紅い月の夜 3(終)
季節は容赦なく正確に巡った。
春の風は柔らかく、夏の海は果物の匂いがして、秋の鐘はよく響き、冬の石畳はよく冷えた。
渚は学び舎で子どもに文字を教えるようになり、こうきは夜警隊の隊長になった。二人はときどき喧嘩をし、ときどき沈黙を抱え、それでもだいたい笑っていた。
紅い月の夜には、わたしは塔に登り、街の灯を数える。
灯がひとつ消えるたび、胸の内に小さな灯をひとつ点す。
“観測”でも“祈祷”でもなく、ただの“記憶”。
魔女の魔法は、世界を作り替えるものじゃない。
世界の痛みを、そのまま抱えて形にする術だ。
◇
ある夜、塔の踊り場で、見慣れた背中に会った。
「遼」
久遠遼――司書であり、古文書係であり、工房に蝋を買いにきては古い紙の匂いを連れて帰る人。
彼はわたしの変化を、あまり驚かなかった数少ないひとだった。
「君は、やっぱり、選んだんだね」
「うん」
「寂しくない?」
「ううん。寂しさは、置いてきた。……持っていくには重すぎるから」
遼は頷き、ポケットから布を出して手すりの埃を払った。
「君はいつも、手が先に動くね」
「習性」
二人で小さく笑った。
「渚とこうきは?」
「元気。……でも、少しずつ、体の時間が表情に出てきた。綺麗だよ、そういう変化は」
遼は目を細めた。
「君の言う“綺麗”は、ときどき胸に刺さるね」
「刺さるように言ってるから」
「なるほど」
◇ ◇ ◇
十数年が過ぎ、街に一本だけ新しい橋が架かった。
渚はその開通の日に、教え子たちと一緒にリボンを切った。
こうきはその夜、隊の若い連中に囲まれて酒を飲み、翌朝ひどい顔で出勤して、渚に叱られた。
わたしは塔から川の光を眺めて、胸の奥で灯をひとつ点した。
(今日の笑い声)
次の年、渚は病で倒れた。
季節の変わり目に弱い体ではなかったのに、病は選ばず訪れる。
こうきは毎晩、教会の脇のベンチで目を閉じた。
わたしは夜ごと、窓の外に小さな光を置いた。蜂蜜菓子の匂いを少しだけ混ぜて。
渚は快復し、歩く速度がわずかにゆっくりになった。
わたしたちはそれを、誕生日のローソクの火みたいに慎重に喜んだ。
◇
やがて――もっと多くの年が過ぎた。
渚の髪は雪の色になり、笑うと目尻の皺がいちばん先に微笑んだ。
こうきは杖をつき、夜警の若者に叱られる側に回った。
二人は並んで歩き、怒られた帰り道にふざけ合い、路地で迷子になって喧嘩し、必ず同じ家に帰った。
紅い月の夜、渚は窓辺に座って空を見上げ、唇だけで何かを言った。
(りん)
そう聞こえた気がした。
こうきはその肩に布を掛け、同じ空を見上げた。
◇ ◇ ◇
渚が先に逝った。
こうきは少しだけ背を丸めて、それでもまっすぐに立っていた。
わたしは鐘楼の上から、通り過ぎる葬列を見送る。
花の匂いが風に乗って上がってくる。
遼が隣に来て、黙って帽子を胸に当てた。
「星空」
「うん」
「降りないの?」
「降りない。降りたら、泣いてしまうから」
「泣くのは、悪いことじゃない」
「泣き方が、もう、思い出せないの」
遼は何も言わなかった。代わりに、手すりの上を丁寧に拭いた。
◇
翌年、こうきも逝った。
夜警隊の制服の襟は、最後までよく整っていた。
渚の眠る丘の隣に、彼は眠った。
その夜、紅い月が雲間から顔を出し、街の屋根を静かに撫でた。
わたしは塔の上で目を閉じる。
(ありがとう)
誰にともなく、けれど確かに届く言葉で。
◇ ◇ ◇
それから、さらに多くの季節が過ぎた。
新しい世代の子どもが橋を渡り、古い店が看板を掛け替え、広場の楽師が別の曲を覚えた。
誰ももう、りん・渚・こうき、三人で笑っていた頃のことを知らない。
それでいいのだと思う。
時間は、そうやって正しく前にしか流れない。
わたしは、変わらない。
塔の石段は、いつも同じ数で、夜風はいつも同じ匂いだ。
けれど胸の内側だけは、増え続ける。
灯り。祈り。名前。笑い声。
目に見えない重さが、わたしを正しく地上に繋ぎ止めている。
紅い月の夜になると、街にささやきが広がる。
「この街には、やさしい魔女がいるんだって」
「灯りを落とすと、どこからか別の灯りがともる」
わたしは笑って、塔の影を移動する。
魔女は、大それたことをしない。
ただ、必要なところに風を通し、冷たいところに灯を置く。
そうやって、誰かの一夜を、少しだけ救えるなら、それでいい。
◇
ある晩、塔の下で、若い二人の笑い声がした。
猫耳の仮面と、狼の仮面。
仮面越しの笑いは、昔も今も変わらない。
わたしは手すりに指を置き、月に囁く。
(お願い。あの二人にも、始まりを)
紅い月は、やさしく頷いた気がした。
わたしは、星空りん。
紅い月の魔女として生まれ、永遠を選んだ者。
同じ時間を誰かと歩くことは、もうない。
けれど、誰かの時間を見送ることなら、いくらでもできる。
渚とこうきがそうであったように。
あの夜、塔の上で誓った通りに。
鐘が一度、遠くで鳴る。
夜の底で灯りが生まれ、消え、また生まれる。
紅い月が、街を照らす。
わたしもまた、静かに灯りをひとつ増やす。
それはいつだって、三人で分け合った蜂蜜菓子みたいに、甘く、小さく、確かな光だ。
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『紅い月の夜』―終―




