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終わりの空 1 「空が落ちてくる」

 朝のニュースは、もう流れなくなって三日目だった。


 代わりに、どのチャンネルにも同じ静止画が貼り付いたままだ。雲の切れ間から覗いた青と、そこに斜めに走る白い尾。右下の小さな文字が、すべてを簡単に言い切っている――《衝突予測:七日以内》。


 冷蔵庫のモーターがうなる音だけが、部屋の呼吸みたいに続く。


 カーテンの隙間から差した光は、夏の終わりにしてはやけに澄んでいて、埃ひとつまで綺麗に見せてしまう。りんはマグカップを両手で包み込み、ぬるくなったココアをひと口だけ飲んだ。甘さはまだ残っているのに、舌の上でほどける前に味が途切れてしまう。


 スマホは、昨日から圏外の表示に固定されたままだ。再起動しても、設定をいじっても、何も変わらない。


 ロック画面に置きっぱなしのトーク通知だけが、時間から取り残された島のように残っていた。


 ――『りん、どこにいるの? 会いたい。』


 三日前の、渚のメッセージ。


 親指がその文字に触れかけて、止まる。もう既読をつける電波はない。それでも、触れたら、そこで何かが壊れる気がして、りんは指を引いた。マグカップを空にして、流しに置く。水道のハンドルをひねると、水はまだ出た。透明な水が、流しの銀色をきれいに洗っていく。


 りんはパーカーの袖をまくり、髪を結び直す。鏡の中の自分が、少しだけ他人に見えた。頬に落ちた影は、寝不足のせいなのか、世界のせいなのか。


 玄関のドアを開けると、セミの声と風の匂いが飛び込んできた。アスファルトは熱を吸ったまま、通りには人影がない。信号は点滅で止まり、遠くの踏切は開いたまま静止している。


 自転車のチェーンをゆっくりと回し、ペダルに体重をかける。タイヤが砂を踏む音が、夏の骨の音に重なった。



 町のどこも、色が少し薄くなっていた。シャッターの降りた商店街。貼られた「臨時休業」の紙。ビニール越しに見えるパンは、乾いた砂のように硬く光っている。


 コンビニの前を通ると、自動ドアが「いらっしゃいませ」を言うタイミングを忘れたみたいに沈黙していて、ガラスに映る自分の姿だけが「生存」を証明していた。


 りんはペダルを止め、コンビニのガラスに額を軽く当てた。ひんやりとした感触が、額から静かに体に落ちていく。


 中では冷凍庫のランプだけが点いていて、青白い箱の中で氷の袋がきれいに並んでいた。誰かが昨日まで並べていた手の形が、そこに残っている気がした。


 ――誰かが作ったものは、誰かの時間でできている。


 そのことを考えると、急に喉が苦くなって、りんは自転車に乗り直した。



 丘へ向かう坂は、相変わらずしんどい。


 「はぁ」と息を吐くたび、胸の奥の重さが少し軽くなって、また重くなる。風が髪をほどいて、首筋に貼り付く汗の線をすっと乾かす。


 丘のてっぺんまで登ると、風景は突然、広がりの形を思い出したみたいに開ける。鉄塔が線を引き、遠くの高架が光って、さらに向こう――空のもっと向こう――白い傷みたいな線が、斜めに走っている。


 りんは自転車を草むらに倒し、草の匂いの上に身を投げ出した。空は、雲を薄く削いだように浅い。


 目を細めると、白い尾の先に、ほんの点みたいな光が見える。たぶん、それが“本体”。


 耳のどこか、鼓膜のさらに向こうで、ガラスを爪で引っかくような微かな音がしている気がした。


 「本当に……落ちてくるんだ……」


 自分の声が、思っていたより小さかった。風に混ざって、草と一緒に揺れていく。


 誰も答えない。けれど、それでよかった。いまは、答えがないことが、唯一の優しさに思えた。


 背中の下で土が温かい。


 目を閉じると、暗闇の中にもあの白い尾が残像で浮かび、まぶたの内側まで夏の明るさに染まっていく。


 りんは手を胸の上に重ね、ゆっくりと息を吸った。肺の奥の冷たさがじんわりと広がり、骨のきしみを静かに撫でる。


 ――終わる。


 その二文字は、あまりにも単純で、無数の意味を抱えていた。



 午後、雲が厚みを増して、光の角度が柔らかくなる。丘の下の道路に、避難する車の列が短く伸びては切れ、またつながっていく。クラクションは鳴らない。人々は、不思議なほど静かに、同じ方向を向いていた。


 りんはリュックからペットボトルを出し、ぬるくなった水を少しだけ飲む。


 喉の渇きは消えない。けれど、飲むという行為自体が、体の中の「続ける」を確かめる合図になっていた。


 空の白い尾は、午前より太く、短く見えた。近づいてきている。


 「世界が……」


 とりんは口の中でだけ言った。言葉にすればほどけてしまう糸みたいで、声にできなかった。


 ポケットの中で、スマホが小さく震えた気がして、りんは驚いて飛び起きる。


 けれど、それは風の悪戯だった。圏外の表示は、何も変わっていない。


 画面をタップすると、ロック画面の下に、変わらないメッセージが光った。


 ――『りん、どこにいるの? 会いたい。』


 その一行が、体の内側のいちばん柔らかい場所に、まっすぐ刺さった。


 「……渚」


 と、りんは名前を呼ぶ。


 呼んだ相手がここにいないことを知りながら、名前の形が、喉の奥のざらつきを少しだけ溶かしてくれる。



 日が傾き始めた。丘の影が長く伸び、町の輪郭に近づいていく。


 りんは自転車を起こし、坂を下りる。ブレーキが鳴いて、タイヤが砂利を拾い、湿った土の匂いが立ち上がる。


 帰り道は、行きより短く感じた。世界の終わりは、いつも帰り道の匂いがするのかもしれない。


 途中の公園で足を止める。ブランコの鎖が風でわずかに揺れて、錆の音を鳴らす。滑り台の影が、地面に長い言葉のように落ちていた。


 りんはベンチに座り、空を見上げる。白い尾は、夕焼けの色を吸って淡い金色になり、雲の端に炎の縁取りをつけている。


 「終わっちゃうの?」


 今度はちゃんと声に出した。


 問いは空へ、そして自分へ。


 答えはどこにもない。けれど、言葉にしたことで、胸の中のどろりとしたものが、少しだけ形を与えられた。


 りんはポケットに手を入れ、スマホを握る。


 圏外の表示。


 けれど、画面の向こう側には、渚がいる。名前を呼べば振り向く距離にいないとしても、呼ばれた名前はどこかに必ず届く、と信じたかった。


 「渚」


 もう一度、小さく呼ぶ。


 風が答えたみたいに、ブランコが二度だけ揺れた。



 暮色が濃くなり、街の灯りは半分以上消えていた。


 りんは遠回りをして、商店街の裏道を通る。閉じたシャッターに、誰かのスプレーの落書きがある。《すべての夜に、朝が来る》。


 その文句は、今日に限って少しだけ嘘っぽかったが、嘘はときどき人を助ける、とりんは思った。


 角を曲がると、古い写真館の前に出る。ショーウィンドウの中に飾られたウェディングドレスは、白いまま時間を着て、ガラス越しに静かに立っていた。


 りんは足を止め、しばらく見つめる。


 いつか、だれかの隣で笑って、写真を撮る未来――そんな未来は、つい昨日まで当たり前にそこにあるはずだった。


 胸の奥が、少しだけきしんだ。


 りんは視線を切り、歩き出す。足音はやけに軽く響き、誰もいない通りをすぐに飲み込まれていく。


◇ ◇ ◇


 夜、部屋に戻ると、窓の向こうで空気が青く光っていた。


 遠い雷のような音が、時間をゆっくりと押し広げる。


 りんは窓を開け、カーテンを押さえた。夜風が部屋の書きかけのノートをめくり、白いページが一枚、二枚と音を立てて裏返る。


 机に座り、ペンを持つ。


 書くことは、世界が続いている証拠だ。


 何を書くかは、世界の形が決めてくれる。


 ――『きょう、丘にのぼった。空は薄くて、白い尾は近い。渚のメッセージは、三日前のまま。既読はつけられない。それでも、わたしは返事を考えている。返事を考えるという行為自体が、たぶん、祈りに似ている。』


 文字が紙の上で連なり、意味になり、意味のあいだに余白が生まれる。


 その余白に、風の音がやさしく座った。


 ペン先が止まる。


 りんは深く息を吸い、窓の外の空を見た。白い尾は、夜の黒に溶けながらも、確かにそこにあった。


 目を閉じて、ゆっくりと吐く。胸の奥の水面が、少しだけ静まる。


 「おやすみ、渚」


 声は小さく、けれど、確かに部屋の空気に混ざって揺れた。


 窓を閉め、カーテンを引く。


 暗闇は、怖くなかった。暗闇は、目を閉じる練習のように、やさしかった。


 ベッドに身体を沈めると、天井の木目が、川の流れの地図みたいに見えた。


 りんはスマホを胸の上に置き、目を閉じる。圏外のマークが、まぶたの裏で消えたり、点いたりする。


 どこか遠いところで、細いガラスを爪でなぞるような音が、またした。


 ――それでも。


 世界が終わるとしても。


 返事を考えることを、やめたくなかった。


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