未来の日記 1 「埃の匂いのページ」
放課後の空気は、少しだけ埃っぽかった。
閉館間際の図書館は、窓の向こうで光を失いかけた太陽に照らされて、
壁も本棚も、すべてが夕暮れ色に染まっている。
誰もいない。
ページをめくる音も、人の足音も、もうどこかへ消えていた。
星空りんは、手提げを片手に抱えて、奥の閲覧室へと足を進めた。
その部屋には、ずっと前から使われていない机がひとつだけある。
木の角が少し欠けていて、表面には浅い傷がいくつも走っていた。
でも、りんはこの席が好きだった。
窓の外の空がよく見えるからだ。
カバンからノートを取り出す。
日記を書こうとしたけれど、ペン先を紙に置いた瞬間、言葉が止まった。
今日の出来事を、どう書けばいいのかわからなかった。
「……また、書けないな」
自分でも驚くほど小さな声。
その声が消えたとき、部屋の隅から、かすかな音がした。
紙が擦れるような音。
本棚の奥で、誰かがページをめくったみたいな音。
りんは振り向いた。
そこには、古びた机が一つ。
その上に、ひとりでに開かれた本が置かれていた。
近づくと、それは図書館の本ではなかった。
表紙は黒く、革のような質感で、ところどころ剥がれている。
タイトルも、蔵書番号もない。
りんが指先でページをめくろうとした瞬間――
本が、ふわりと自分で開いた。
風なんて吹いていなかった。
けれど、乾いた紙が呼吸をするように、ページがゆっくり動いた。
やがてぴたりと止まる。
そこには、文字が並んでいた。
「――今日、彼に会う。
もうすぐ、別れの時が来る。」
りんは息を呑んだ。
黒いインクの筆跡。
文字の癖が、自分と同じだった。
ページの右上には、まだ訪れていない“未来の日付”が記されている。
心臓が、ひとつだけ強く鳴った。
「……これ、わたしの日記……?」
声は震えていた。
でも、確かにそう読めた。
未来の自分が書いた、“これから起きること”の記録。
そして、そのページの隅には、滲んだようにこう書かれていた。
「終わりは、はじまりと同じ場所にある。」
りんはその言葉を指でなぞった。
その瞬間、外の風が少しだけ吹いて、カーテンが揺れた。
開かれた本のページが、もう一度ふわりと動く。
その音が、まるで“次を読んで”と囁いているように思えた。
◇ ◇ ◇
帰り道、りんは夕焼けの街を歩きながら、何度も胸の奥で考えていた。
もしあの本に、ほんとうに“未来の自分”が書いた日記があるなら――
これから先、自分はそのページの通りに生きることになるのだろうか。
それとも、未来を知った時点で、もう違う道に入っているのだろうか。
答えはまだどちらにも傾かない。
ただひとつ、確かなのは、
あの本の中の“わたし”が、誰かに出会い、そして別れを経験するということ。
りんは、かすかに唇を結んだ。
「……会いたいな」
まだ会ったことのない“彼”の名前を、
知らないはずの誰かのように、
もう知っているような気がした。
⸻
翌日の放課後。
図書館の窓には、昨日よりも強い光が差していた。
りんは、あの黒いノートを見つけた机の前に立つ。
「……やっぱり、ある」
昨日のままの姿で、本はそこにあった。
誰かが片づけた様子もない。
りんはそっと開いた。
ページの端が、少し温かい。
――まるで、誰かが今さっきまで触れていたみたいだった。
そして、昨日とは違うページが開いていた。
「放課後、階段の踊り場。
かばんを落とす。
拾い上げた手の指が、少し冷たい。
その指と目が合って、笑ってしまう。」
りんは目を瞬いた。
階段。踊り場。笑ってしまう。
それは今日、まさにこれからの出来事のように思えた。
「……偶然、だよね」
声に出してみたけれど、心の奥は静かにざわついた。
ノートに書かれた出来事が現実になるなんて、あり得ない。
でも――もし本当に起こったら。
りんはノートを閉じた。
机の上に戻すと、背中に夕陽が差した。
光の粒が髪の先を撫で、シュシュが小さくきらめいた。
◇
校舎の廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかる。
教室の窓を開けると、風がカーテンを膨らませた。
りんは、踊り場へと向かう。
階段の手すりに、赤い夕陽が溶けていた。
誰もいないと思っていたその場所で、
足音が、ひとつ、上から降りてきた。
「……あ」
ぶつかった瞬間、手提げが指から滑り落ちた。
ノートとプリントが床に散らばる。
りんは慌ててかがみこんだ。
そのとき、もうひとつの手が伸びた。
細くて、少し冷たい指。
紙の端を押さえたその手が、
りんの指先に、ほんの一瞬だけ触れた。
目が合う。
りんより少し背の高い少年が、穏やかに微笑んでいた。
黒髪が光を受けてやわらかく揺れる。
「ごめん、痛くなかった?」
低くて優しい声だった。
「ううん……大丈夫」
返した声が少し上ずる。
その瞬間、りんは――笑ってしまった。
ノートの言葉の通りに。
◇
名前は、すぐには聞けなかった。
ただ、拾ってくれたプリントを抱えたまま、
りんは手すり越しに空を見上げた。
雲の隙間から、淡い夕陽。
少年も、同じ方向を見ていた。
沈黙が、なぜかやさしかった。
その沈黙の中で、
りんの胸の奥が、ゆっくりと脈を打ち始めていた。
――ノートに書かれていた未来は、
本当に、いま始まっているのかもしれない。
⸻
夕陽の色が階段の壁にゆっくり広がっていく。
りんは散らばったプリントを受け取り、胸もとに抱えた。
「ありがとう」
声に出すと、胸の奥の緊張が、すこしだけほどける。
少年は手ぶらだった。
制服のポケットに片手を入れて、もう片方の手で手すりを軽く叩く。
節のある木の音が、細く、乾いて響いた。
「……名前、訊いてもいい?」
少年が先に言った。
言葉はまっすぐ、けれど柔らかい。
りんは、呼吸をそっと整える。
「星空、りん」
名乗ると、少年はうなずいた。
目の奥で、小さな光がひとつ揺れた。
「ぼくは――一雅こうき」
りんは心の中で、その三文字をゆっくり並べ直す。
いまこの場で初めて聞いたはずの音なのに、どこかで何度も読んだみたいに懐かしかった。
「こうきくん、か」
つぶやくと、彼は少しだけ笑った。
その笑いは、声よりも先に、輪郭を柔らかくする笑いだった。
「今日は、これで。……また」
短い別れの言葉。
りんは、うなずくだけで精一杯だった。
◇
帰宅して制服をハンガーにかけると、りんは迷わずカバンから黒いノートを取り出した。
机の上で開く。ページの端が指先の熱を吸って、ほんのり温かくなる。
「……どうして、知ってるの」
誰に向けたのか自分でもわからない言葉が、部屋の空気に溶けた。
今日の欄の最後には、小さく一行だけ、薄いインクで追記されている。
「彼の名は“こうき”。
呼んだとき、夕陽が少し明るくなる。」
りんは、息を止めたままページを閉じた。
胸の内側に灯った小さな火が、暗がりをほんの少しだけ押し返す。
けれど、次のページの下段――余白の端に、やはりあの一文が残っていた。
「もうすぐ、別れの時が来る。」
柔らかな痛みが、胸の真ん中を静かに押した。
それでも、ページをめくる手は止まらない。
◇ ◇ ◇




