに重い。けれど、投げなかった。今日は、持って帰る。明日また、確かめるために。
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