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凛の花 1

 この街は、魔法で春を呼ぶ。


 高い鐘楼の影が石畳を斜めに横切り、露店の天幕のあいだから光が小さく跳ねる。焼き立てのパンの香り、濡れた木箱の匂い、遠くで鳴る馬鈴。現代ヨーロッパ風の衣と暮らし、けれど車も鉄道もなく、街は人の歩幅と風の速さで進む。


 わたし――星空りんは、広場の噴水の縁に片膝をつき、ひび割れた石に手を置いた。掌の内側に魔法陣の微細な紋がほどけ、光が水に落ちて淡く広がる。噴水の底に積もっていた泥が静かに分解され、くすんだ水は澄み、周りの花壇には小さな新芽が一斉に顔を出した。


 「わぁ……また咲いた!」


 子どもたちが声を上げる。さっきまで茶色だった土に、紫のクロッカスが三つ、白いデージーが五つ、ばらばらのリズムで生まれている。


 「ありがとう、聖女さま」


 パン屋の奥さんが籠に焼きたてを詰めて差し出す。表面に塩が白く吹いたパンがあたたかく、指先に幸福の重みが伝わる。


 「代金は要りません。街が元気なら、それで十分です」


 そう言うと、奥さんは頬を少し赤くして笑った。


 わたしの魔法は二つ。回復と癒し。前者は人に、後者は土地に効く。骨折、熱、毒、古い傷。干上がった畑、塩を吐いた土、疫病で枯れた林。どちらにも「戻る場所」をつくるのが、わたしの魔法だ。


 そんな大仰な言い方をいつ覚えたのか、自分でも分からない。ただ、二度目の生ではじめて気づいた。わたしは転生者だと。前の世界の記憶は断片的で、電灯の眩しさやガラスの冷たさを、ときどき夢の端で思い出す。それでも今のわたしにあるのは、魔法で触れたものを元の形へ導く感覚だけ。


 「りーん! また働いてる!」


 声のする方を向けば、茅ヶ崎渚が籠いっぱいの野草を抱えて走ってくる。いつも通り前髪が跳ねているのを、わたしはつい指で押さえた。


 「跳ねてる」


 「知ってる! でも直せない! りん、魔法で!」


 「髪は自助努力」


 「ひどい!」


 笑いながら、渚は籠からミントを抜き取ってわたしの鼻先に差し出す。すぅ、と涼しい香りが抜けていく。


 「今夜のスープに入れてあげる。うちに来るでしょ?」


 「うん。師匠の手伝いが終わったら」


 渚は薬草師の見習いで、わたしの幼馴染。彼女の家の台所はいつも暖かく、窓辺の花は季節を二歩くらい先に生きている。わたしの魔法も彼女の手も、どちらも「戻す」ではなく「育つ」を信じているのだと、ときどき思う。


 「りん」


 背後から低い声。振り向けば、夜警の制服を肩から羽織ったかずまさこうきが立っていた。陽に焼けた首筋、整えられた襟。真っ直ぐ立つのが似合う。


 「巡回?」


 「昼は広場、夜は城壁。今日は楽士の喧嘩もなくて平和だ」


 「平和が一番」


 「……ほんとにな」


 こうきはいつも、わたしを“聖女”ではなく“りん”として見る。病室で泣いている子に膝をつくときも、干からびた畑の真ん中に立つときも、彼は同じ距離で見て、同じ高さで声をかける。


 「今夜、三人で食べよう。渚んちで」


 「いいね。じゃあ僕は薪を持ってくる」


 「ありがとう、こうき」


 「礼はスープの後でいい」


 肩越しに片手をあげ、こうきは人混みへ紛れていった。彼の背中を見送ると、胸の真ん中がほんの少し温かくなる。昔から変わらない、わたしたち三人の温度。



 午後は診療所に移動した。わたしの師匠である老医師――リュカ先生の隣で、魔法陣の線を一本ずつ整える。診療所はいつも静かで、消毒した布と乾いた薬草の匂いがする。


 「次は腕の骨折の少年だ、りん」


 「はい」


 折れた骨を**正しい位置に“戻す”**のは、魔法の基本だ。骨と骨のあいだに光の線を通し、人体の記憶にそっと触れて「ここだったね」と教える。痛みを奪いすぎないように気をつける。痛みは体が自分の居場所を知るための印だから。


 「ありがとうございました!」


 少年の笑顔が弾ける。母親が何度も頭を下げる。その一礼一礼が、魔法陣の端に灯りを増やしていく。わたしの魔法は、人の礼で強くなる。これは経験から知ったこと。だから礼は、なるべく受け取る。


 夕暮れ、診療所の窓が橙に染まり始めるころ、こうきがドアをノックした。


 「先生、りん、借ります」


 「返却期限は今夜の月が昇るまでだ」


 「厳しい」


 「冗談だよ、若者。ちゃんと食べさせなさい」


 先生は笑って手を振った。


◇ ◇ ◇


 渚の家の台所は、いつものように季節よりもあたたかかった。鍋では根菜のスープがぐつぐつ煮え、ハーブの香りが小さく跳ねている。こうきが運んできた薪は火に呑まれ、火花がふっと弾けた。


 「おかえり、二人とも」


 「ただいま」


 「ただいま」


 この「ただいま」と「おかえり」を、わたしは魔法よりも大事に思っている。音の中に、人が人である理由が詰まっているから。


 「いただきます」


 匙の音、パンの割れる音、笑い声。ときどき、わたしの前世の断片がこういう音に重なる。白い皿、銀のカトラリー、電灯。けれどここにはランプの炎があり、木の匙があり、魔法の光がある。違うのに、懐かしい。


 「りん?」


 こうきが首を傾げる。


 「考えごと?」


 「ううん。美味しいなって」


 「それは考えごとじゃない」


 渚が笑う。三人で笑う。


 ――この夜は、長くは続かない。


 そんな予感がふっと横切る。魔法の感覚ではない。もっと個人的で小さな、生活の気配の中の違和感。わたしはそれを追い払うみたいに、スープをもう一口飲んだ。塩がほどけて、胃の底がほっとした。



 帰り道、こうきが玄関まで送ってくれた。石段に座り、靴紐を結び直していると、彼が急に真面目な声になる。


 「りん」


 「うん?」


 「……ありがとう」


 「どうしたの、急に」


 「いや。今日、広場が笑ってた。りんが噴水を直したからだ。仕事は、誰かの笑いに変わるのが一番だなって」


 「それは、こうきがいつも見回ってくれるからだよ」


 「僕は散歩してるだけだよ」


 「散歩にしては、真面目すぎる」


 ふたりで笑う。ふいに夜風が背中を撫でた。遠くで鐘が一つ鳴る。明日もまた、同じように始まる気がした。


 「おやすみ、りん」


 「おやすみ、こうき」


 ドアを閉める直前、彼は一瞬だけ真剣な目をして、何か言いかけて、やめた。わたしはその未完成の言葉のかけらを、胸のポケットにしまう。


 その夜、夢の端で、知らない雪が降った。前の世界の雪。掌に落ちてすぐ溶ける、速い雪。目が覚めてからも冷たさが残り、毛布を少し強く握った。


◇ ◇ ◇

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