終わりの空 2 「渚との再会」
夕方の光は、町の輪郭をやわらかく削っていく。
点滅で止まった信号の赤が、低く長く路面に伸び、誰も渡らない横断歩道の白を、血のようでも、ミルクのようでもない、どこにも分類できない色に染める。
風は昼より弱く、空気は海の匂いをほんの少しだけ含んでいた。
りんは、線路沿いの道を歩いた。
踏切は開いたまま。警報機は黙り、遮断機は上がりきった姿勢で手を下ろすことを忘れている。遠くの高架の向こう、薄雲の切れ目から、白い尾がまたひとつ太くなっていた。
足音は砂利を踏み、草の穂を折り、眠っている町の耳元で小さな波紋になって消えた。
線路脇のフェンス越しに、空き地に置かれた青い自転車が見える。錆びたチェーン、空気の抜けたタイヤ。誰かの時間がそこに置き去りにされて、まだ温度だけを持っている。
りんは歩く速度を落とした。
胸の中のどこか――名前の書かれていない引き出しが、ゆっくりと開く気配がしたからだ。
「……やっぱり、ここにいたんだね」
振り向くより先に、涙腺が先に反応した。
声の音色が、骨の奥の古い水琴窟を震わせるみたいに響いて、りんはまぶたをきゅっと閉じ、すぐに開いた。
渚が立っていた。
陽に褪せたデニムのジャケット。いつもより高い位置でまとめた髪。少し痩せた頬。でも、笑うと、口元の形だけは昔のまま、正確に記憶と重なった。
「渚……」
名前が喉を抜けると、肩から何かがすっと落ちていく。
渚は二歩だけ近づいて、立ち止まった。あと一歩で触れられる距離。けれど、その一歩は、互いのために残しておくべきもののように思えた。
「スマホ、つながらないでしょ」
渚が苦笑する。
りんはうなずいた。
「三日前のメッセージ、見てるよ。ずっと」
渚は、ほっとした顔で目を細めた。
風が二人の間を通り抜け、髪の先を整える。
「逃げないの?」
「逃げても、空はついてくるから」
それで、会話はいったん終わった。
でも、言葉が少なくなるほど、沈黙がやさしくなることを、二人は知っていた。
◇
日が落ちるまでのあいだ、二人は線路沿いを歩いた。
フェンスの向こう、学校のグラウンドが見える。白線は風に削られ、ベンチは斜めに倒れ、バックネットの一部は外れて風鈴みたいな音で鳴った。
「ここ、覚えてる?」
と渚が顎で指す。
りんは笑う。
「体育でシャトルラン。ぜんぜん走れなかったわたしを、渚が引っ張ってくれた」
「引っ張ったのは、手じゃなくて声だよ。『もう一回だけ』って、りんが笑いながら言うから、わたしの足が勝手に動いたんだってば」
そんなふうに、記憶の糸を巻き戻しては、途中で切れた端を結び直すみたいに話した。
話していると、空の白い尾のことを忘れられた。忘れられる時間があると、人はうまく呼吸ができる。
線路脇のベンチに腰掛ける。木の座面はひんやりして、ふたりの体温を均等に分配して受け止めた。
渚が両手で紙コップのコーヒーを包んで差し出し、りんは受け取る。苦い。けれど、その苦さが「生きている」を指し示す細い矢印みたいで、舌に残る余韻をわざと長く味わった。
「本当に……落ちてくるんだ……」
りんが空を見上げたまま言う。
渚はうなずく。
「うん。でも、まだ落ちていない」
「それだけで、ちょっと救われる」
渚はりんの横顔を見た。
まつ毛の上に残った光の粒、風でほどけた髪の一本、耳たぶの薄い血色。世界が終わることより、この輪郭を、この温度を、失いたくないと、胸の中心がはっきりと疼いた。
「りん」
呼ばれて、りんは目だけを渚に向ける。
「最後まで、空を一緒に見よう」
「うん」
◇
夜のはじまりは、空気の密度が変わる合図だ。
街の灯りが半分ほど消えて、残った光がため息みたいに低く揺れる。遠くの高速道路の高架が、鈍い金属の体温で光っている。
コンビニの前をまた通る。自動ドアは開かない。ガラス越しに、冷凍庫の青が二人の顔色に薄く重なった。
渚がガラスに軽く額を当てる。
「アイス、食べたくない?」
「食べたい」
「入れないけど」
「……じゃあ、思い出で食べよう」
りんは両手を小さなカップをすくう形にして、口元に運ぶ真似をした。
渚はその仕草に乗って、スプーンを差し出す役を演じる。
「どうぞ、お嬢さま」
「ありがとう、店員さん」
口に入れたふりをして、ふたりで「冷たいね」と笑った。演技だとわかっていても、身体は錯覚を喜ぶ。想像の冷たさが、喉の渇きを一瞬だけ忘れさせた。
角を曲がった先、公園。錆びたジャングルジム。砂場の縁に置かれた赤いバケツ。
ブランコは昼よりも大きく揺れ、その影が地面に黒い魚みたいな形で泳いでいる。
渚がベンチに座り、りんは渚の肩に頭を預けた。
「世界が……」
りんの声は、砂の上に滲む水の輪みたいに小さかった。
「終わっちゃうの?」
返事は、すぐに言葉にはならなかった。
渚はかわりに、りんの指を探し、指と指を重ねた。
「――まだ、終わらせない」
手のひらの温度が、胸の裏側から灯りを点ける。小さな灯り。けれど、それが世界の地図の中心に思える夜がある。
◇ ◇ ◇
中学二年の夏祭りの夜のことを、ふたりは同時に思い出していた。
人混みの流れから外れて、神社の裏の細い道。提灯の光が届かない暗がりで、金魚すくいの水音が遠くで笑っている。
渚が「りん、手」と言って、指先を絡めた。りんはびっくりして笑って、けれど、すぐにぎゅっと握り返した。
「もし世界が終わるときがきたら」
渚がふざけ半分、真剣半分の声で言った。
「いっしょに空、見よう」
「うん。いっしょに」
それから、頬と頬が触れあって、ひやりとした体温の交換みたいなキスをした。
短くて、拙くて、世界のすべてのはじまりみたいな味がした。
――約束は、未来を現在に連れてくる呪文だ。
いま、夜の公園のベンチで、ふたりはその呪文にもう一度、声を与えた。
「渚」
「うん」
「ずっと好き。終わりが来ても」
「終わりが来ても、りんを好きでいるわたしでいたい」
言葉は、破れそうな夜気にやさしく置かれ、吸い込まれていく。
白い尾が、雲を裂いて、遠い地平線をゆっくり横切った。稲光のようにひときわ強い光が走り、二人の頬の涙の粒に、ほんの一瞬だけ星を宿した。
◇
帰り道、ショーウィンドウの前で立ち止まった。
古い写真館。昼間見たウェディングドレスは、夜の硝子越しに月光を借り、別の時間の衣装みたいに見えた。
渚がぽつりと言う。
「これ、似合うかな、わたし」
りんは笑う。
「似合う。絶対」
「りんは?」
「……白、緊張しちゃう。でも、渚が隣にいるなら」
ふたりで、硝子に映った自分たちの輪郭を見た。
並んだ肩の高さ、髪の落ちる角度、笑ったときの頬の影。
世界が終わるとしたら、この映り込みだけでも、未来に残ってくれたらいい、と一瞬だけ思った。
けれど、硝子はただの硝子で、写真は撮れない。
だから、りんはそっと渚の小指に自分の小指を絡めて、小さく結ぶ真似をした。
「約束」
「約束」
◇
りんの部屋まで送ってくれた渚は、玄関灯の下で立ち止まった。
「明日も、会える?」
渚の声は、昼より少しだけ細かった。
「会える。明後日も。……その次も」
「うん」
渚が一歩、近づいた。
りんの頬に、渚の親指が触れる。温度は、昼のコーヒーより少し高い。
「おやすみ、りん」
「おやすみ、渚」
別れ際に、渚は何か言いかけて、やめた。
言葉にすると壊れる種類の気持ちが、世界には確かにある。
扉が静かに閉まり、鍵が回り、夜が部屋の外と内にぴったりと貼りついた。
◇ ◇ ◇
渚はひとり、線路沿いの道を戻った。
ポケットの中の古いキーケースが、歩くたびに小さく鳴る。
空を見上げると、白い尾が、さっきよりもわずかに近かった。
「……本当に、落ちてくるんだね」
呟いて、笑う。
怖さと、確かさと、誰かを好きだと思う気持ちが、全部同じ温度で胸に重なって、歩幅は自然に一定になった。
公園の前を通り過ぎるとき、ブランコが風でまた揺れた。
その揺れの回数を、なぜか数えてしまう。四回、五回、六回――。
七回目のとき、渚は足を止めた。
思い出したのだ。
りんに言いそびれたことを。
伝えるつもりでいた、言葉を。
けれど、それは、明日に回すことにする。
明日も会える。明後日も。
世界が終わるまでの間、言葉はきっと、順番に出番を待っている。
渚は空に向かって、短く、祈るように息を吐いた。
祈りは宗教じゃなく、習慣に近い。
大切な人の名前を心で繰り返すだけで、世界は少しだけ穏やかになる――そう信じたくなる夜がある。
「りん」
名前は、誰もいない交差点の真ん中で、ひとつだけ音になった。
信号は赤のまま、世界は静かなまま。
それでも、その音は、きっとどこかへ届いた。
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