終わりの空 5 「終わりの空」(終)
朝は、約束どおり来た。
しかし、いつもの朝とは、少しだけ違った。
鳥の声は薄く、冷蔵庫のモーターは一度だけ唸って黙り、空の青は、白い粉を混ぜられたみたいに淡い。
りんは洗面台の前で水を掬う。頬に触れた水は冷たく、掌の皿からこぼれ落ちるまでの短い時間が、今日はやけに長く感じられた。
窓の外。
白い尾は太く、短くなっている。
目を細めると、尾の先に、昼の星みたいな点が見えた。空気がわずかに震えて、窓ガラスの内側に金属の音のようなものがうつる――耳の奥で鳴っていた「ガラスの音」は、もはや耳鳴りではない。世界の、呼吸だ。
りんは髪を結び直す。
昨夜、渚が結んだ赤いリボン。鏡の中の蝶々は、羽を休めるように静かに結び目を保っていた。
指輪にそっと触れる。軽い輪が、指の根元で脈のリズムを拾っている。
「行ってきます」
返事のない部屋に告げて、扉を開ける。
風が、少しだけ潮の匂いを連れていた。
◇
角を曲がると、渚がいた。
パーカーのポケットに手を入れて、空を見上げている。
「おはよう」
「おはよう」
それだけで、胸の奥に灯りがともる。言葉は少ないほど、輪郭が鮮明になる。
「行こう」
「うん」
ふたりは並んで歩く。
商店街のシャッターは閉じたまま。パン屋のショーケースには、昨夜と同じクロワッサンが、同じ姿勢で眠っている。
学校へ続く道の角、電柱の影は短い。
道端の朝顔は、誰に見られなくても、淡い紫の口を開いた。
「まだ、咲くんだね」
「うん。“まだ”は、強い」
◇
丘の手前で、風が変わった。
温度が一度、下がる。
空の音がすこし低く、はっきりする。
柵のところまでくると、風鈴が出迎えるように一度だけ鳴いた。澄んだ音。夜とは違う、昼の透明。
「おはよう」
渚が風鈴に言う。
りんも、小さく頭を下げる。
石の円はそのままにあり、真ん中に落ちる影の形だけが、朝の角度を知らせていた。
二冊の小さなメモ帳は、白いゴムの内側で静かに待っている。
空を仰ぐ。
白い尾は、もう雲の層を押し分けて、太い線で世界を横切っていた。
「本当に……落ちてくるんだ……」
りんの声は、風の上に、正直な重さを置いた。
渚が、りんの指を握る。
指輪と指輪がわずかに触れて、小さな音にならない音が走る。
「ね、りん」
「なに?」
「言いそびれてたこと、言わせて」
りんは頷く。
渚は、息を一つ飲み込んでから、笑った。
「怖い。わたし、いま、ちゃんと怖い」
りんも笑った。
「うん。わたしも。――言ってくれて、ありがとう」
怖いと口にした瞬間、怖さは少しだけ、可視化される。輪郭のあるものは、手で支えられる。
りんは掌を胸の前で重ねる。
渚も、同じかたちをつくる。
風鈴が、また一度、控えめに鳴る。
「痛くないほうへ」
ふたりは同時に、合図のように囁いた。
祈りは、止める言葉ではなく、加える呼吸。
四つ吸って、六つ吐く。
白い尾の先で、昼の星が、かすかに震えた。
◇ ◇ ◇
時間が、少し伸びた。
分針が同じ目盛りに一秒長く留まるみたいに、光が空気に溜まり、風が頬の上でゆっくりになる。
遠い地平線に、薄い幕が立った。陽炎の巨大な版。
世界が、表面張力で一枚にまとめられ、それでもなお、あふれようとしている。
りんは、渚の肩に額を寄せた。
「あのさ」
「うん」
「“ありがとう”って言うの、いま言うね」
渚は、視線を空に置いたまま、小さく笑う。
「さよなら、も、いま言わせて」
「うん」
ふたりは顔を見合わせる。
「ありがとう」
「さよなら」
同時に、同じ温度で。
どちらも、この瞬間を完了させないための言葉。
風鈴が、ひときわ澄んで鳴った。
「世界が……」
りんの瞳が、空の光をひと粒ずつ集める。
「終わっちゃうの?」
渚は、りんの頬に手を添える。
「終わるなら、いちばんやさしい終わりにしよう。終わらないなら、いちばんやさしいはじまりにしよう」
白い尾の先から、光がこぼれた。
昼間の流星群。
影が、足元から消えていく。
音より先に、明るさが世界を満たす。
風が引き、空気がきしむ。
風鈴の音が、一瞬だけ、聴こえなくなる。
りんは目を閉じ、渚の額と額を合わせた。
「ずっと」
「ずっと」
唇が触れる。
光が、二人の輪郭を白に溶かす。
世界の地図が白紙になっていくその中央で、赤いリボンが、小さく、蝶の影だけを残す。
◇ ◇ ◇
――音が戻った。
低く、遅い、地の底からの音。
遅れて、風が反対側から吹いてくる。草が一斉になびき、丘の上の影が、別の方角へ短く走る。
りんは、目を開けた。
視界は白に近く、輪郭は滲んでいる。
それでも、渚の手の温度は、はっきりと掌にいた。
空は、白い。
白の中心に、細い青が一本、縫い目みたいに残っている。
風鈴が、やがて、遠くで鳴った。
「渚」
りんは名を呼ぶ。
「いるよ」
渚は答える。
ふたりは、石の円の内側に座っていた。
円は崩れていない。
メモ帳は、白いゴムの下で、まだ、開かずにいる。
世界は、静かだった。
静かすぎて、ふたりの呼吸や、指輪の内側で血が巡る音や、まぶたの裏で涙が薄く広がる気配まで、全部、音になった。
「ねえ、りん」
「なに?」
「“まだ”だよ」
りんは笑った。
「うん。まだ」
白は、少しずつ、明るさから色へと変わっていく。
薄い青が、縫い目から広がり、白と仲直りするみたいに混ざる。
世界は、終わったのか。
それとも、はじまったのか。
判別はつかない。
でも、判別できないことは、必ずしも不幸ではない。
◇
坂を下りる。
街は、少しだけ、色を取り戻している――ように見えた。
パン屋のショーケースは空で、レジの上に百円玉が二枚、並んでいた気がする。
写真館の硝子は、ひびも歪みもなく、白いドレスは相変わらず内側で静かに立っている。
学校の黒板の「またね」は、薄くなっていた――のか、誰かがなぞったのか。
「またね」
りんが呟く。
渚も、同じ声で重ねる。
「またね」
◇
角をもうひとつ曲がる前に、渚が歩みを止めた。
「りん」
呼ばれて、りんも止まる。街灯の下で、二人の影が少しだけ重なる。
「もし、あの光で世界が終わってたとしてもさ」
渚は指輪を親指でそっと撫でて、少し照れたように笑った。
「わたし、今日までのぶん、もう十分に幸せだったと思う」
りんは息をのみ、うなずく。
「うん。わたしも。終わる前に“ありがとう”を言えた。手をつないで、祈って、笑った。――それだけで、たぶん、わたしの真ん中は満たされた」
二人は指先を寄せ、指輪と指輪を軽く触れ合わせる。小さな、音にならない音。
「もしつづくなら、続いたぶんも半分こしよう」
「うん。つづいても、終わっても」
言葉はそれ以上いらなかった。胸の中で、風鈴の残響だけが、やさしく点となって残った。
角をいくつか越えるうちに、玄関灯の白さが近づいてくる。
◇ ◇ ◇
玄関灯の下で、別れ際。
渚はりんの赤いリボンを指でそっと整え、蝶の羽をもういちど結わえる。
「おやすみ、りん」
「おやすみ、渚」
扉が閉まる直前、ふたりは同時に言った。
「また会おうね」
扉が閉じる。どちらの側の音だったのか、わからないまま。
廊下の静けさに、しばらく立ち尽くす。
耳の奥で、風鈴の音がひとつ、響く。それがいま鳴ったのか、さっきの余韻なのかも、わからない。
窓の向こう、白と青が混ざった空は、今日の空かもしれないし、明日の空かもしれない。
世界は、終わったのか。
それとも、はじまったのか。
確かめる術は、いまは、ない。
◇
机に向かい、ノートを開く。
ペン先を紙に置く。
――『終わりの空の下で、わたしは、たしかに、ここに。』
書き終えると、りんは指輪に口づけし、そっと目を閉じた。
眠りの手前で、誰かが名前を呼ぶ。
風か、渚か、空か。
どれでもよかった。どれも、正しかった。
⸻
『終わりの空』 完




