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未来の日記 2 「雨の匂い、透明の傘」

 朝は曇りだった。

 空の色は灰色に近く、りんは玄関で黒いノートを開いていた。


「傘を忘れる。

 透明の匂いが、近づいてくる。」


 その一文を見て、りんは小さく息をついた。

 「……忘れないようにしなきゃ」

 そうつぶやきながら、しっかりと傘を手に取る。

 ノートを閉じると、紙の匂いがほのかに残った。


 そのとき、窓の外ではまだ雨は降っていなかった。

 空気は重たく、街全体が静かな膜に包まれているようだった。



 昼を過ぎたころ、校舎の窓を叩く雨の音が聞こえてきた。

 最初は小さく、やがて雨脚は強くなり、廊下の向こうまで響いてくる。

 放課後、昇降口に並ぶ傘の列の中に、りんの傘だけが見当たらなかった。


 「……ない」


 教室にも、ロッカーにも、置きっぱなしではなかった。

 朝、確かに手に持って出たはずなのに。


 「……まさか」


 ポケットの中で、黒いノートがわずかに温かい。

 りんは立ち止まって、ページをめくった。

 朝見たページの文字が、少しだけ変わっている。


「傘を“持っていたのに”、忘れてしまう。

 透明の匂いが、近づいてくる。」


 文字の端がにじんで、まるで笑っているように見えた。

 その瞬間、りんは胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。

 抗えない未来――けれど、どこか優しい。



 昇降口の屋根の下では、濡れた足音が続いていた。

 誰かの笑い声、誰かの冗談、誰かのため息。

 りんは輪の端にも入らず、階段の途中で立ち止まった。


 踊り場の角を曲がると、透明な天井がすっと視界に差し込む。

 ビニール傘。

 丸い骨の先に小さな留め具。

 雨粒が弾けて、光の粒になって跳ねる。


 「――りん」


 名前を呼ばれて、心臓が一拍、強く跳ねた。

 透明な屋根が、りんの頭上にすべり込む。

 こうきが、傘の柄を少し傾けた。


 「忘れたんだよね」


 声は雨よりも静かで、はっきりしていた。


 「うん。……助かる」


 傘の内側の空気は少し温かく、

 ビニールの匂いが、鼻の奥に淡く広がる。

 ノートに書かれていた通りの、透明の匂い。


 「駅まで、いっしょに行こう」


 差し出された言葉は、提案というより、確認の音だった。

 りんは半歩、近づく。

 肩と肩が触れない距離を、目で測り直す。


 「歩幅、合わせるね」


 こうきが何気なく言って、

 ほんとうに、りんの歩幅に合わせて歩き出した。

 均等に打つ雨音と、二人の靴底のリズムが、すぐに重なる。



 駅までの道は、いつもより短かった。

 横断歩道の白いラインに水が溜まり、

 信号が黄色に変わる直前、二人の影が斜めに伸びる。


 改札の手前で、こうきが傘を少し高く掲げた。

 視界がひらける。

 駅ビルのガラス面に、二人の姿が薄く重なった。


 「……図書館、好き?」


 突然の問いに、りんは顔を向ける。

 こうきはまっすぐ前を見たまま、声だけで微笑む。


 「うん。静かなとこは、落ち着く」


 「わかる。背表紙の並びが揃ってると、呼吸が揃う感じがするよね」


 言葉の選び方が、りんの中にすっと染みた。

 ノートの次のページにある一文が、胸の裏側で灯る。


「図書館。

 二人で、本の背表紙を指でなぞる。

 彼は傷の位置を覚えるのが早い。

 わたしは金の箔押しに指を止める癖がある。」


 りんは、うなずく。

 雨粒が傘の縁で小さくはねた。


 「明日、行く?」


 「……行きたい」


 返事は迷わなかった。

 未来に答え合わせをしに行く、というより、

 未来の手触りを、そっと確かめに行くような気持ちだった。


 「じゃあ、放課後に入口で」


 こうきが言うと、雨音の向こうで電車が滑る音がした。

 改札にそれぞれのカードをかざす。

通り抜ける瞬間、透明な屋根がふたつに分かれた。


 「また明日」


 「また」


 短い約束が、雨の匂いの中に沈んで、

 それでも消えずに残った。


◇ ◇ ◇


 夜、部屋の照明を少し落として、りんは黒いノートを開いた。

 明日のページが、すでに開いている。

 誰かが、先に読んだみたいに。


「図書館の三列目、下から二段目。

 背表紙の金の線が、指を止める。

 彼の指は、背の“欠け”を覚える。

 ――この違いが、すこし好き。」


 最後の行だけ、文字が淡く揺れて見える。

 好き、という言葉は、声にしないと怖い。

 でも、ページの上では、なぜか素直に息をしている。


 ページの下端。

 消えない影のように、あの一文がやはり残っていた。


「もうすぐ、別れの時が来る。」


 読み慣れてしまった痛みが、胸の内側に静かに沈む。

 けれど、りんはページを閉じなかった。

 明日の指の触れ方を、頭の中で何度も、そっと練習した。


◇ ◇ ◇


 翌日の図書館は、雨上がりの光で満ちていた。

 窓の縁に溜まった雫が、風に押されて落ちるたび、

 床の白に小さな水玉が現れては消える。


 入口で待っていると、こうきが手を振った。

 その手は高くは上がらない。

 でも、りんにだけ、まっすぐ向けられた手だった。


 「三列目、行ってみよう」


 りんが言うと、こうきは目を瞬いて、それから笑った。

 なぜ三列目なのかは、きっと知らない。

 でも、迷いなく、いっしょに歩き出す。


 下から二段目。

 背表紙がきれいに並んでいる棚の前で、

 りんはそっと指を伸ばした。

 金の箔押しの細い線に、指先が触れる。

 少しだけ、ひんやりとした感触。


 こうきは、一冊の背の“欠け”で止まった。

 角が擦れて、布が少し露出している。

 そこに人の時間がこぼれているのを、彼は見逃さない。


 「りんは、光るところを触るんだね」


 こうきが言う。

 声にからかいはない。

 ただ、発見をそのまま言葉に置いた響き。


 「こうきくんは、傷のところ」


 りんが返すと、彼は棚の端に目をやった。


 「傷のほうが、誰かの手の温度が残ってる気がする。

  ――直せないとしても、覚えておけるから」


 りんは、息を少しだけ吸った。

 胸の奥で、ノートの文字がやわらかく光る。


 「光るところは、いまを教えてくれる。

  綺麗、って。――だから、わたしはそこに触るのかも」


 言葉にして初めて、じぶんでも驚いた。

 彼に言ったというより、自分のために言ったみたいだった。


 「いいね」


 短い相づち。

 それだけで、棚の前の空気がすこし広くなる。


 「……読んでみる?」


 こうきが背表紙から一冊を引き出し、

 りんに手渡す。

 ページの縁に、古い紙の匂いがこもっていた。


 椅子は二脚。

 向かい合わせではなく、横並び。

 同じページに視線を落とすと、呼吸の長さが自然に揃っていく。


 りんは横目で、こうきの指の動きを見た。

 欠けをそっと避けて、ページの端を押さえる指。

 それが紙を傷つけないように、少し丸くなる。


 「ページ、めくるね」


 「うん」


 静かなやりとりが、何度か繰り返される。

 音よりも、温度のほうが多い会話。



 読み終えた頃、窓の外の雲が切れ、

 光が机の端をすべっていった。

 りんは黒いノートのことを思い出し、胸が少しだけ苦くなる。

 ここまで“書かれていた通り”に進んできた。

 では――この先も、ぜんぶ。


 「りん」


 呼ばれて、顔を上げる。

 こうきが、まっすぐ見ていた。


 「未来って、怖い?」


 突然の問い。

 でも、曖昧な言いかたではなかった。

 まるで、りんの手の中の黒いノートの存在を、

 言葉にせずに知っているみたいに。


 「……少し。

  でも、知らないままだと、もっと怖い」


 自分でも驚くほど、素直な声が出た。

 こうきは、大きくはうなずかない。

 けれど、目の奥の光が、ひとつ深くなる。


 「じゃあ、いっしょに行こう。

  “知らない”を、少しずつ減らすほうへ」


 りんは、うなずいた。

 うなずくしか、なかった。

 うなずくことが、いまの彼女にできる、いちばんの選択だった。


◇ ◇ ◇


 帰り道、夕暮れが街の色を浅くしていく。

 交差点の角で、こうきと別れたあと、

 りんは信号待ちのあいだに、黒いノートを開いた。

 風がページを一枚だけめくる。


「“終わり”の足音が、少し近づく。

 でも、それを怖がる感情より、

 今は“ありがとう”に近い何かが勝つ。」


 りんは、ページの余白に指を置く。

 紙の冷たさと、自分の体温が混じる場所。

 そこに、小さく、息を落とす。


 「――ありがとう」


 誰に向けたのか、わからない。

 未来のわたしに。

 いま横にいた彼に。

 あるいは、今日のページをめくる勇気をくれた、

 図書館の光に。


 信号が青になって、

 りんはノートを胸に抱えた。


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