未来の日記 3 「ページの終わり、光の手前で」(終)
春の気配が、すこしずつ街の角に宿りはじめていた。
朝の空気の中に、ほんのりとした土の匂いが混ざる。
通学路の並木の枝先では、まだ固い蕾が、小さな音を立てるようにふくらんでいる。
風の冷たさは残っているのに、陽射しの色だけが柔らかく変わっていく。
りんは、胸の前で黒いノートを抱えていた。
ページを開くたびに、そこに描かれていた“未来”が、
ゆっくりと自分の現実に近づいていくのを感じる。
「桜が咲くころ、彼は遠くへ行く。」
その一行が、りんの頭から離れなかった。
もうすぐページが終わる。
未来の終わりが近いことを、りんは知っていた。
けれど、手放せない。
それが“終わり”のノートでも、
こうきとの日々が描かれている限り、まだ心のどこかで繋がっていられる気がした。
◇
図書館の扉を押すと、ほこりと紙の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。
窓際の席には、いつものようにこうきがいた。
彼の背中は、やさしい光の中で輪郭を透かしている。
その姿を見ただけで、りんの胸は少し痛くなった。
「おはよう」
「おはよう、こうきくん」
二人のあいさつは短い。
けれど、その一瞬の中に“好き”という言葉の影が静かに滲んでいる。
何度も重ねた放課後の空気が、少しだけ違って感じられた。
机の上には、古い文庫本が一冊。
背表紙には薄く金色の線。
あの日、二人が同じ棚で見つけた本だった。
「これ、読んでたの?」
「うん。……でも、途中でやめたんだ」
「どうして?」
「最後のページを、りんといっしょに読みたかった」
言葉の奥が、少しだけ照れている。
その不器用な優しさが、りんの心を静かに撫でた。
ページをめくるたび、指先がほんの少し触れる。
紙をめくる音よりも、その距離の方が、胸に響いた。
机に落ちる光が、二人の影をやわらかく重ねていく。
どちらからともなく、息を潜めた。
会話がなくても、心の中ではずっと話をしているような時間。
りんは、彼の横顔を盗み見る。
まつげの長さも、ページを追う瞳の動きも、
もう何度も見たはずなのに、今日はやけに綺麗だった。
◇
外の風が、桜の枝を鳴らしている。
季節が音を立てて近づいてくる気がした。
「……ねえ、こうきくん」
「ん?」
「春休み、どこか行くの?」
声に出した瞬間、自分でも震えを感じた。
その問いをしたら、もう元には戻れない気がして。
こうきは一瞬、ページを閉じて、窓の外を見た。
桜の蕾が、まだ開きかけのまま、光を飲み込んでいる。
「……父さんの仕事でね。引っ越すかもしれない」
りんの心臓が小さく跳ねた。
予感していた。ノートにも書かれていた。
それでも、目の前で聞くと、世界がほんの少し傾いた。
「いつ……?」
「来週」
沈黙が、二人の間に降りた。
何を言っても、この距離を変えられない。
言葉が“届く”よりも先に、“離れていく”音が聞こえるようだった。
「やだな」
りんの声は、泣き声にも似ていた。
こうきは、静かに手を伸ばす。
りんの手の上に、自分の指先を重ねた。
少し冷たくて、それでも安心する温度。
「りん。――ありがとう」
「なにが?」
「未来を、少しだけ怖くなくしてくれた」
彼の言葉が、心の奥でゆっくりと溶けた。
涙が落ちる代わりに、りんは微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
部屋の灯りを落とすと、黒いノートが静かにひらいた。
最後のページ。
インクは薄く、まるで春の光に透けるようだった。
「明日、彼に会う。
図書館の窓のそばで。
桜が咲く前に。
“さようなら”の代わりに、ひとことだけ言葉を交わす。」
その下に、にじんだ小さな文字が続いていた。
「――ありがとう。
未来のわたし。」
りんはページの上に指を置いた。
泣いていないのに、胸の奥がじんわり濡れていく。
ページの終わりが、心の奥で“今”と重なっていく。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
空は薄く曇り、光がやさしく街を包んでいた。
りんは、黒いノートを抱えて図書館へ向かう。
いつもの坂道。
でも、今日は足取りが少し違った。
彼に会うのが“最後”だと知っているから。
それでも行くのは、まだ言えていない気持ちがあったから。
扉を押すと、ほこりの香りが迎えた。
窓際の席には、こうきがいた。
いつもと同じ笑顔。
けれど、その笑顔が、世界のどこよりも優しかった。
「来てくれると思った」
「うん。……これ、渡したくて」
りんは、黒いノートを机の上に置いた。
ページの端が、ほんの少し震えていた。
「それ、りんの?」
りんは小さく首を振り、微笑んだ。
「ううん。……ずっと、“未来”のものだったのかも」
りんはページを開いた。
風がそっと吹き抜けて、最後のページが自然にめくられる。
そこには、今の二人の姿が描かれていた。
りんがノートを渡し、こうきが見つめる――まさにこの瞬間。
「……本当に、未来の日記だったんだね」
「うん。でも、もうここで終わり」
その言葉に、春の光が静かに揺れた。
りんは笑おうとして、少しだけうつむく。
沈黙が訪れる。
けれど、その沈黙は悲しみではなく、
互いの想いを包み込むように、あたたかかった。
「また……会えるかな」
こうきの声は、風の音よりも小さかった。
りんは顔を上げて、やさしく笑う。
「うん。――未来が、ちゃんと続いてるなら」
ふたりは、そのまま席を立った。
扉を押すと、春の風が頬を撫でた。
少し冷たくて、それでいてやさしい風だった。
門のそばまで歩くと、桜の枝が風に鳴った。
まだ咲ききらない蕾が、薄い空に小さく揺れている。
こうきがノートを抱えたまま、振り返る。
りんは微笑み、言葉を飲み込む。
それだけで、すべてが伝わった。
光の中に滲んでいく彼の姿が、春の色に溶けていく。
――好き。
胸の奥で、その言葉が静かに芽吹いた。
声にはならなかったけれど、風が代わりに運んでいく。
りんは目を閉じて、風に向かって小さく呟いた。
「ありがとう。
わたしの未来。」
淡い光が頬をなでた。
どこか遠くで、桜が一輪だけ、音もなく開いた。
そしてりんは、静かに歩き出した。
もう何も持たない両手に、
春の温度だけが、やさしく残っていた。
⸻
『未来の日記』 完




