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終わりの空 5 「終わりの空」(終)

 朝は、約束どおり来た。


 しかし、いつもの朝とは、少しだけ違った。


 鳥の声は薄く、冷蔵庫のモーターは一度だけ唸って黙り、空の青は、白い粉を混ぜられたみたいに淡い。


 りんは洗面台の前で水を掬う。頬に触れた水は冷たく、掌の皿からこぼれ落ちるまでの短い時間が、今日はやけに長く感じられた。


 窓の外。


 白い尾は太く、短くなっている。


 目を細めると、尾の先に、昼の星みたいな点が見えた。空気がわずかに震えて、窓ガラスの内側に金属の音のようなものがうつる――耳の奥で鳴っていた「ガラスの音」は、もはや耳鳴りではない。世界の、呼吸だ。


 りんは髪を結び直す。


 昨夜、渚が結んだ赤いリボン。鏡の中の蝶々は、羽を休めるように静かに結び目を保っていた。


 指輪にそっと触れる。軽い輪が、指の根元で脈のリズムを拾っている。


 「行ってきます」


 返事のない部屋に告げて、扉を開ける。


 風が、少しだけ潮の匂いを連れていた。



 角を曲がると、渚がいた。


 パーカーのポケットに手を入れて、空を見上げている。


 「おはよう」


 「おはよう」


 それだけで、胸の奥に灯りがともる。言葉は少ないほど、輪郭が鮮明になる。


 「行こう」


 「うん」


 ふたりは並んで歩く。


 商店街のシャッターは閉じたまま。パン屋のショーケースには、昨夜と同じクロワッサンが、同じ姿勢で眠っている。


 学校へ続く道の角、電柱の影は短い。


 道端の朝顔は、誰に見られなくても、淡い紫の口を開いた。


 「まだ、咲くんだね」


 「うん。“まだ”は、強い」



 丘の手前で、風が変わった。


 温度が一度、下がる。


 空の音がすこし低く、はっきりする。


 柵のところまでくると、風鈴が出迎えるように一度だけ鳴いた。澄んだ音。夜とは違う、昼の透明。


 「おはよう」


 渚が風鈴に言う。


 りんも、小さく頭を下げる。


 石の円はそのままにあり、真ん中に落ちる影の形だけが、朝の角度を知らせていた。


 二冊の小さなメモ帳は、白いゴムの内側で静かに待っている。


 空を仰ぐ。


 白い尾は、もう雲の層を押し分けて、太い線で世界を横切っていた。


 「本当に……落ちてくるんだ……」


 りんの声は、風の上に、正直な重さを置いた。


 渚が、りんの指を握る。


 指輪と指輪がわずかに触れて、小さな音にならない音が走る。


 「ね、りん」


 「なに?」


 「言いそびれてたこと、言わせて」


 りんは頷く。


 渚は、息を一つ飲み込んでから、笑った。


 「怖い。わたし、いま、ちゃんと怖い」


 りんも笑った。


 「うん。わたしも。――言ってくれて、ありがとう」


 怖いと口にした瞬間、怖さは少しだけ、可視化される。輪郭のあるものは、手で支えられる。


 りんは掌を胸の前で重ねる。


 渚も、同じかたちをつくる。


 風鈴が、また一度、控えめに鳴る。


 「痛くないほうへ」


 ふたりは同時に、合図のように囁いた。


 祈りは、止める言葉ではなく、加える呼吸。


 四つ吸って、六つ吐く。


 白い尾の先で、昼の星が、かすかに震えた。


◇ ◇ ◇


 時間が、少し伸びた。

 

 分針が同じ目盛りに一秒長く留まるみたいに、光が空気に溜まり、風が頬の上でゆっくりになる。


 遠い地平線に、薄い幕が立った。陽炎の巨大な版。


 世界が、表面張力で一枚にまとめられ、それでもなお、あふれようとしている。


 りんは、渚の肩に額を寄せた。


 「あのさ」


 「うん」


 「“ありがとう”って言うの、いま言うね」


 渚は、視線を空に置いたまま、小さく笑う。


 「さよなら、も、いま言わせて」


 「うん」


 ふたりは顔を見合わせる。


 「ありがとう」


 「さよなら」


 同時に、同じ温度で。


 どちらも、この瞬間を完了させないための言葉。


 風鈴が、ひときわ澄んで鳴った。


 「世界が……」


 りんの瞳が、空の光をひと粒ずつ集める。


 「終わっちゃうの?」


 渚は、りんの頬に手を添える。


 「終わるなら、いちばんやさしい終わりにしよう。終わらないなら、いちばんやさしいはじまりにしよう」


 白い尾の先から、光がこぼれた。


 昼間の流星群。


 影が、足元から消えていく。


 音より先に、明るさが世界を満たす。


 風が引き、空気がきしむ。


 風鈴の音が、一瞬だけ、聴こえなくなる。


 りんは目を閉じ、渚の額と額を合わせた。


 「ずっと」


 「ずっと」


 唇が触れる。


 光が、二人の輪郭を白に溶かす。


 世界の地図が白紙になっていくその中央で、赤いリボンが、小さく、蝶の影だけを残す。


◇ ◇ ◇


 ――音が戻った。


 低く、遅い、地の底からの音。


 遅れて、風が反対側から吹いてくる。草が一斉になびき、丘の上の影が、別の方角へ短く走る。


 りんは、目を開けた。


 視界は白に近く、輪郭は滲んでいる。


 それでも、渚の手の温度は、はっきりと掌にいた。


 空は、白い。


 白の中心に、細い青が一本、縫い目みたいに残っている。


 風鈴が、やがて、遠くで鳴った。


 「渚」


 りんは名を呼ぶ。


 「いるよ」


 渚は答える。


 ふたりは、石の円の内側に座っていた。


 円は崩れていない。


 メモ帳は、白いゴムの下で、まだ、開かずにいる。


 世界は、静かだった。


 静かすぎて、ふたりの呼吸や、指輪の内側で血が巡る音や、まぶたの裏で涙が薄く広がる気配まで、全部、音になった。


 「ねえ、りん」


 「なに?」


 「“まだ”だよ」


 りんは笑った。


 「うん。まだ」


 白は、少しずつ、明るさから色へと変わっていく。


 薄い青が、縫い目から広がり、白と仲直りするみたいに混ざる。


 世界は、終わったのか。


 それとも、はじまったのか。


 判別はつかない。


 でも、判別できないことは、必ずしも不幸ではない。



 坂を下りる。


 街は、少しだけ、色を取り戻している――ように見えた。


 パン屋のショーケースは空で、レジの上に百円玉が二枚、並んでいた気がする。


 写真館の硝子は、ひびも歪みもなく、白いドレスは相変わらず内側で静かに立っている。


 学校の黒板の「またね」は、薄くなっていた――のか、誰かがなぞったのか。


 「またね」


 りんが呟く。


 渚も、同じ声で重ねる。


 「またね」



 角をもうひとつ曲がる前に、渚が歩みを止めた。


 「りん」


 呼ばれて、りんも止まる。街灯の下で、二人の影が少しだけ重なる。


 「もし、あの光で世界が終わってたとしてもさ」


 渚は指輪を親指でそっと撫でて、少し照れたように笑った。


 「わたし、今日までのぶん、もう十分に幸せだったと思う」


 りんは息をのみ、うなずく。


 「うん。わたしも。終わる前に“ありがとう”を言えた。手をつないで、祈って、笑った。――それだけで、たぶん、わたしの真ん中は満たされた」


 二人は指先を寄せ、指輪と指輪を軽く触れ合わせる。小さな、音にならない音。


 「もしつづくなら、続いたぶんも半分こしよう」


 「うん。つづいても、終わっても」


 言葉はそれ以上いらなかった。胸の中で、風鈴の残響だけが、やさしく点となって残った。


 角をいくつか越えるうちに、玄関灯の白さが近づいてくる。


◇ ◇ ◇


 玄関灯の下で、別れ際。


 渚はりんの赤いリボンを指でそっと整え、蝶の羽をもういちど結わえる。


 「おやすみ、りん」


 「おやすみ、渚」


 扉が閉まる直前、ふたりは同時に言った。


 「また会おうね」


 扉が閉じる。どちらの側の音だったのか、わからないまま。


 廊下の静けさに、しばらく立ち尽くす。


 耳の奥で、風鈴の音がひとつ、響く。それがいま鳴ったのか、さっきの余韻なのかも、わからない。


 窓の向こう、白と青が混ざった空は、今日の空かもしれないし、明日の空かもしれない。


 世界は、終わったのか。


 それとも、はじまったのか。


 確かめる術は、いまは、ない。



 机に向かい、ノートを開く。


 ペン先を紙に置く。


 ――『終わりの空の下で、わたしは、たしかに、ここに。』


 書き終えると、りんは指輪に口づけし、そっと目を閉じた。


 眠りの手前で、誰かが名前を呼ぶ。


 風か、渚か、空か。


 どれでもよかった。どれも、正しかった。



『終わりの空』 完


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