白月亭に灯をともして 3
昼と夜のあいだの時間は、宿屋にとって最も美しい。
窓の外はまだ明るいのに、食堂にはランタンの灯がひとつ、ふたつ。熱の落ちた鍋が呼吸のように静かに冷めていき、磨かれた食器が木の卓の上で微かな音を立てる。港の方角からは、帆をたたむ綱の軋みが遅れて届く。
りんは帳場の横に腰を下ろし、父の広げた帳面を覗き込んだ。数字の列は、慣れないと海の波みたいに見える。けれど、見慣れてくると、どの波が高いのか、どの波を越えればいいの
か、少しずつ分かってくる。
「釘と油が上がった分、チーズをひと箱減らしたのね」
「そうだ。週末に舟がもう一隻入れば、元へ戻せる」
「うん」
りんは鉛筆で小さく印をつける。数字の波に、印という白い泡がひとつ、ふたつ。
(地図は読めないけど、帳面は少し読めるようになった)
窓の外を、渚が通りかかった。肩に剣、片手に磨いた鍔。軽く掲げて、りんにだけ聞こえる声で言う。
「今夜、食後、少し時間ある? “安全第一の真似っこ”の続き、やろ」
「……ある。皿山が低くなったら」
指で“低く”を示すと、渚は声を立てずに笑って、奥へ消えた。
◇
夕餉の時間は賑やかだった。白身魚の香草焼きが冷めないうちに次の皿、パンが切れる前に次の籠。りんは客の癖を目で追い、渇く前に水差しを近づける。こうきは窓際で地図を折り、遼は宿の古い灯台の話を父から聞いていた。渚はパン籠の前に陣取り、焼き目を眺めてはほうっとため息をつく。
「この焼き目、綺麗。りんちゃん、パン、とても似合ってる」
「パンに似合う? ありがとう……かな?」
「褒めてる。すごく」
渚の言いかたは真剣だった。りんは少しだけ胸を張る。
(剣は振れなくても、パンは切れる)
(いや、剣もいつか、もう少し)
◇ ◇ ◇
夜、客の波が引く。皿の山が低くなる。母はカウンターの中、布巾を絞っている。遼は杖の石を布で磨き、こうきは鞘の口金を点検している。渚は空のジョッキを指で弾いて、ぽん、と小さな音を鳴らした。
「では、“宿屋式・冒険者ごっこ教室”開講」
「そんな立派なものじゃないでしょ」
遼が笑い、こうきが肩だけで笑った。りんは裏口から持ってきた長い箒を握る。木の感触が掌にやさしい。渚が正面に立ち、手振りで合図をする。
「構えは昨日と同じ。足は肩幅、腰を落として、顔は上げる。腕は振らない、体の向きで打つ」
「体で、打つ」
「うん、ほら」
渚が箒の柄の先に軽く触れた。りんの体が、触れた分だけ素直に揺れる。大げさにではなく、小さく。木と骨が、挨拶をするみたいに。
「もう一回」
りんは息を整え、肩と肘の余計な力を抜いた。箒の先が、空気の薄い膜を切る。音はしない。けれど、確かに、空気の向きが変わった。
「そう。いい」
渚が指を立てた。遼が手元の布を畳みながら言う。
「次は荷物の背負い方。りん、試しにこれを」
遼が床から革の袋を持ち上げる。中身は乾いた音を立てた。薬草と水袋、火打石、縄。りんが肩にかけると、体の重心が後ろへ引かれる。
「前で紐を交差させて。体の中心に荷を寄せる」
「こ、こう?」
「うん。背骨で持つ感じ。腕では持たない」
「背骨で……」
言葉で分かっても、体はすぐには分からない。りんは片足を半歩前に出して、重さの通り道を探す。足裏の三点に力が集まり、そこから上へ、背へ、首へ。
(重い。でも、立てる)
「いいよ」
遼は頷き、こうきが短く言った。
「りん」
「はい」
「立っているときの顔、悪くない」
「……顔?」
「覚悟の顔」
渚がくすっと笑い、母が布巾を絞る音が一瞬止まった。父は帳場の椅子に腰かけ直し、何も言わない代わりに、いつもより、少しだけ柔らかい目をした。
りんは荷を下ろして、少し肩を回す。肩甲骨が音もなく位置を変える。
(体の奥に、まだ使っていない筋肉がたくさんあるの、わかる)
(剣を振れなくても、立つことはできる)
◇
その晩、りんは薄い布の包みを開いた。中には、新しく買った手袋と、短い縄。手袋は丈夫な革、縄は腰に巻ける長さ。窓辺に置いて、ため息をひとつ。窓の外では、港の角灯がひとつ、ふたつ、風に揺れた。
「りん」
背後から母の声。りんは振り返る。
「はい」
「手袋、似合う」
「仕事にも使えるやつ」
「そうね。皿、割らないように」
母は笑って、りんの髪の結び目に手を伸ばした。白いシュシュをそっと撫でる。
「強く結ぶほど、ほどくのは難しい」
「……うん」
「でも、ほどくときは、痛くしないようにね」
母の指は、結び目を確かめるだけで、ほどかなかった。りんは首をすくめる。甘える時の癖だ。
「お母さん」
「なに?」
「私、ほんとうに、行きたいのかもしれない」
「知ってる」
驚くほどあっさりと、母は言った。
「お皿の運びかたが、いつもより速いもの。目が外を見てる」
「ごめん」
「謝ることじゃない。……ただ」
母は少しだけ目を伏せた。
「帰ってくる場所は、残しておく」
りんは強く頷いた。頷くという行為に、全身の力を使うみたいに。
◇ ◇ ◇
その後の数日は、走るように過ぎた。
朝は帳面、昼は食堂、合間に市場、夜は“真似っこ”。渚は冗談を交えて構えを直し、遼は紐の結び方を教え、こうきは“道の見かた”を短い言葉で伝えた。星の位置、風の匂い、足跡の深さ、泥の重み。知らない判断材料が、りんのなかにひとつずつ積み重なっていく。
「この結びは“うさぎ”。ほどきやすくて、ほどけにくい」
「うさぎ」
「うん。覚えやすい名は強いよ」
遼は手を取って、指の流れを整えた。りんの指は細く、器用に動くが、時々、早く動き過ぎる。遼は動きを少し遅くするよう合図した。
「ゆっくり、確かに」
「……はい」
渚は最後に必ず言う。
「りんちゃんは強い。強いけど、ぜんぶの強さを自分で持とうとしない」
「だって、重い」
「そう。だから、預ける。人に。道具に。場所に」
渚の言葉は軽やかに見えて、骨がある。りんはそれを、心のどこに置けばいいか、探しながら覚えた。
こうきは滅多に長くは語らない。けれど言うときは、短く、深い。
「地図は、過去の風」
「……過去の風」
「読む。今の風と、重ねる」
りんはその比喩が、とても好きだった。帳面も、過去の風かもしれない。数字という風。
◇
手のひらに小さな水ぶくれができた。革手袋で隠して、皿を運ぶ。痛みはある。でも、痛みがあると、体の場所が分かる。
「無理はしない」
こうきが言う。
「無理は……少しする」
「少し」
目が合って、りんは笑った。こうきの目尻も、ほんの少しだけ、笑った。
◇ ◇ ◇
出発の前日――ではなく、出発の前の夜。
食堂の灯は、いつもより少し早く落とした。客の波は穏やかで、港も静か。風が止む夜は、音が遠くまで届く。笑い声も、食器の音も、船べりの軋みも、灯台の鐘も。
りんは帳場で、父と一緒に翌朝の準備をした。釣銭の仕分け、予約帳の確認、パン籠の布の在庫、塩の補充。どれも、手が覚えている仕事だ。体が勝手に動く仕事だ。
(明日。明日、私は、どうしている?)
母は台所で、お粥の鍋を火にかけていた。明日の朝の、最初の客のために。握り飯も少し。朝、旅立つ人のために。
「りん」
母が呼ぶ。
「はい」
「足音が、速い」
りんは立ち止まり、足の置きどころを確かめた。板の節、釘の頭、良く鳴るところと鳴らないところ。
「静かに歩けるようになったら、半分、旅の人」
「じゃあ、私は、まだ、四分の一くらい」
「焦らない」
母は火を弱め、鍋の蓋を少しずらした。湯気が夜の空気に細く混ざる。
「寝なさい。明日は、早い」
「……うん。おやすみなさい」
りんは二階へ上がった。廊下は薄暗い。部屋の前で足を止める。隣の部屋――冒険者たちの部屋の方角から、低い声が聞こえた。耳をすませるほどではない。けれど、分かる。
「……頼む」
「……あぁ」
「……明日、朝一で」
言葉の切れ端が、夜の木目に吸い込まれる。りんは部屋に入り、扉を閉めた。窓を少しだけ開けて、潮の匂いを入れた。手袋を外し、短い縄を机に置く。白いシュシュをほどき、枕元に置く。
(明日)
目を閉じる。まぶたの裏を、港の角灯の光が薄く横切った。
◇ ◇ ◇
夢は見なかった。眠りは深くて、短かった。
朝、目を開けると、部屋の中がやけに静かだった。港の方角の音が、いつもより遠い。窓の外の空は薄く白い。鳥の声が一度、途切れて、また始まる。
「……もう行ってるのかな」
りんは起き上がり、靴紐を結んだ。白いシュシュを手に取り、髪を二つに分け、耳より下で結ぶ。結び目は、いつも通り強く――結びながら、気づく。指が、少し震えている。
階段を下りる。廊下を曲がる。玄関の扉が、半分だけ、開いている。いつもは父がきっちり閉める扉だ。外から、朝の光が斜めに伸びて床を照らしている。
扉の脇に、紙が一通。風に揺れて、端が床に触れる。
りんは、一歩だけためらってから、その紙を取った。
――りんへ。
まっすぐな字だった。インクが少しだけ滲んでいる。紙は、港の夜露を吸って、柔らかかった。
母が台所の入口に立っていた。鍋の湯気が、母の頬の横を細く登っていく。母は何も言わず、ただ目を細めた。りんは頷いて、紙を胸に当てた。
(読む前から、分かってる)
(分かってるけど、読む)
紙が、薄く震えた。りんの指も、少し震えた。
港の角灯はもう消えていた。朝の光だけが、静かに残っていた。
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