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沈む光、残る想い 3(終)

 夜。橋の上。水面が夕焼けを薄く返す。


 胸ポケットから巾着を取り出す。

 中のリングは、触れただけでわかる丸さと冷たさ。


 「捨てる?」


 苦笑する。そんなに簡単なら、“約束”なんて名乗らない。


 リングを指先で回す。

 内側の刻印――“R & K”――が滲む。


 遠くで救急車のサイレン。

 街のどこかの痛みが風に運ばれていく。


 「ねぇ、こうき」


 名前を呼んだ声は、思っていたより静かだった。


 「わたし、ちゃんと、好きだったよ」


 言葉にすると、言い訳の余地が消えていく。

 渚のことを嫌いになれない自分も、こうきのずるさを責めきれない自分も、ぜんぶ、わたしだ。


 欄干に額を寄せる。

 鉄の冷たさが思考を透明にする。


 明日のわたしは今日より少し強くありますように――

 祈りにもならない願いを胸奥で丸めた。



 朝は、思ったより普通に来た。


 教室。渚の「おはよう」は少し震えて、わたしの「おはよう」は少し上擦った。


 こうきは廊下から手を振る代わりに、目で合図した。

 「放課後」

 わたしは小さく頷いた。


 昼休み、遼が黙って机に置いた紙コップの温かいスープ。


 「塩分」


 「医者みたい」


 「比喩」


 短い会話が、呼吸を繋いでくれた。


◇ ◇ ◇


 放課後。校舎裏。昨日と同じ場所。風向きだけが違う。


 こうきは待っていた。制服の襟を少し立て、ポケットに手を突っ込んで。


 「昨日、言えなかったことがある」


 「うん」


 「りん……ごめん。本当に、りんのこと、大事だった。今でも」


 「でも?」


 「でも、渚のことも、放っておけなくなった」


 「そう」


 「どうしたら良かったんだろうな。全部、間違いだった気がする」


 「間違いでも、あたたかかった時期があったでしょ」


 「……あった。忘れられない」


 「それでいいよ」


 「許して、くれる?」


 「許さない。でも、責めない」


 彼の目が揺れた。

 沈む陽光の中で、影がわたしの足元を包む。


 「渚に会ったよ。全部、聞いた」


 「そうか」


 「渚のこと、嫌いになれなかった。

 きっと、こうきが好きな渚は、わたしの好きな渚でもあるから」


 彼は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 ポケットから同じ巾着を取り出す。

 中には、わたしとおそろいのリング。


 「これ、返す」


 「……ありがとう」


 金属の冷たさが皮膚の奥まで沁みる。


 沈黙。風が紙片を転がす。


 「終わりにしよう」


 「終わり、か」


 「うん。お互いに、次に進めるために」


 わたしは背を向けた。

 振り返らない。誰かを失うとき、人は後ろを見てしまうから。


 数歩進んで、深呼吸をひとつ。

 胸の内側で何かが静かに形を変える音がした。



 帰り道、川沿いの風が少し冷たい。

 鞄の中の巾着が足取りに合わせて小さく揺れた。


 橋の上に立つと、沈みきった夕陽が水面に散り、金の粉みたいに漂う。


 リングを光にかざす。


 「綺麗だね」


 誰に向けるでもなく呟いて、指先で回す。

 輪は何も言わない。わたしの表情を薄く映して、ただ在る。


 スマホが震える。


 ――茅ヶ崎渚:〔今夜、話せる?〕

 ――久遠遼:〔帰り道、橋のところにいるなら、風が強いから気をつけて〕

 ――かずまさこうき:〔ごめん、ありがとう〕


 わたしは画面を暗くした。


 足音が近づく。


 「星空」


 遼が、少し離れた場所で立ち止まる。


 「そこ、風、強い」


 「知ってる」


 笑うと、目尻が少し痛んだ。


 遼はなにも聞かない。

 ただ、ポケットからティッシュを出して、わたしの手の届くところに置いた。


 「布」


 「それ、ティッシュ」


 「うん」


 短い言葉の往復が、風鈴みたいに鳴って、少しだけ胸が軽くなる。


 「ねえ、遼」


 「なに」


 「今日のわたし、正しく選べたかな」


 「選んだ方を、正しくしていけばいい」


 「そんなに簡単に?」


 「簡単じゃない。でも、答えはいつも今日にしかない」


 遼の声は乾いた空気にやさしく溶ける。


 わたしは頷き、視線を空に戻した。


 もう、明日の予報は要らない。



 夜の匂いは、誰のものでもない。


 ドアを閉めると、室内の静けさが耳の奥で膨らむ。


 机に巾着を置き、椅子に座る。

 ノートを開き、ペン先が一度だけ震えた。


 ――ありがとう

 ――さようなら

 ――ごめんね


 何度も入れ替えた言葉の最後に、そっと書き足す。


 ――大丈夫


 窓の外で誰かの笑い声がかすかにして、すぐに遠ざかった。


 胸の奥で、涙の順番が整列する。

 今ではない、でもきっと近いうち。


 呼吸が静かに整っていく。


 ベッドサイドの灯りを落とす。

 暗闇は、思っていたほど怖くなかった。


 瞼の裏に、今日の光景が映る。

 渚のクリップ。こうきの眉間の皺。遼の差し出す“布”。


 指先に、リングの冷たさの記憶。


 そこまで確かに辿ってから、わたしは、やっと、ひとつ息を吐いた。


 「……好きにならなければ、よかった」


 声にしたら、戻れない呪文みたいに部屋の空気へ沈んでいく。


 けれど、その直後、胸の奥で小さく灯りが瞬いた。

 あの拙いぬくもりの記憶が、まだ手のひらのどこかに残っている。


 涙が頬を伝い、枕に落ちる。

 音はしない。だけど、確かに何かが壊れて、そして、別の何かが生まれる気配がした。


『沈む光、残る想い』―終―

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