未来の日記 2 「雨の匂い、透明の傘」
朝は曇りだった。
空の色は灰色に近く、りんは玄関で黒いノートを開いていた。
「傘を忘れる。
透明の匂いが、近づいてくる。」
その一文を見て、りんは小さく息をついた。
「……忘れないようにしなきゃ」
そうつぶやきながら、しっかりと傘を手に取る。
ノートを閉じると、紙の匂いがほのかに残った。
そのとき、窓の外ではまだ雨は降っていなかった。
空気は重たく、街全体が静かな膜に包まれているようだった。
◇
昼を過ぎたころ、校舎の窓を叩く雨の音が聞こえてきた。
最初は小さく、やがて雨脚は強くなり、廊下の向こうまで響いてくる。
放課後、昇降口に並ぶ傘の列の中に、りんの傘だけが見当たらなかった。
「……ない」
教室にも、ロッカーにも、置きっぱなしではなかった。
朝、確かに手に持って出たはずなのに。
「……まさか」
ポケットの中で、黒いノートがわずかに温かい。
りんは立ち止まって、ページをめくった。
朝見たページの文字が、少しだけ変わっている。
「傘を“持っていたのに”、忘れてしまう。
透明の匂いが、近づいてくる。」
文字の端がにじんで、まるで笑っているように見えた。
その瞬間、りんは胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。
抗えない未来――けれど、どこか優しい。
◇
昇降口の屋根の下では、濡れた足音が続いていた。
誰かの笑い声、誰かの冗談、誰かのため息。
りんは輪の端にも入らず、階段の途中で立ち止まった。
踊り場の角を曲がると、透明な天井がすっと視界に差し込む。
ビニール傘。
丸い骨の先に小さな留め具。
雨粒が弾けて、光の粒になって跳ねる。
「――りん」
名前を呼ばれて、心臓が一拍、強く跳ねた。
透明な屋根が、りんの頭上にすべり込む。
こうきが、傘の柄を少し傾けた。
「忘れたんだよね」
声は雨よりも静かで、はっきりしていた。
「うん。……助かる」
傘の内側の空気は少し温かく、
ビニールの匂いが、鼻の奥に淡く広がる。
ノートに書かれていた通りの、透明の匂い。
「駅まで、いっしょに行こう」
差し出された言葉は、提案というより、確認の音だった。
りんは半歩、近づく。
肩と肩が触れない距離を、目で測り直す。
「歩幅、合わせるね」
こうきが何気なく言って、
ほんとうに、りんの歩幅に合わせて歩き出した。
均等に打つ雨音と、二人の靴底のリズムが、すぐに重なる。
◇
駅までの道は、いつもより短かった。
横断歩道の白いラインに水が溜まり、
信号が黄色に変わる直前、二人の影が斜めに伸びる。
改札の手前で、こうきが傘を少し高く掲げた。
視界がひらける。
駅ビルのガラス面に、二人の姿が薄く重なった。
「……図書館、好き?」
突然の問いに、りんは顔を向ける。
こうきはまっすぐ前を見たまま、声だけで微笑む。
「うん。静かなとこは、落ち着く」
「わかる。背表紙の並びが揃ってると、呼吸が揃う感じがするよね」
言葉の選び方が、りんの中にすっと染みた。
ノートの次のページにある一文が、胸の裏側で灯る。
「図書館。
二人で、本の背表紙を指でなぞる。
彼は傷の位置を覚えるのが早い。
わたしは金の箔押しに指を止める癖がある。」
りんは、うなずく。
雨粒が傘の縁で小さくはねた。
「明日、行く?」
「……行きたい」
返事は迷わなかった。
未来に答え合わせをしに行く、というより、
未来の手触りを、そっと確かめに行くような気持ちだった。
「じゃあ、放課後に入口で」
こうきが言うと、雨音の向こうで電車が滑る音がした。
改札にそれぞれのカードをかざす。
通り抜ける瞬間、透明な屋根がふたつに分かれた。
「また明日」
「また」
短い約束が、雨の匂いの中に沈んで、
それでも消えずに残った。
◇ ◇ ◇
夜、部屋の照明を少し落として、りんは黒いノートを開いた。
明日のページが、すでに開いている。
誰かが、先に読んだみたいに。
「図書館の三列目、下から二段目。
背表紙の金の線が、指を止める。
彼の指は、背の“欠け”を覚える。
――この違いが、すこし好き。」
最後の行だけ、文字が淡く揺れて見える。
好き、という言葉は、声にしないと怖い。
でも、ページの上では、なぜか素直に息をしている。
ページの下端。
消えない影のように、あの一文がやはり残っていた。
「もうすぐ、別れの時が来る。」
読み慣れてしまった痛みが、胸の内側に静かに沈む。
けれど、りんはページを閉じなかった。
明日の指の触れ方を、頭の中で何度も、そっと練習した。
◇ ◇ ◇
翌日の図書館は、雨上がりの光で満ちていた。
窓の縁に溜まった雫が、風に押されて落ちるたび、
床の白に小さな水玉が現れては消える。
入口で待っていると、こうきが手を振った。
その手は高くは上がらない。
でも、りんにだけ、まっすぐ向けられた手だった。
「三列目、行ってみよう」
りんが言うと、こうきは目を瞬いて、それから笑った。
なぜ三列目なのかは、きっと知らない。
でも、迷いなく、いっしょに歩き出す。
下から二段目。
背表紙がきれいに並んでいる棚の前で、
りんはそっと指を伸ばした。
金の箔押しの細い線に、指先が触れる。
少しだけ、ひんやりとした感触。
こうきは、一冊の背の“欠け”で止まった。
角が擦れて、布が少し露出している。
そこに人の時間がこぼれているのを、彼は見逃さない。
「りんは、光るところを触るんだね」
こうきが言う。
声にからかいはない。
ただ、発見をそのまま言葉に置いた響き。
「こうきくんは、傷のところ」
りんが返すと、彼は棚の端に目をやった。
「傷のほうが、誰かの手の温度が残ってる気がする。
――直せないとしても、覚えておけるから」
りんは、息を少しだけ吸った。
胸の奥で、ノートの文字がやわらかく光る。
「光るところは、いまを教えてくれる。
綺麗、って。――だから、わたしはそこに触るのかも」
言葉にして初めて、じぶんでも驚いた。
彼に言ったというより、自分のために言ったみたいだった。
「いいね」
短い相づち。
それだけで、棚の前の空気がすこし広くなる。
「……読んでみる?」
こうきが背表紙から一冊を引き出し、
りんに手渡す。
ページの縁に、古い紙の匂いがこもっていた。
椅子は二脚。
向かい合わせではなく、横並び。
同じページに視線を落とすと、呼吸の長さが自然に揃っていく。
りんは横目で、こうきの指の動きを見た。
欠けをそっと避けて、ページの端を押さえる指。
それが紙を傷つけないように、少し丸くなる。
「ページ、めくるね」
「うん」
静かなやりとりが、何度か繰り返される。
音よりも、温度のほうが多い会話。
◇
読み終えた頃、窓の外の雲が切れ、
光が机の端をすべっていった。
りんは黒いノートのことを思い出し、胸が少しだけ苦くなる。
ここまで“書かれていた通り”に進んできた。
では――この先も、ぜんぶ。
「りん」
呼ばれて、顔を上げる。
こうきが、まっすぐ見ていた。
「未来って、怖い?」
突然の問い。
でも、曖昧な言いかたではなかった。
まるで、りんの手の中の黒いノートの存在を、
言葉にせずに知っているみたいに。
「……少し。
でも、知らないままだと、もっと怖い」
自分でも驚くほど、素直な声が出た。
こうきは、大きくはうなずかない。
けれど、目の奥の光が、ひとつ深くなる。
「じゃあ、いっしょに行こう。
“知らない”を、少しずつ減らすほうへ」
りんは、うなずいた。
うなずくしか、なかった。
うなずくことが、いまの彼女にできる、いちばんの選択だった。
◇ ◇ ◇
帰り道、夕暮れが街の色を浅くしていく。
交差点の角で、こうきと別れたあと、
りんは信号待ちのあいだに、黒いノートを開いた。
風がページを一枚だけめくる。
「“終わり”の足音が、少し近づく。
でも、それを怖がる感情より、
今は“ありがとう”に近い何かが勝つ。」
りんは、ページの余白に指を置く。
紙の冷たさと、自分の体温が混じる場所。
そこに、小さく、息を落とす。
「――ありがとう」
誰に向けたのか、わからない。
未来のわたしに。
いま横にいた彼に。
あるいは、今日のページをめくる勇気をくれた、
図書館の光に。
信号が青になって、
りんはノートを胸に抱えた。
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