結び目は真ん中に 1 「白い石の朝」
川の水は、昨日より少しだけ冷たかった。
白い雲の影が流れの上をゆっくり横切って、石の上に小さな島をつくる。焼けた岩の匂いと、夕立の手前みたいな湿った風。キャンプ場の放送が遠くで途切れ、代わりにセミの声が濃くなる。
こうきが、つま先で小石をつついた。
「ねぇ、見て。魚」
水面が一瞬だけきらっと光って、輪が広がる。わたしはうなずいて、川原の白い石をひとつ拾った。手の中はひんやりして、夏みたいな匂いがした。
「約束。新学期も隣の席になれますように」
「それ、お願いっていうより念だよ。脳内校内放送で“席替え中止”って流しとく?」
「ずるい。じゃあ、わたしは“先生がくしゃみを三回する”呪いかけとく」
「効きそう」
こうきは笑って、同じような石を探しはじめる。白に近い、角の丸いやつ。わたしは白いリボンを結び直した。祖母に「結び目は優しくね」と教わったときの指の感触が、まだ手に残っている。
「ねぇ、こうき。川、増水してない?」
「午後にちょっと降ったからな。でも浅いとこだけ行けば大丈夫。俺、流れ読むの得意だし」
「得意って言う人に限って、ずぶ濡れになるやつ」
「じゃあ、りんは俺が濡れないように“念”しといて」
軽い顔。軽い言葉。昔からそう。怖がりなのに、怖がりを笑って追い越す。そういうところが好きで、そういうところにいつも助けられてきた。
テントの方から、渚の声が飛ぶ。
「りんー! スイカ冷えたー! 負けた人タネ飛ばし掃除ねー!」
遼は黙って手を振る。いつもみたいに、あまりしゃべらない。でも、目がちゃんと“見てる”目だ。わたしは「今行くー」と返して、もう一度だけ水面をのぞき込む。さっきの光は、もうどこにもなかった。
――助けて。
それは川の上ではなく、少し上流の茂みの影から落ちてきた。子どもの声。小さい、でもはっきり。
こうきが先に動く。
「大丈夫? どこ!」
「待って、こうき! 大人呼ぶから!」
「大丈夫。すぐ、戻る!」
足音が二歩、三歩。濡れた石の上でバランスを取るのが上手いのは、たぶん家がこの川に近いからだ。わたしも駆けだした。遼と渚がこちらを見る。
「りん、テントの人呼んで!」と渚。
「俺、管理棟に連絡する!」と遼。
茂みの切れ目から、細い腕が見えた。水を掴もうとして、掴めなくて、沈みかけている。年下の女の子。足が底に届いていない。
「待って!」
わたしの声は、水に吸い込まれた。こうきは迷わない。サンダルを蹴って、流れへ飛び込む。水しぶきが光に砕けて、わたしの頬に冷たい点を残した。
「こうき!」
「つかまって! 手、離すな!」
彼は女の子に近づき、腕をつかむ。あと少し、あと少しで浅瀬に戻れる――そう思った瞬間、強い流れが二人の間を割り込んだ。夕立前の見えない力。
「だめ! 戻って、戻ってよ!」
こうきの足が、川底を探す。見えた、と思った。けれど、水が縦に動いた。世界が、白くほどける。
「ロープ! ロープないの!?」と渚。
「こっち来て! 手、つなげ!」と大人の声。
遼が走り、渚が叫ぶ。わたしはテントの大人たちへ向けて声を出した。助けて。助けて、ください。言葉は何回も出たのに、ひとつとして覚えていない。覚えているのは、白い輪っかが流れていくのを目で追い続けたことだけ。
女の子は岸へ引き上げられた。泣いて、咳をして、生きてる音を出した。わたしは手が震えて、彼女の背中を摩る。
「ありがとう、本当にありがとう……!」と女の子の母親。
その言葉は、わたしの耳には届かない。届くのは、水の音だけ。
こうきが、見えない。
川は、ただ流れていた。
見つかったのは、その日の夕方だった。担架にのせられた彼は、もう返事をしなかった。わたしはリボンを握りしめて、ほどけないように、きつくしばった。
◇
葬儀の日、空はみずいろで、湿った花の匂いが遠くまで続いていた。黒い服の大人たちは、言葉をなるべく短くする。長い言葉は、泣いてしまうから。
渚がわたしの肘を軽くつついた。
「ね、りん。息、ちゃんとして。吸って、吐いて」
「してる……つもり」
遼が小声で言う。
「手、貸して。指、冷たい」
「……あったかい。遼の手、あったかい」
「うん。だから、いまはそれでいい」
わたしは泣かなかった。泣けなかった。泣くと、いなくなったことが本当になってしまう気がしたから。渚はハンカチを二枚バッグに入れていて、ひとつを無理やりわたしのポケットに押し込んだ。
「使わなくていい時は、使わなくていいからね」
「……うん」
終わってから、三人で川へ向かった。キャンプ場とは少し違う、住宅街の橋の下。夕立のあとで、水の色は重たい。わたしはポケットから白い石を二つ取り出す。ひとつは、こうきと一緒に拾った形に似ている。もうひとつは、今日拾ったばかりの、角の尖った石。
「りん」
遼が、小さく呼ぶ。手の中に、もうひとつ白い石。彼の手は温かい。渚は、わたしの肩に腕をまわしてくる。いつもより力が強いのに、痛くはない。
「投げるのは、逃げることじゃないよ」と渚。
「置いていくんだよ。ここに」
遼もうなずく。
「置く場所、決めるのは、りん」
わたしは白い石を握り直す。手の中で、冷たさが少しずつ消えていく。
「約束」
小さく声に出した。新学期も隣の席――その願いは、もう叶わない。なら、別の約束を。彼に、そしてわたしに。
「――ちゃんと生きる。……見てて」
石を、上流へ向けて投げた。思ったよりも低く、弧は短い。水面がひとつ、静かにゆれただけ。
「俺も」と遼が投げる。
「はい三点シュート!」と渚が投げて、変な回転で跳ねた。ぽちゃん、ぽちゃん、と二回音がして、それがなぜか可笑しかった。
「今の、反則でしょ」
「水にはルールないもん」
笑った。笑ったら、胸の奥がぎゅっと縮んだ。それでも、笑えた。
「それでいい」と渚。
「帰ろう」と遼。
「うん。……帰る」
わたしはリボンを結び直した。結び目は、さっきより少しだけ柔らかい。
◇ ◇ ◇
夏休みの終わり、教室の掃除当番で黒板を拭いた。チョークの粉が指につく。窓の外は夕焼けで、校庭の遊具が長い影になっていた。誰もいない廊下を歩くと、靴の音だけが続く。
「宿題、あと何ページ?」と渚。
「算数ドリル三。漢字ドリル二。……りんは?」
「同じくらい。分数、きらい」
「分かる。分数は友情を試す」と渚が真顔で言う。
「どんな友情?」
「ケーキを平和に分けられる友情」
「じゃあ、遼はきっと大丈夫。いつも真ん中で切る」
「うん。中点が好き」と遼。
わたしは笑ってうなずいた。世界から音が少しずつ減っていくみたいで、わたしはときどき立ち止まる。立ち止まるたび、ポケットの白い石が、ちゃんとそこにあるのを確かめる。
夜、リボンをほどいて、ゆっくりとかす。絡まったところは、指で少しずつほどく。結び直す瞬間、深く息を吸う。結び目ができたら、吐く。それを二回。祖母に教わった通り。眠る前の儀式。
「りん、明日いっしょに図工の材料買いに行こう」と渚のメッセージ。
「行く。……ありがとう」
「何に?」
「わかんない。けど、ありがとう」
「うん。じゃあ、明日」
「うん。明日」
泣かない、と決めたわけじゃない。ただ、まだ泣き方を思い出せないだけ。涙は、どこかに置いてきたみたいだ。あの川の上。白い輪っかが流れていくのを見ていた場所。
でも、朝になる。ランドセルを置く場所は同じで、鉛筆を削る音も同じ。違うのは、わたしの歩幅。少しだけ小さくなった歩幅に、二人が合わせてくれる。何も言わずに。
「来年、中学だね」と渚。
「制服って、スカート長さ選べるのかな」とわたし。
「資料に書いてある。ページ三。……メジャー貸す」と遼。
「頼りになるね」
「中点、得意だから」
春は、また来る。わたしが追いつけなくても。追いつけるように、結び直していけばいい。
◇ ◇ ◇
秋の手前、三人で川へ行った。雨は降っていなかったけれど、遠くの山は白いもやに包まれていた。わたしはポケットから、また白い石を取り出す。前に投げた場所とは少し違う。水の色も、匂いも違う。
「りん」と遼。
「うん。……今日は、軽く投げる」
「うん。肩、力入れないで」と渚。
「ねぇ、こうきに……見せたい?」と渚が続ける。
少し考えてから、首を横に振った。
「見せるんじゃなくて――知っててほしい。わたしが、ちゃんとここにいること」
「知ってると思う」と遼。
「うん。私もそう思う」と渚。
「じゃあ、投げるね」
「いってらっしゃい」と二人。
石は、小さく弧を描いた。水音は、思ったより小さかった。
「帰ろ。明日、制服カタログ見よ」と渚。
「メジャー持ってく」と遼。
「……うん。帰ろう」
帰り道、夕焼けが始まった。わたしはリボンを、もう一度結び直す。結び目は、さっきよりも少しだけ緩く。痛くないように。
家に着いたら、宿題をして、お風呂に入って、髪を乾かして、寝る。起きたらまた朝が来て、ランドセルを背負って、歩く。そうやって、春まで進んでいく。
春は、ちゃんと来る。川の水が、少しずつぬるくなる。風の匂いが、教室に入ってくる。桜が咲いて、入学式の文字が掲示板に貼られる。名前が並ぶ。名札をつける。
どれもまだ、少し遠い。けれど、遠いままでも、たしかに“そこ”にある。
わたしは、白い石を最後にひとつ握りしめて、ポケットに戻した。
「こうき。……ちゃんと生きるよ」
水音は、思ったより小さかった。




