終わりの空 3 「夜の街、終わりの足音」
朝は、まだ来た。
そして、驚くほどいつもどおりだった。
冷蔵庫のモーターが短く唸り、蛇口からは細く水が落ちる。食パンをトースターに入れて、レバーを下ろすと、白いパンは黄金色へゆっくりと移動する。
りんは焼き上がったパンを何も塗らずにかじった。乾いた音。口の中で砕ける粒。噛むたびに、身体のどこかが「つづく」を思い出す。
窓の外の空は浅い青で、白い尾は、昨日より太かった。
まぶたの裏で、細いガラスを爪でひっかくような音がまだ残っている。いつのまにか、それは「怖い」よりも「確か」を表す印に変わっていた。
りんは髪を結び、扉に手をかけた。
「行ってきます」
返事はない。けれど、その言葉は、身体の内側を出発させる合図になる。
◇
約束の角には、渚がいた。
デニムの上から薄いパーカーを羽織り、手にはペットボトルが二本。「ぬるいけど」と笑って差し出す。
りんは受け取り、ラベルを指でなぞる。指先の乾いた感触。ボトルの中で水面が揺れて、微かな光が跳ねる。
「今日は、学校行かない?」
渚の声は、少しだけ浮力を持っていた。
りんはうなずく。
「屋上、風が気持ちいいから」
ふたりは並んで歩く。
路地を抜けると、校門の前に立った。鉄の門は半分閉まり、チェーンはかけられていない。張り紙には《臨時休校》の文字。日付の数字だけが、誰かの手で何度も書き直された跡があった。
「入ろうか」
渚がチェーンを外し、静かに門を押す。開く音は、思ったよりも軽い。
校庭の砂は風に撫でられて、薄い波紋をつくっていた。白線はほとんど消え、ベンチは横倒し、掲示板のチラシは角から色を失い、めくれあがっている。
体育倉庫の扉に手を触れると、金属のひんやりが指の腹を冷やした。
「ねえ、覚えてる?」
渚が視線で旧校舎の三階を示す。
「あの理科室の前で、先生に隠れてお菓子食べた」
「先生、全然気づいてたよ。わざと見逃してくれただけ」
「……そういう優しさって、たぶん、世界が続いている限りの奇跡だよね」
言葉にしたら、胸の奥で何かがほんの少し明るくなった。
◇
階段は静かだった。
踏むたびに薄い埃が舞い、窓から斜めに入る光が、その埃を小さな星の群れみたいに見せる。
二階の廊下の端にある黒板に、チョークで大きく書かれた文字が残っていた。《またね》。
誰が書いたんだろう。いつ書いたのだろう。上から小さな字の落書きが重なる。《約束》《忘れない》――字は不揃いで、線は震えているが、その震えは生きている線だった。
りんはチョークを拾い上げ、黒板の端に小さく書いた。
《りん》。
渚もその隣に、ためらいがちに書く。
《なぎさ》。
ふたりで並べて見ると、それだけで、少しだけ未来に触れたような気がした。
「写真、撮れたらね」
渚が言う。
「うん。撮れなくても、覚えてる」
ふたりは顔を見合わせて笑い、それから、最後の階段を上がった。
◇ ◇ ◇
屋上の扉は、鍵がかかっていなかった。
重い鉄が空気を押し、ひんやりした室内の匂いが、一気に夏の風に溶ける。
視界が開いて、街の輪郭が低く広がる。遠くの高架。さらに向こう。浅い空。白い尾。
柵に近づくと、風が頬の汗をすっと奪った。
りんは手のひらを柵に添え、目を閉じる。耳の奥のガラス音が、一瞬、はっきりする。
「痛いって、言ってる」
りんが小さく呟く。
渚はりんの肩にそっと指を置いた。
「空が?」
りんはうなずく。
「でも、やさしい風もある。混ざってる」
ふたりは並んで、街を見下ろす。
風が髪をほどき、光がまつげの縁に白く引っかかる。
遠くで、空がしらじらと閃いた。稲光みたいだけど、雷鳴はない。光の筋が横に走り、しばらくしてから、深い場所で何かが低くうなる音が届いた。地面の底にスピーカーがあって、世界の低音だけを鳴らしているみたいな感触。
「ね、渚」
「なに?」
「“まだ”って、すごい言葉だね」
渚は横顔を見る。
「うん」
「まだ落ちてこない。まだ朝が来る。まだ、手をつなげる。――“まだ”って、延長じゃなくて、たぶん、いまを明るくする灯りなんだ」
渚は笑って、りんの手を取った。
「じゃあ、“まだ”を増やそう。まだ笑える。まだ冗談言える。まだりんは、わたしにキスしてくれる」
りんは頬を赤くして、風に紛れるほど小さな声で、「……ばか」と言った。
それから、ほんの少しだけ背伸びをして、渚の頬に触れた。唇は触れたか触れないかの温度で、それでも心臓は確かな音を打った。
◇
屋上の隅に自販機がひとつ、取り残されていた。
電源は生きているのか、液晶の数字が弱々しく点灯している。
「出るかな」
渚がポケットから小銭を出した。百円玉二枚。投入口に吸い込まれると、「ウィーン」と古びた音が鳴り、緑茶のボタンがぼんやりと光った。
渚が押すと、しばしの沈黙のあと、金属とプラスチックがぶつかる鈍い音。「コトン」。
ふたりは思わず顔を見合わせ、笑った。
「すごい」「すごいね」
取り出し口から取り出したペットボトルは、ほんの少し冷たかった。その冷たさが掌から身体へ伝わる通路を、ふたりは確かめるようにゆっくりと飲んだ。
空がまた閃く。
今度は、低い雲の向こう側で、音より先に空気が震える。
世界が何か大きな息をしている。吐いて、吸って、また吐く。その呼吸が、いつもよりほんの少しだけ速い。
「怖くない?」
渚の問いに、りんは正直に答えた。
「怖いよ。でも」
「でも?」
「渚と見てるから、きれい、って思う」
渚は、ペットボトルの蓋を握ったまま、りんをまっすぐ見る。
「りん」
呼ばれた名前は、屋上の風に一度揺れてから、胸の中心に落ちた。
「好きだよ。――“まだ”じゃなくて、“ずっと”だから」
りんは目を伏せ、笑った。
「うん。ずっと」
言い切ったその言葉は、世界の終わりの計算式の外側にある、確かな答えみたいに感じられた。
◇ ◇ ◇
日が傾き、屋上の影が長く伸びる。
ふたりは階段を降り、廊下の「またね」前でもう一度立ち止まった。りんは黒板消しで隅に薄く残った落書きを軽く撫で、「またね」を残したまま、ふたりの名前だけを指でなぞる。
渚がそっと重ねる。
「ねえ、これ、ほんとに“またね”になるかな」
「なるよ」
りんは頷く。
「“またね”は、未来に投げた手紙。届くかどうかじゃなくて、投げることで未来が生まれるんだと思う」
外に出ると、風が強くなっていた。
校門を閉め、チェーンを戻す。ガチャリ、と金属の小さな音が、やけに遠くまで届いていく。
◇
帰り道、古い商店街は、夕方の名残りの匂いをまだ持っていた。焼き鳥のタレの甘い焦げの気配。どこかの家から漏れる味噌汁の湯気。
電気の消えたパン屋のショーケースに、ひとつだけ取り残されたクロワッサンがある。ビニールの中で薄い金色に眠っている。
りんは扉の前で立ち止まり、ショーケースに百円玉を二枚、そっと置いた。
「泥棒じゃないよって、言い訳じゃないんだ」
渚が微笑む。
「うん。ありがとうって、たぶん、こういう形でも届くから」
手ぶらで、ふたりはまた歩き出す。
遠くの地平線で、光が走る。
今度は、稲光よりも長く、低く広がる光。街灯がそれに呼吸を合わせるみたいに一瞬だけ暗くなり、すぐに元に戻った。電気の生きている気配が、心臓の鼓動と変わらないテンポで息づく。
「世界が……」
りんが言いかけて、やめる。
渚は代わりに言葉を置く。
「いま、ここにある」
その簡単な言い換えが、夜の入口で灯りになった。
◇ ◇ ◇
りんの家の前で、渚は立ち止まった。
玄関灯がつく。虫が小さな影になって灯りに集まる。
「明日、また学校行こうか」
渚の提案に、りんは頷く。
「うん。黒板、もう一枚、“またね”増やしたい」
「わたし、教室の机に落書きしようかな。先生に怒られないように、裏側に小さく」
「見つけた子が、ふふって笑えるように」
「うん」
別れ際、渚は「言いそびれてたことがある」と小さく言った。
りんが首を傾げる。
「明日、言うね。ちゃんと言葉を選びたいから」
りんはそれに「楽しみにしてる」と答えて、扉に手をかける。
「おやすみ、渚」
「おやすみ、りん」
扉が閉じる。
渚はしばらくそこに立ち、空を仰ぐ。白い尾が、さっきよりもわずかに濃い。
「まだ」
渚は呟く。
「まだ、言える」
踵を返し、夜の路地へ歩き出した。
◇
部屋に戻ったりんは、机に向かい、ノートを開いた。
ペン先を紙に置くと、言葉が静かに現れる。
――『屋上で風を吸った。世界の呼吸は速い。でも、わたしたちの呼吸は、それより少しだけゆっくり。ゆっくりのほうが、心臓の音がよく聞こえる。
黒板の「またね」は、未来に向けて開いた小さな窓。窓があると、風が通る。風が通ると、祈りやすい。』
書きながら、りんは気づく。
さっきまで耳の奥で鳴っていたガラスの音が、少しだけ遠のいたことに。
代わりに、風の音が近い。
風は、空の痛みと人の体温の境目を、やさしく撫でていく。
窓の外が、一瞬だけ白く光った。
続いて、低く、遅い音が床下から響く。
りんはペンを置き、深呼吸をした。肺の内側に新しい空気が入ってきて、出ていく。その出入りが、世界の出入りと一緒に揺れる。
「……まだ」
りんは声に出してみる。
言えた。
その言葉が、部屋の四隅に灯りを点ける。
スマホを胸に置き、布団にもぐる。
「明日」
その二文字を、まぶたの内側にそっと置く。
眠りに落ちる直前、誰かが名前を呼んだ気がした。
“りん”――風の声か、渚の声か、空の声か。
どれでもよかった。どれも、正しかった。
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