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白月亭に灯をともして 1

 港町レリシアの朝は、塩とパンの匂いが合図だった。


 波止場の方から潮騒が届くころ、宿屋〈白月亭〉の厨房には、もう火が入っている。鉄鍋の底でバターが低く歌い、焼いた玉ねぎが甘い湯気を立てる。その横で、母はスープの味を見て、父は焼きたての丸パンを布で包む。表の看板をひっくり返すのは、りんの役目だった。


 「おはよう、世界。今日も“安全運転”でお願いします」


 誰にともなく小さく礼をして、りんは扉を押す。


 看板の「準備中」を「営業中」に返す。空は薄い青。遠くで、朝の鐘がゆっくり二度、街を起こす。


 「りん、水差しお願い。あと、塩とハーブ」


 「はーい。ハーブは庭のまま?」


 「うん、タイムとローズマリー。少し強めで」


 母は、鍋から顔だけこちらに向けて、ほんの少し笑った。りんは頷いて裏庭へ走る。朝露が草の先で光っている。指でつまんだ葉から、目が覚めるような香りが立った。


 (冒険の匂いって、きっとこういうのだ。ちょっとだけ痛い、でも癖になる匂い)


 ハーブを抱えて戻ると、父が大きな皿を持ち上げながら言った。


 「今日の船は三隻だそうだ。港で荷ほどきが始まる。……忙しくなるぞ」


 「了解。足、動かします」


 りんは自分の足首をぽんと叩く。肩まであるプラチナの髪を、耳より下で二つに結び直し、大きな白いシュシュをきゅっと締める。朝一の“儀式”だ。気合いの結び目は、ほどけない。



 最初の客は商人だった。次は魚売りたち。彼らはスープとパンを、出航までの時間で胃に収めていく。取引の話、相場の話、船長の愚痴。〈白月亭〉の朝は、街の小さな議会だ。


 「嬢ちゃん、スープおかわり」


 「はーい。塩は控えめにします?」


 「今日は濃い目で頼む。海風にやられちまってな」


 どうしても朝の客は急ぐ。「ありがとう」が言えない代わりに、小さく会釈をする人が多い。りんは、そういう会釈が結構好きだった。言葉より正直に見えるからだ。


 「りん、三番テーブルにジャムとバターね」


 「了解、出します」


 トレイの上、丸パンの割れ目に湯気が宿る。ナイフが金色の表面を割る音は、ちょっとした勇者の剣みたいに爽快だ。――いや、比喩が悪い。パンは敵じゃない。毎朝、勝手に勇者になるのはやめなさい、りん。脳内でひとりツッコミを入れて、口角だけで笑う。


 昼前、客がひと段落すると、父が帳場から顔を出した。


 「りん、買い出しどうだ?」


 「リストお願いします」


 「塩、干し肉、ランタン油、釘が少々。それから……」


 父は少し間をおいて、厨房の母を見る。母は小さく頷いた。


 「チーズも。いつもの店でいいわ」


 「了解……あ、私、ついでに港の市、見てもいい?」


 「……見すぎるなよ。転がってる“冒険話”は拾うな」


 「拾いません。ちょっと眺めるだけ」


 父は笑い、麻袋をりんの肩にどさりと乗せた。ずしり、と重い。


 「おっと……。了解、筋トレも兼ねます」


 「はは。無茶はしない」


 りんはドアを押し、光の中へ出た。潮の匂いと、どこかで焼かれている串肉の匂いが混じる。石畳の上を、朝の光が浅く滑っていく。



 港の市は、今日も色が騒いでいた。染め物、香辛料、薬草、魚、金属、革。声と値札と太陽が、同時に体に降ってくる。りんは麻袋を肩に抱えなおし、店主たちに順に挨拶して回る。


 「お、りんちゃん。チーズなら今朝のがあるよ」


 「いつもの半分で。あと釘と油も、値段、変わらない?」


 「油が少し上がったな。南の道が泥でな」


 「了解。宿代に転嫁しないように、私がたくさん働きます」


 「はは、いいねぇ」


 やりとりの合間、りんは港の端に目をやる。見慣れない帆印の船が一隻、静かに据えられていた。船べりには、古い紋章が刻まれている。白い鳥と波。


 (新しい風、来た)


 思う暇もなく、背後から軽い声が飛んできた。


 「ねぇそこの子、角のパン屋、どっち?」


 振り返ると、背丈の高い女性が荷袋を片手に立っていた。砂色の短髪、黒い外套。目が笑っている。


 「角を右に二つ、左に一つ。煙突に三本線の店です」


 「三本線ね、ありがと。……あ、良ければおすすめの具、教えて?」


 「今ならトマトとハーブチーズが最高です」


 「任せた。帰りに寄る」


 軽い足取りで去っていく。その背の鞘に、日差しが撫でた。剣が、ぱっと光る。


 (……冒険者さんだ)


 胸の奥が、わずかに鳴った。


◇ ◇ ◇


 昼をだいぶ過ぎたころ、りんが帰ると、宿の前に三人が立っていた。荷を負い、埃をかぶって、でも顔は明るい。


 「こんにちは。部屋、三つ空いているか?」


 そう言ったのは、黒髪で切れ長の目の青年だった。背筋がまっすぐで、動作が静か。腰の剣は無駄のない造りだ。こうき、と名乗った。


 「私が渚。えっと……腹ペコです」


 さっきの短髪の女性が、悪びれなく笑う。渚。鞘の光を思い出す。


 「遼です。……できれば、湯を借りたい」


 最後の一人は、落ち着いた声で言った。肩に掲げた杖の先が、微かに光る。服装は軽いが、裾に古い紋が縫い込まれている。


 「いらっしゃいませ。〈白月亭〉へようこそ。三名様、二階の角部屋と廊下側を、湯は裏庭の小屋、夕餉は日没とともに――」


 「おお、早い」


 渚が目を丸くする。こうきが、静かに笑って頷いた。


 「助かる。少しのんびりしたい」


 「のんびり大歓迎です。お荷物、お持ちします」


 りんは肩の麻袋を下ろし、代わりに三人の荷の一部を受け取った。按配は心得ている。重心の置き方も。宿の娘は、力の入れどころを知っているのだ。


 「嬢ちゃん、手慣れてるね」


 「宿屋生まれ宿屋育ちです」


 「頼もしい」


 階段をあがる途中で、渚が小声で言った。


 「……ねぇ、パン屋、三本線、正解だった」


 りんは思わず笑った。


 「良かった。あの店、塩加減が上手いです」


 「塩加減、大事」


 廊下に三人の笑いが柔らかく響く。りんの胸の奥でも、何かが柔らかくなった。



 夕餉は、少し豪勢にした。旅人に喜ばれたい、という気持ちは、宿屋の娘に生まれつき備わるものである。白身魚の香草焼きと、根菜のグラタン、ハーブのスープ。丸パンには、昼前に仕入れたチーズを忍ばせた。


 「うまい」


 最初に短く言ったのは、こうきだった。


 「うん、うまい。これ、危ない。食べ過ぎる」


 渚はすでに二つ目のパンを裂いている。


 「塩……いいな。海の塩だ」


 遼はスープの表面を見ながら、穏やかに頷いた。


 「ありがとうございます。……塩は、うちの“秘密兵器”です」


 「秘密兵器?」


 りんは指を口に当てた。


 「内緒です」


 渚が声を立てて笑うと、客の一組がそちらを見て笑い返した。食堂の空気が、少し明るくなる。母はカウンターの向こうから静かに目を細め、父は帳場に座って、手元の帳面を閉じた。


 「旅は、どちらから?」


 父が尋ねる。


 「北の峠を越えてきた。……雪がまだ残っている」


 「この町は初めてか?」


 「私は二度目。ふたりは初めて」


 渚がパンを頬張りながら答え、遼が小さく頷いた。


 「港の夕暮れ、綺麗だよね」


 「あぁ。……明日は灯台まで歩くつもりだ」


 「いいなぁ」


 思わず声が出て、りんは自分の口を押さえる。母と目が合い、母が「仕事」と口の形だけで言う。りんはぺこりと会釈した。――はい。今は宿屋の娘。冒険者の“真似”は後で。


◇ ◇ ◇

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