白月亭に灯をともして 2
夜も更け、客がそれぞれの部屋へ引きあげると、食堂は、食器と木の匂いだけが残る静かな部屋になる。ランタンが一つ、二つ、影を柔らかく揺らす。
「……ねぇ、聞いてもいい?」
渚がテーブルに頬杖をついた。三人はまだ席にいる。りんは片付けの手を止めた。
「何でも」
「宿屋の娘って、旅に出たいって思わない?」
(刺さった)
りんは笑って、曖昧に首を傾げる。
「思います。……ときどき、すごく」
「だよねぇ」
渚は嬉しそうに笑って、ジョッキの泡を眺めた。遼は静かに彼女に視線をやり、こうきは杯を置いた。
「旅は、いいよ」
こうきは短く言って、続けた。
「でも、旅は、なくすものも多い」
「なくす?」
「時間。体力。……時々、信じたいもの」
渚が口をすぼめる。
「現実的ぃ」
「現実は現実だからな」
遼は苦笑いし、ランタンの火を杖の先で軽くつついて揺らした。
「でも、見る価値のある景色はある。……峠の上から、雲が海みたいに流れてた」
「海みたいな雲」
りんは、口の中でゆっくり繰り返す。言葉は小さな灯だ。知らない景色を、少しだけ照らしてくれる。
「りん」
母の声が、カウンターの奥から柔らかくしたたった。
「お皿、下げながらでいいから、お話、少し聞きなさい」
「……うん」
母は、りんの背中に「大丈夫」と指で書いた。その指先の温度を、りんは背中で受け止める。
「冒険者に、憧れるのか?」
こうきがまっすぐ見て言った。問いは真ん中に置かれた。逃げ場のない正直さ。りんは頷いた。
「少しじゃなくて、かなり」
渚が嬉しそうに笑い、遼が目だけで「よく言った」と伝える。こうきは杯を回して、火を見た。
「いい顔をする」
「顔?」
「何かを好きだって顔」
(……あ、今、褒められた?)
頬が熱くなり、りんは慌てて水差しをつかんだ。
「水、淹れますね」
「ありがとう」
四人の間に、小さな間が置かれる。夜の音――遠くの波、廊下のきしみ、ランタンの微かなうなり――が、静けさの隙間を埋める。
りんは、口の中でそっと言ってみた。
「……いつか、外の世界に行ってみたい」
母の手が、ぴたり、と止まる音がした。ほんの一秒。すぐに動き出したその手は、いつも通りだった。いつも通りを演じる技を、母もよく知っている。
「似合うと思う」
渚がさらっと言う。
「けれど、外は簡単じゃない」
遼が穏やかに続ける。
「怪我も、裏切りも、道に迷うことも」
「怖いですか?」
「怖いよ」
こうきは、嘘をつかない。だから、その「怖い」は、りんの胸にすとんと入った。怖い。それでも。
「……それでも、見てみたい」
自分の声が、小さく震えた。けれど、はっきりしていた。自分でも驚くほど、はっきりしていた。
母が、その音のない答えに、目を伏せるのが見えた。父は帳場から出てきて、水差しを受け取り、何も言わずに置いた。
「ねぇ、りん」
渚が、少し声を落とした。
「明日、市場で“冒険者ごっこ”しない? 買い出しのついでに」
「えっ」
「木の棒振るだけでも、たのしいよ」
「渚」
遼が苦笑する。こうきは肩をすくめた。
「……安全に、な」
母が、りんの方を見た。りんは少しだけ首をすくめて、笑った。
「仕事、します。……でも、ちょっとだけ」
母は、息をひとつ吐いて、うなずいた。ランタンの火が、母の横顔の影を薄くした。
◇ ◇ ◇
翌朝の買い出しは、いつもより軽かった。いや、気持ちが軽かった。麻袋の重さは変わらないのに、足がよく動く。港の市の入り口で、渚が待っていた。こうきと遼は、少し離れたところで、果物や薬草を見ている。
「おはよ、りんちゃん」
「おはようございます。……えっと、その」
渚は拾った木の棒を、くるりと回して見せた。
「じゃ、いきますか。安全第一、恥ずかしさは第二。いける?」
「いけます……たぶん!」
りんは拾った細い枝を、棒のように構えた。背筋を伸ばす。空気が少し、澄む。
「構えは悪くないよ。足はもう少し開いて。腰は落とす。顔は上げる。……そう、いい」
渚は楽しげに目を細め、ちゃらん、と鞘から剣を一寸だけ抜いて光らせ、すぐに収めた。市の真ん中で抜くわけにはいかない。抜かずに教えるのが、渚の流儀だ。
「えい!」
りんは小さく振った。木の先が、空気を切っただけだが、心臓が一拍、強く跳ねた。
「うん。じゃ、もう一回」
「えい、やっ」
「よし。じゃ、最後は“冒険者っぽいポーズ”やろ」
「ぽ、ポーズ?」
渚は腰に手を当て、片足を半歩前に出し、顎を少し上げ、港の方を見上げた。堂に入っている。りんは笑って、真似てみる。潮風が髪を揺らした。白いシュシュが、光をはじく。
(……楽しい)
遼が、少し離れたところで手を振った。
「りん、油と釘、買った」
「ありがとうございます!」
こうきは、果物を一つ掲げて見せた。
「甘いらしい。宿で切ろう」
「やった!」
――ごっこはごっこ。分かってる。けれど、分かっていても、心は跳ねる。夢見る心は、理屈より先に走るようにできている。
◇
昼過ぎ、〈白月亭〉の食堂はまた忙しくなった。航路の話、商談、楽師の小さな歌。りんは皿を運び、客の顔を見て、微笑みを返す。こうきたちは、窓際の席で地図を広げていた。時々、指で線をなぞり、頷き合い、また畳む。
「……今度の依頼、北西の森?」
「あぁ。道に“古いくぼみ”がある。地図にない。増水で道が変わったのかもしれない」
「橋は?」
「あるか、もしくは流されたか」
「現地で判断だな」
こうきと遼の会話は、無駄が少ない。渚がそれを、ひょい、ひょい、と軽く飛び越えるように冗談で繋ぐ。三人は、それぞれ違う形なのに、一緒の形をしている。
(……いいな)
りんは、彼らの地図の折り目を見つめた。折り目は道だ。折られ、開かれ、また折られた跡が、薄い線になって、紙の上に残っている。
(いいな、って思うなら、どうするの?)
今日のりんは、自分に問いを向けるのが上手かった。
◇ ◇ ◇
夜、客が引きあげ、皿の山が低くなったころ、りんは意を決したように顔を上げた。テーブルの三人に向かって、息をそっと吸い、言葉を選ぶ。
「……お願いがあります」
渚が目を丸くし、遼が目だけで続きを促す。こうきは杯を置いた。
「一緒に、連れて行ってください」
言って、胸の中で何かがはっきりとした。言葉にして初めて、輪郭がつくことがある。りんは、それを知った。
母の手がまた止まる音がした。父の視線が、静かにりんの横顔を撫でる。りんは、正面だけを見た。
「俺たちは……」
こうきは短く息を継いで、言葉を探した。渚は口を開いて閉じ、遼は一度、天井の梁を見た。
「俺たちは、一週間後にこの町を出る」
静かな声。約束とも、予告ともつかない響き。
「それまでに、もう一度考えよう。……それがいい」
「一週間」
りんは、その言葉を胸の中に置いた。重くも軽くもない、ちょうどよい重さの石みたいに。母が、深く息をして、遠くを見る目をした。
「一週間」
もう一度、りんは繰り返した。言葉は、決意に変わる準備運動を始める。
◇ ◇ ◇
その夜、りんは遅くまで、荷物のことを考えた。必要なもの、いらないもの、持っていきたいもの、置いていくもの。紙に書き出す。手が止まるたび、母の足音が台所の隅を行き来する。
「……お母さん」
「なに?」
「もし、もしもだけど、私が、外に出るとして。……帰ってきても、いい?」
母は、火を弱め、振り向いた。
「いつでも。家は、帰ってくるためにある」
「そっか」
言葉は簡単だった。簡単な言葉は、ありがたい。
「でもね」
母は、りんの額に前髪を払う指先で触れた。
「自分の“帰りたい”が、どこにあるかは、自分で決めなさい」
「……うん」
ランタンの火が、りんの瞳の中に小さく揺れた。
⸻
翌朝は、驚くほど晴れていた。港の旗が、同じ方角へ気持ちよさそうに揺れる。りんは麻袋を抱え、白いシュシュを強く結び直し、深呼吸を一つした。
(一週間。私の心と、世界の心の、準備期間)
そう決めて、扉を開ける。
扉の鈴が鳴った音が、不思議と、いつもより澄んで聞こえた。




