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終わりの空 4 「ふたりの祈り」

 夜は、昨日よりも深かった。


 音の少ない夜は、かえって世界の輪郭をくっきりさせる。遠くの空で、白い尾が雲の層を薄く削っていくたび、暗さの質がすこしだけ変わる。


 りんは窓を開け、冷えた空気を胸いっぱいに吸った。部屋の灯りを消すと、壁に貼った小さなメモの四角が闇のなかで輪郭だけを残し、紙の匂いがいくらか安心を連れてくる。


 スマホは当然のように圏外のまま。それでも、ポケットに入れる。


 扉に手をかける前、りんは一度だけ鏡をのぞいた。結んだ髪、襟元の皺、袖口のほつれ。今日の自分を覚えておくために。


 玄関を出ると、路地の角には渚が立っていた。


 パーカーのフードは下ろしたまま、手には小さな紙袋。街灯の下で、白い息がゆっくり溶ける。


 「寒くない?」


 「ぜんぜん」


 口先だけの強がりじゃない。寒さは、ふたりで分ければ、少しやわらぐ。


 渚が紙袋から小さな布を取り出した。


 「見つけたんだ、うちの押し入れで。風鈴。ひとつ、割れてたけど、こっちは生きてた」


 薄いガラスの鈴。紺の絵の具で小さな星が散らしてある。ふると、音はまだ、細く、透明だった。


 「丘に、つけよう」


 「うん。風の通り道を――つくろう」



 夜の町は、記憶の裏側を散歩するみたいだった。


 通い慣れた通学路が、別の物語のセットにすり替わっている。それなのに、足は迷わない。


 ふたりが自転車を押して坂をのぼる間、風鈴は袋の中で、ほとんど鳴らなかった。音は、場所を選ぶのだろう。


 丘に着くと、空は肌に触れるほど近かった。


 柵の支柱に布を結び、渚がガラスの輪をそっと吊るす。りんは自分の髪から白いゴムを一本外し、輪に重ねて揺れを安定させた。


 最初の一音は、ためらいのように小さかった。


 ふたつめからは、風に合わせて、薄く、すこし泣きそうな響きが夜に混じる。


 りんは、その音に合わせるみたいに、胸の前で掌を重ねた。


 渚が隣で、同じかたちをつくる。ふたりの影が足元でひとつに溶け、風がその上を、なでる。


 「聞こえる?」


 渚の声は、風鈴より少しだけ低い。


 りんは目を閉じた。


 「うん。ね、渚……わたし、ずっと言えなかったことがあるの」


 渚の指が、そっとりんの袖口をつまむ。促す仕草。


 りんは、息を整えた。胸の奥、薄いガラスを爪でひっかく音――その正体に、名前を与える。


 「空が、痛いって言ってる。ずっと。子どものころから、ときどき夢で聞いてた。今日は、夢じゃない音になってる」


 言葉にしてしまうと、怖さが増すかと思ったのに、反対だった。音は、言葉にすがって形を持ち、形を持ったぶんだけ、人の側へ降りてくる。


 「だから、祈るの。止めるじゃなくて、やさしく、って」


 渚はうなずいた。迷いはない。


 「いっしょに祈ろう」


 ふたりは、風鈴の真下に立ち、空を見上げた。


 白い尾は遠い。けれど、風は近い。


 りんが掌を開いて、目を閉じる。渚がその手に自分の手を重ねた。


 呼吸の速度を合わせる。四つ数えて吸い、六つ数えて吐く。


 心臓の音が、次第に似てくる。


 言葉は、短いほうが祈りになる。


 りんは胸の奥で繰り返した――「痛くないほうへ」


 渚も、同じ言葉を、重ねた。


 「痛くないほうへ」


 風鈴が、ひときわ澄んだ音で鳴った。


 それは奇跡じゃない。ただの物理。けれど、奇跡もまた、ただの物理のなかで起きる。


◇ ◇ ◇


 少しして、渚が「わたしも、言いそびれてたこと」と言った。


 ポケットから、金色の小さな輪を二つ取り出す。キーホルダーの予備のリング。


 「買っておいたんだ。ずっと前に。なんか、うまくいかない日が続いて、でも、終わらせたくないものがあるって分かったとき。……言うつもりだった。世界がぜんぶ元気な日に」


 りんは目を丸くした。風鈴の音が一拍、遠くなる。


 「りん、もし世界がつづくなら、わたし、りんのお母さんに挨拶に行きたい。性別がどうとか、そういう制度が追いついてなくても、ちゃんと、りんの隣で生きたいって言いたい。

 ……でも、もし続かないなら、いまここで、指に輪っかを通させて?」


 りんは笑って、泣いた。


 涙が風に冷やされる前に、指を差し出す。渚が小さなリングを、薬指にそっと押し込む。もう一つを、りんが渚の指に。


 金属の冷たさはすぐ体温に馴染んで、存在は小さいのに、意味だけが大きくて、ふたりの手のひらが少し震えた。


 「ねえ、誓いとかって、言葉が決まってるの?」


 「知らない」


 「じゃあ、作ろう」


 りんは息を吸い、風鈴の音の切れ目に、ゆっくり言葉を置いた。


 「“まだ”を、“ずっと”に変える」


 渚が続ける。


 「“終わり”のなかに、“はじまり”を見つける」


 「そして」


 「そして、痛くないほうへ」


 空は何も答えない。けれど、風が頷いたような気がした。



 丘の草むらで、ふたりは石をいくつか拾い、小さな円をつくった。


 真ん中に風鈴の影が落ち、輪の向こう側で、街の灯りが薄く揺れる。


 円は不格好で、すぐ崩れそうだ。それでも、境界は、心に地図を描く。


 「記念に、なにか、置いていこうか」


 渚が言いながらリュックを探る。


 「これ」


 取り出したのは、二冊の小さなメモ帳。片方の表紙には、白い猫。もう片方には、星。


 「どっちがいい?」


 「星」


 「やっぱり」


 それぞれの表紙の裏に、短い手紙を書く。


 ――『渚へ。空が終わる日まで、わたしは呼吸をやめない。あなたの名前で、空気が少し甘くなるから』


 ――『りんへ。もし、世界が紙の裏側にひっくり返っても、手を離さない練習はもうできてる』


 メモ帳は、石の円のいちばん太陽に近い場所にそっと置く。風に飛ばないよう、白いゴムでくるりと留めた。


 りんが笑って言う。


 「時間に埋めるタイムカプセル」


 渚も笑う。


 「風が掘り返してくれるかも」


 風鈴が、また鳴る。


 今度の音は、すこしだけ、あたたかい。


◇ ◇ ◇


 祈りは、形を変えながら続いた。


 ふたりは並んで座り、ときどき立ち上がり、手を握り、離し、また握った。


 言葉は少なくなり、呼吸のリズムだけが残っていく。


 遠い地平線で、薄い光が二度、三度、水平に走った。続いて、地面の奥から低い音が遅れてやって来る。


 世界は、確実に、終わる方向へ進んでいる。


 それでも、いまこの場所では、ふたりの時間が、静かに、広がる方向へ進んでいた。


 渚が、ぽつりと言う。


 「りんといると、世界って、大丈夫な気がする」


 「それ、わたしのセリフ」


 「じゃあ、半分こ」


 「うん」


 言葉を半分こしたら、怖さも半分こできる。


 りんはそれを確かめるように、渚の肩に額を預けた。


 頬に感じるパーカーの布が、温度をよく知っている。


 風鈴は、間を読みながら、必要なぶんだけ鳴る。



 夜が深まるにつれ、同じ丘に座っていることが、ひとつの灯台みたいに思えた。


 どこかで、誰かも、同じように空を見上げているかもしれない。知らない誰かの呼吸が、風の向こうに重なっているかもしれない。


 祈りは、ひとの数だけ違って、ひとの数だけ正しい。


 「ねえ、渚」


 りんが目を閉じたまま言う。


 「空はね、ときどき“ごめんね”って言ってる気がする」


 渚は少しだけ驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。


 「やさしいね、空」


 「ね。やさしい」


 「大丈夫だよ、って言い返そう」


 ふたりは同時に、空へ向かって、声を小さく重ねた。


 「だいじょうぶだよ」


 風が運ぶのにちょうどいい重さの言葉。


 それは、祈りよりも簡単で、祈りよりもすこし日常に近い。


◇ ◇ ◇


 気づけば、東の端がわずかに薄くなっていた。


 夜の底は、けっして一枚の布ではない。何層もの暗さが重なって、どこかでじわりとほつれ、光が滲み出す。


 渚が立ち上がり、両手を大きく伸ばした。背骨が小さく鳴る。


 りんも立ち、同じように伸びをする。体の隅々に酸素が触れると、眠っていた部屋の灯りを順番につけていくみたいに、感覚が整っていく。


 「帰ろうか」


 「うん。また夜に来よう。……風鈴、置いていってもいい?」


 「置いていこう。ここが、わたしたちの、風の住所」


 輪にならべた石の円に、小さく一礼する。


 石は、なにも答えない。


 それでも、帰りぎわに風鈴が一度だけ、はっきり鳴った。


 合図のように。



 坂をくだる途中、渚が足を止めた。


 「ねえ、りん。最後に、もうひとつだけ、贈りもの」


 渚は自分のパーカーのポケットを探り、細い赤いリボンを取り出した。


 「髪、ほどけてる」


 りんが笑う。


 「たぶん、風のせい」


 「わたしのせいでもある」


 渚は、りんの髪を指先でまとめ、白いゴムに重ねるように、赤いリボンを結んだ。蝶々結び。風が、そっと、羽根を試す。


 「似合う」


 「渚が結んだから」


 「じゃあ、毎日、結ぶね」


 「うん。毎日」


 “毎日”は、奇跡にいちばん近い日常語だ。


 ふたりはそれをポケットにしまって、歩き出した。


◇ ◇ ◇


 別れ際、玄関灯の下で、ふたりは指輪を確かめ合った。


 安い金属。軽い輪。


 なのに、指の根元で、脈と一緒に、かすかな音がする気がした。


 「明日」


 りんが言う。


 「うん、明日」


 渚が言う。


 扉が閉まる。


 りんは背中を扉に預け、目を閉じた。


 耳の奥のガラスの音は、もう、ほとんどしない。代わりに、風鈴の余韻が、遠くで続いている。


 机に向かい、ノートをひらく。


 ――『祈りは、止める言葉じゃなくて、加える呼吸。

  世界の終わりに間に合わないやさしさでも、世界の終わりに間に合わせたいやさしさはある。

  痛くないほうへ。

  “まだ”は、今日も灯った。』


 ペンを置く。


 窓の外が、ごくわずかに白む。


 りんはそっと、指輪に唇を触れた。


 赤いリボンが、肩のあたりで小さく揺れる。


 「おやすみ、渚」


 その声は、風鈴のほうへ、まっすぐ落ちていった。


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