終わりの空 4 「ふたりの祈り」
夜は、昨日よりも深かった。
音の少ない夜は、かえって世界の輪郭をくっきりさせる。遠くの空で、白い尾が雲の層を薄く削っていくたび、暗さの質がすこしだけ変わる。
りんは窓を開け、冷えた空気を胸いっぱいに吸った。部屋の灯りを消すと、壁に貼った小さなメモの四角が闇のなかで輪郭だけを残し、紙の匂いがいくらか安心を連れてくる。
スマホは当然のように圏外のまま。それでも、ポケットに入れる。
扉に手をかける前、りんは一度だけ鏡をのぞいた。結んだ髪、襟元の皺、袖口のほつれ。今日の自分を覚えておくために。
玄関を出ると、路地の角には渚が立っていた。
パーカーのフードは下ろしたまま、手には小さな紙袋。街灯の下で、白い息がゆっくり溶ける。
「寒くない?」
「ぜんぜん」
口先だけの強がりじゃない。寒さは、ふたりで分ければ、少しやわらぐ。
渚が紙袋から小さな布を取り出した。
「見つけたんだ、うちの押し入れで。風鈴。ひとつ、割れてたけど、こっちは生きてた」
薄いガラスの鈴。紺の絵の具で小さな星が散らしてある。ふると、音はまだ、細く、透明だった。
「丘に、つけよう」
「うん。風の通り道を――つくろう」
◇
夜の町は、記憶の裏側を散歩するみたいだった。
通い慣れた通学路が、別の物語のセットにすり替わっている。それなのに、足は迷わない。
ふたりが自転車を押して坂をのぼる間、風鈴は袋の中で、ほとんど鳴らなかった。音は、場所を選ぶのだろう。
丘に着くと、空は肌に触れるほど近かった。
柵の支柱に布を結び、渚がガラスの輪をそっと吊るす。りんは自分の髪から白いゴムを一本外し、輪に重ねて揺れを安定させた。
最初の一音は、ためらいのように小さかった。
ふたつめからは、風に合わせて、薄く、すこし泣きそうな響きが夜に混じる。
りんは、その音に合わせるみたいに、胸の前で掌を重ねた。
渚が隣で、同じかたちをつくる。ふたりの影が足元でひとつに溶け、風がその上を、なでる。
「聞こえる?」
渚の声は、風鈴より少しだけ低い。
りんは目を閉じた。
「うん。ね、渚……わたし、ずっと言えなかったことがあるの」
渚の指が、そっとりんの袖口をつまむ。促す仕草。
りんは、息を整えた。胸の奥、薄いガラスを爪でひっかく音――その正体に、名前を与える。
「空が、痛いって言ってる。ずっと。子どものころから、ときどき夢で聞いてた。今日は、夢じゃない音になってる」
言葉にしてしまうと、怖さが増すかと思ったのに、反対だった。音は、言葉にすがって形を持ち、形を持ったぶんだけ、人の側へ降りてくる。
「だから、祈るの。止めるじゃなくて、やさしく、って」
渚はうなずいた。迷いはない。
「いっしょに祈ろう」
ふたりは、風鈴の真下に立ち、空を見上げた。
白い尾は遠い。けれど、風は近い。
りんが掌を開いて、目を閉じる。渚がその手に自分の手を重ねた。
呼吸の速度を合わせる。四つ数えて吸い、六つ数えて吐く。
心臓の音が、次第に似てくる。
言葉は、短いほうが祈りになる。
りんは胸の奥で繰り返した――「痛くないほうへ」
渚も、同じ言葉を、重ねた。
「痛くないほうへ」
風鈴が、ひときわ澄んだ音で鳴った。
それは奇跡じゃない。ただの物理。けれど、奇跡もまた、ただの物理のなかで起きる。
◇ ◇ ◇
少しして、渚が「わたしも、言いそびれてたこと」と言った。
ポケットから、金色の小さな輪を二つ取り出す。キーホルダーの予備のリング。
「買っておいたんだ。ずっと前に。なんか、うまくいかない日が続いて、でも、終わらせたくないものがあるって分かったとき。……言うつもりだった。世界がぜんぶ元気な日に」
りんは目を丸くした。風鈴の音が一拍、遠くなる。
「りん、もし世界がつづくなら、わたし、りんのお母さんに挨拶に行きたい。性別がどうとか、そういう制度が追いついてなくても、ちゃんと、りんの隣で生きたいって言いたい。
……でも、もし続かないなら、いまここで、指に輪っかを通させて?」
りんは笑って、泣いた。
涙が風に冷やされる前に、指を差し出す。渚が小さなリングを、薬指にそっと押し込む。もう一つを、りんが渚の指に。
金属の冷たさはすぐ体温に馴染んで、存在は小さいのに、意味だけが大きくて、ふたりの手のひらが少し震えた。
「ねえ、誓いとかって、言葉が決まってるの?」
「知らない」
「じゃあ、作ろう」
りんは息を吸い、風鈴の音の切れ目に、ゆっくり言葉を置いた。
「“まだ”を、“ずっと”に変える」
渚が続ける。
「“終わり”のなかに、“はじまり”を見つける」
「そして」
「そして、痛くないほうへ」
空は何も答えない。けれど、風が頷いたような気がした。
◇
丘の草むらで、ふたりは石をいくつか拾い、小さな円をつくった。
真ん中に風鈴の影が落ち、輪の向こう側で、街の灯りが薄く揺れる。
円は不格好で、すぐ崩れそうだ。それでも、境界は、心に地図を描く。
「記念に、なにか、置いていこうか」
渚が言いながらリュックを探る。
「これ」
取り出したのは、二冊の小さなメモ帳。片方の表紙には、白い猫。もう片方には、星。
「どっちがいい?」
「星」
「やっぱり」
それぞれの表紙の裏に、短い手紙を書く。
――『渚へ。空が終わる日まで、わたしは呼吸をやめない。あなたの名前で、空気が少し甘くなるから』
――『りんへ。もし、世界が紙の裏側にひっくり返っても、手を離さない練習はもうできてる』
メモ帳は、石の円のいちばん太陽に近い場所にそっと置く。風に飛ばないよう、白いゴムでくるりと留めた。
りんが笑って言う。
「時間に埋めるタイムカプセル」
渚も笑う。
「風が掘り返してくれるかも」
風鈴が、また鳴る。
今度の音は、すこしだけ、あたたかい。
◇ ◇ ◇
祈りは、形を変えながら続いた。
ふたりは並んで座り、ときどき立ち上がり、手を握り、離し、また握った。
言葉は少なくなり、呼吸のリズムだけが残っていく。
遠い地平線で、薄い光が二度、三度、水平に走った。続いて、地面の奥から低い音が遅れてやって来る。
世界は、確実に、終わる方向へ進んでいる。
それでも、いまこの場所では、ふたりの時間が、静かに、広がる方向へ進んでいた。
渚が、ぽつりと言う。
「りんといると、世界って、大丈夫な気がする」
「それ、わたしのセリフ」
「じゃあ、半分こ」
「うん」
言葉を半分こしたら、怖さも半分こできる。
りんはそれを確かめるように、渚の肩に額を預けた。
頬に感じるパーカーの布が、温度をよく知っている。
風鈴は、間を読みながら、必要なぶんだけ鳴る。
◇
夜が深まるにつれ、同じ丘に座っていることが、ひとつの灯台みたいに思えた。
どこかで、誰かも、同じように空を見上げているかもしれない。知らない誰かの呼吸が、風の向こうに重なっているかもしれない。
祈りは、ひとの数だけ違って、ひとの数だけ正しい。
「ねえ、渚」
りんが目を閉じたまま言う。
「空はね、ときどき“ごめんね”って言ってる気がする」
渚は少しだけ驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
「やさしいね、空」
「ね。やさしい」
「大丈夫だよ、って言い返そう」
ふたりは同時に、空へ向かって、声を小さく重ねた。
「だいじょうぶだよ」
風が運ぶのにちょうどいい重さの言葉。
それは、祈りよりも簡単で、祈りよりもすこし日常に近い。
◇ ◇ ◇
気づけば、東の端がわずかに薄くなっていた。
夜の底は、けっして一枚の布ではない。何層もの暗さが重なって、どこかでじわりとほつれ、光が滲み出す。
渚が立ち上がり、両手を大きく伸ばした。背骨が小さく鳴る。
りんも立ち、同じように伸びをする。体の隅々に酸素が触れると、眠っていた部屋の灯りを順番につけていくみたいに、感覚が整っていく。
「帰ろうか」
「うん。また夜に来よう。……風鈴、置いていってもいい?」
「置いていこう。ここが、わたしたちの、風の住所」
輪にならべた石の円に、小さく一礼する。
石は、なにも答えない。
それでも、帰りぎわに風鈴が一度だけ、はっきり鳴った。
合図のように。
◇
坂をくだる途中、渚が足を止めた。
「ねえ、りん。最後に、もうひとつだけ、贈りもの」
渚は自分のパーカーのポケットを探り、細い赤いリボンを取り出した。
「髪、ほどけてる」
りんが笑う。
「たぶん、風のせい」
「わたしのせいでもある」
渚は、りんの髪を指先でまとめ、白いゴムに重ねるように、赤いリボンを結んだ。蝶々結び。風が、そっと、羽根を試す。
「似合う」
「渚が結んだから」
「じゃあ、毎日、結ぶね」
「うん。毎日」
“毎日”は、奇跡にいちばん近い日常語だ。
ふたりはそれをポケットにしまって、歩き出した。
◇ ◇ ◇
別れ際、玄関灯の下で、ふたりは指輪を確かめ合った。
安い金属。軽い輪。
なのに、指の根元で、脈と一緒に、かすかな音がする気がした。
「明日」
りんが言う。
「うん、明日」
渚が言う。
扉が閉まる。
りんは背中を扉に預け、目を閉じた。
耳の奥のガラスの音は、もう、ほとんどしない。代わりに、風鈴の余韻が、遠くで続いている。
机に向かい、ノートをひらく。
――『祈りは、止める言葉じゃなくて、加える呼吸。
世界の終わりに間に合わないやさしさでも、世界の終わりに間に合わせたいやさしさはある。
痛くないほうへ。
“まだ”は、今日も灯った。』
ペンを置く。
窓の外が、ごくわずかに白む。
りんはそっと、指輪に唇を触れた。
赤いリボンが、肩のあたりで小さく揺れる。
「おやすみ、渚」
その声は、風鈴のほうへ、まっすぐ落ちていった。
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