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未来の日記 3 「ページの終わり、光の手前で」(終)

 春の気配が、すこしずつ街の角に宿りはじめていた。

 朝の空気の中に、ほんのりとした土の匂いが混ざる。

 通学路の並木の枝先では、まだ固い蕾が、小さな音を立てるようにふくらんでいる。

 風の冷たさは残っているのに、陽射しの色だけが柔らかく変わっていく。


 りんは、胸の前で黒いノートを抱えていた。

 ページを開くたびに、そこに描かれていた“未来”が、

 ゆっくりと自分の現実に近づいていくのを感じる。


「桜が咲くころ、彼は遠くへ行く。」


 その一行が、りんの頭から離れなかった。

 もうすぐページが終わる。

 未来の終わりが近いことを、りんは知っていた。

 けれど、手放せない。

 それが“終わり”のノートでも、

 こうきとの日々が描かれている限り、まだ心のどこかで繋がっていられる気がした。



 図書館の扉を押すと、ほこりと紙の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。

 窓際の席には、いつものようにこうきがいた。

 彼の背中は、やさしい光の中で輪郭を透かしている。

 その姿を見ただけで、りんの胸は少し痛くなった。


 「おはよう」


 「おはよう、こうきくん」


 二人のあいさつは短い。

 けれど、その一瞬の中に“好き”という言葉の影が静かに滲んでいる。

 何度も重ねた放課後の空気が、少しだけ違って感じられた。


 机の上には、古い文庫本が一冊。

 背表紙には薄く金色の線。

 あの日、二人が同じ棚で見つけた本だった。


 「これ、読んでたの?」


 「うん。……でも、途中でやめたんだ」


 「どうして?」


 「最後のページを、りんといっしょに読みたかった」


 言葉の奥が、少しだけ照れている。

 その不器用な優しさが、りんの心を静かに撫でた。


 ページをめくるたび、指先がほんの少し触れる。

 紙をめくる音よりも、その距離の方が、胸に響いた。

 机に落ちる光が、二人の影をやわらかく重ねていく。


 どちらからともなく、息を潜めた。

 会話がなくても、心の中ではずっと話をしているような時間。

 りんは、彼の横顔を盗み見る。

 まつげの長さも、ページを追う瞳の動きも、

 もう何度も見たはずなのに、今日はやけに綺麗だった。



 外の風が、桜の枝を鳴らしている。

 季節が音を立てて近づいてくる気がした。


 「……ねえ、こうきくん」


 「ん?」


 「春休み、どこか行くの?」


 声に出した瞬間、自分でも震えを感じた。

 その問いをしたら、もう元には戻れない気がして。


 こうきは一瞬、ページを閉じて、窓の外を見た。

 桜の蕾が、まだ開きかけのまま、光を飲み込んでいる。


 「……父さんの仕事でね。引っ越すかもしれない」


 りんの心臓が小さく跳ねた。

 予感していた。ノートにも書かれていた。

 それでも、目の前で聞くと、世界がほんの少し傾いた。


 「いつ……?」


 「来週」


 沈黙が、二人の間に降りた。

 何を言っても、この距離を変えられない。

 言葉が“届く”よりも先に、“離れていく”音が聞こえるようだった。


 「やだな」


 りんの声は、泣き声にも似ていた。


 こうきは、静かに手を伸ばす。

 りんの手の上に、自分の指先を重ねた。

 少し冷たくて、それでも安心する温度。


 「りん。――ありがとう」


 「なにが?」


 「未来を、少しだけ怖くなくしてくれた」


 彼の言葉が、心の奥でゆっくりと溶けた。

 涙が落ちる代わりに、りんは微笑んだ。


◇ ◇ ◇


 その夜。

 部屋の灯りを落とすと、黒いノートが静かにひらいた。

 最後のページ。

 インクは薄く、まるで春の光に透けるようだった。


「明日、彼に会う。

 図書館の窓のそばで。

 桜が咲く前に。

 “さようなら”の代わりに、ひとことだけ言葉を交わす。」


 その下に、にじんだ小さな文字が続いていた。


「――ありがとう。

 未来のわたし。」


 りんはページの上に指を置いた。

 泣いていないのに、胸の奥がじんわり濡れていく。

 ページの終わりが、心の奥で“今”と重なっていく。


◇ ◇ ◇


 翌日の午後。

 空は薄く曇り、光がやさしく街を包んでいた。

 りんは、黒いノートを抱えて図書館へ向かう。

 いつもの坂道。

 でも、今日は足取りが少し違った。


 彼に会うのが“最後”だと知っているから。

 それでも行くのは、まだ言えていない気持ちがあったから。


 扉を押すと、ほこりの香りが迎えた。

 窓際の席には、こうきがいた。

 いつもと同じ笑顔。

 けれど、その笑顔が、世界のどこよりも優しかった。


 「来てくれると思った」


 「うん。……これ、渡したくて」


 りんは、黒いノートを机の上に置いた。

 ページの端が、ほんの少し震えていた。


 「それ、りんの?」


 りんは小さく首を振り、微笑んだ。


 「ううん。……ずっと、“未来”のものだったのかも」


 りんはページを開いた。

 風がそっと吹き抜けて、最後のページが自然にめくられる。


 そこには、今の二人の姿が描かれていた。

 りんがノートを渡し、こうきが見つめる――まさにこの瞬間。


 「……本当に、未来の日記だったんだね」


 「うん。でも、もうここで終わり」


 その言葉に、春の光が静かに揺れた。

 りんは笑おうとして、少しだけうつむく。


 沈黙が訪れる。

 けれど、その沈黙は悲しみではなく、

 互いの想いを包み込むように、あたたかかった。


 「また……会えるかな」


 こうきの声は、風の音よりも小さかった。

 りんは顔を上げて、やさしく笑う。


 「うん。――未来が、ちゃんと続いてるなら」


 ふたりは、そのまま席を立った。

 扉を押すと、春の風が頬を撫でた。

 少し冷たくて、それでいてやさしい風だった。


 門のそばまで歩くと、桜の枝が風に鳴った。

 まだ咲ききらない蕾が、薄い空に小さく揺れている。


 こうきがノートを抱えたまま、振り返る。

 りんは微笑み、言葉を飲み込む。

 それだけで、すべてが伝わった。


 光の中に滲んでいく彼の姿が、春の色に溶けていく。


 ――好き。


 胸の奥で、その言葉が静かに芽吹いた。

 声にはならなかったけれど、風が代わりに運んでいく。


 りんは目を閉じて、風に向かって小さく呟いた。


 「ありがとう。

  わたしの未来。」


 淡い光が頬をなでた。

 どこか遠くで、桜が一輪だけ、音もなく開いた。


 そしてりんは、静かに歩き出した。

 もう何も持たない両手に、

 春の温度だけが、やさしく残っていた。



『未来の日記』 完

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