白月亭に灯をともして 4(終)
玄関の光の斜めに、白い紙が揺れていた。
指先で端を押さえると、夜露を吸った紙は少しだけ柔らかく、インクはところどころ細く滲んでいる。りんは深く息を吸い、台所の入口に立つ母を見た。母は何も言わず、ただ小さく頷いた。りんは頷き返し、紙を開いた。
――りんへ。
最初の一行で、こうきの筆跡だと分かった。まっすぐで、余白の取り方が丁寧な字。
約束を破るようなやり方でごめん。出発は朝一番にした。昨夜まで何度も考えたけれど、いちばん卑怯じゃない方法がこれだと信じることにした。
君は強い。剣を振る腕の強さじゃない。毎朝、湯気を絶やさず、人の皿を見て必要なものを先に置ける強さだ。旅の真ん中には、必ず帰る場所が要る。君の家は、君が守ったときにいちばん強くなる。頼む。
渚の字に変わる。跳ねが大きく、紙も弾んで見える。
ほんとは連れて行きたかったんだよ! でもさ、あたしは宿で笑ってるりんちゃんが好き。いつか本当に外へ来たくなったら、その時は胸張っておいで。剣は抜かないで待ってるから(冗談)。
遼の字は細く、結び目のように確かだ。
必要になったら、この結びを思い出して。うさぎ、二度引き、右へ流す。ほどくときは痛くしない。君の“帰りたい”は君が決める。
最後に、またこうき。
地図は過去の風。今の風は、君が決める。〈白月亭〉の灯は、俺たちの道標になる。頼った。ありがとう。
追伸。一週間は、君の心を揺らした俺たちのわがままを薄めるための猶予だった。最後にもう一度約束する。俺たちは、また帰ってくる。
読み終えても、指は紙から離れなかった。胸の奥で、静かに何かが崩れて、また形をつくる音がした。涙は、出し惜しみをしなかった。頬を伝い、唇の端で少し塩辛い。
「……知ってたよ」
声にすると、軽くなる言葉がある。りんは紙を胸に当て、ゆっくりと目を閉じた。
「最初から、ちょっとだけ、分かってた」
母が近づいてきて、背中に手を回した。その手の温度は、いつもと同じで、いつもよりも少しだけ長くそこに留まった。
「ごめんね、と言うべきか、ありがとう、と言うべきか」
「ありがとう、でお願い」
りんは笑った。涙のせいで、笑い方が下手になっていた。
「朝、開けるね」
「ええ。開けましょう」
母が頷き、父が帳場から出てきた。父は手紙に目を落とし、短く息を吐いて、りんの肩を軽く叩いた。
「看板を、頼む」
りんは顔を洗い、白いシュシュを結び直した。結び目は強く、でも、ほどくときは痛くしない――遼の字を思い出しながら。
扉を押す。鈴が鳴る。朝の光が、いつも通り、石畳の上を浅く滑っていった。
◇
港まで走った。走りながら、走り終えたときの胸の痛さを先に想像して、息を整える。波止場には新しい轍が二本、まだ湿った木板の上にくっきり残っていた。船は出たばかりなのだろう。水面に描かれた線が、光の中でゆっくり消えていく。
「……行ってらっしゃい」
追いかける言葉は、風に溶けた。りんは立ち尽くし、波の小さな手招きのような動きを見つめた。
(私の足は、ここにある)
(私の手も、ここにある)
(灯りを落とさない手。帰ってくる人のための手)
目を閉じて、もう一度だけ、深く息をした。潮の匂いは、いつもの匂いだった。いつもの匂いが、今は少しだけ違って嗅ぎ分けられる自分に、りんは気づいた。
「帰ろう」
誰に向けたのでもない言葉を、口の中で確かめ、りんは踵を返した。
◇ ◇ ◇
その日からの日々は、よく働く日々だった。
朝のスープは少しだけ濃くした。港の塩加減と話の塩加減、どちらもお客に合わせるようになった。渚に教わった構えは、重い樽を持つときに活きた。遼の結びは、荷の口だけでなく、壊れた椅子の補修でも役に立った。こうきの「風を読む」は、帳面の数字と天気と客の波を重ねて考える習慣になった。
夜更け、台所の隅で手紙を取り出す。紙は少しずつ柔らかくなり、インクの色はほんの少しだけ薄くなる。けれど、字は消えない。りんはその上に、短い言葉を足す癖がついた。
「今日、灯りは落とさなかった」
「新しいお客さんが、『ただいま』って言ってくれた」
「渚のパンの焼き目の話、やっと意味が分かった」
小さな報告。返事は来ない。それでも、書く。
帰る場所は、呼びかけが上手い場所だ。
⸻
十年が経った。
看板は新しく塗り直され、〈白月亭〉の白い月は前よりも丸く輝いている。りんは二十七になり、髪は相変わらず耳より下で結ぶのが好きだ。白いシュシュは、日に焼けて少し象牙色になった。台所には新しい鍋が一つ増え、庭のハーブは根を太らせ、味は落ち着きを覚えた。りんは結婚し、夫と二人で店を回している。忙しい朝でも、笑う余裕を手に入れた。
ある春の午後、扉の鈴が鳴った。りんは「いらっしゃいませ」と言いかけて、言葉の形のまま止まった。
黒髪の剣士――もう青年と呼ぶには目の奥が深くなった――が、静かな笑みで言う。
「部屋、三つ。空いているか?」
振り返った二人も、それぞれに年を重ねていた。渚は相変わらず声が明るく、肩の線は少し丸くなった。遼は杖の先の石を替えたのか、光が柔らかい。
「……空いてます。いつもの角部屋と、廊下側」
りんは笑った。胸の奥が懐かしさでいっぱいになる。台所から夫が顔を出し、りんの表情ですべてを察して、静かに頷いて引っ込んだ。
「ただいま」
こうきが言った。
「おかえりなさい」
りんは言った。言葉は、自分でも驚くほど滑らかに出た。
渚が腰に手を当て、にやりと笑う。
「ねぇ、りんちゃん。あの時、置き手紙で置いてったの、ひどかったよね?」
りんはわざとらしく唇を尖らせ、肩をすくめた。
「ひどかったです。……でも、ありがとう」
遼が杖を持ち直し、静かに頭を下げる。
「灯り、ずっと見えてた」
「うん。落とさなかった」
カウンターに腰を下ろしたこうきが、ふっと目を細めた。
「白月亭の灯は、道標だ。十年前と同じに見えて、十年前とは違う」
「違います。鍋が増えて、塩の配合も変わって、パンの焼き目はもっと綺麗」
渚が声を上げて笑う。
「ほら、やっぱりりんちゃんは宿屋が似合う」
「……似合います」
りんは照れて、象牙色になったシュシュに触れた。
「お食事は?」
「腹ペコ」
「では、少し豪勢に」
魚の香草焼き、根菜のグラタン、ハーブのスープ、焼きたての丸パン。十年前と同じ、と言いながら、十年かけて積み重ねた手つきを一皿ずつに込める。三人は笑って食べた。涙は出さなかった。涙のかわりに、言葉と湯気と笑い声が、テーブルの上を行き交った。
食後、りんは帳場の引き出しを開け、古い封筒を取り出した。角は色褪せ、何度も撫でられて紙はやわらかい。
「返すね。ずっと預かってた」
こうきが首を横に振る。
「返してほしいわけじゃない。……ここにあるのがいい」
渚が照れたように笑う。
「りんちゃんの手元が、いちばん似合う」
「じゃあ、飾ります。うちの一番いい場所に」
「どこ?」
「帳場の横。帰ってきた人が必ず見るところ」
りんは頷き、封筒を小さな木枠にそっと収めた。白いリボンをうさぎ結びで結び、釘の頭に掛ける。光の方へかざすと、滲みの裏に十年前の朝の気配が薄く浮かんだ。
入口の鈴がちりんと鳴る。潮風とともに見知らぬ旅人の影が差した。港の旗は同じ方角へ気持ちよさそうに揺れている。灯台の灯はまだ昼には要らない。けれど、ここには灯りがある。誰かが帰るために。誰かが出発するために。
「鍵、どうぞ。二階の東側、並びで取ってあります。荷物を置いたら……パン、もう一度温めますね」
りんが三つの鍵を差し出すと、三人は顔を見合わせて笑った。
「了解」
「助かる」
「りんちゃんの“ただいまセット”だね」
りんは入口のランタンに火を入れた。火打ち石の音。ぱち、と小さな炎。蜂蜜色の光が食堂に広がり、三人の瞳にやわらかく映る。
(夢は遠くへ行った。でも、手の中で、ちゃんと叶っている)
看板の白い月は丸く、空は夕焼けにほどけていく。火の粉がひとつ、ふわりと舞い上がった。灯は揺れず、ゆっくりと、確かにそこに在り続けた。
⸻
(完)




