紅い月の夜 2
鐘が一つ巡り、二つ巡り――祭りの熱は最高潮に達する。
わたしは塔の影に戻り、石段の縁に腰を下ろした。
(十三度目の鐘が来る)
胸の奥で、静かに合図が鳴る。
“宵の鍵”が、布越しに脈を打った。
(わたしは、生まれながらに門を開ける者。……選べる)
その時、屋台と屋台の隙間で、狼の仮面と猫耳の仮面が並ぶのが見えた。
こうき。渚。
二人は言葉を交わし、渚が小さく笑って、こうきが困ったように肩をすくめる。
胸の内側に、冷たいものと温かいものが同時に落ちた。
(いいよ)
わたしは心の中で呟く。
(大丈夫。……わたしが選べばいい)
広場のざわめきの上を、鐘の音が滑ってくる。
紅い月が天に到り、風が止み、灯りの火が一瞬だけ細くなる。
わたしは立ち上がった。
塔の階段へ、一段ずつ足をかける。
下で、渚がこちらを見上げた。
「りん?」
「すぐ戻る」
わたしはそう言って、微笑む。
――これは逃げるための階段じゃない。
――譲るために、そして守るために登る階段だ。
◇ ◇ ◇
塔の最上段。
円環の刻まれた石床が、紅の薄光を飲んでいる。
ここを訪れたことは一度もないのに、懐かしい場所のように思えた。
わたしは踊り場からゆっくり歩み出る。
手の中の“宵の鍵”が、微かに熱を帯びた。
紅い月が、真上で脈を打つ。
血の奥に溶け込むような響き。
(わたしは……選ぶために生まれた)
母が亡くなる前に、そっと言っていた言葉が蘇る。
“りん、あなたには門が見える。けれど、それを開けるのは心なのよ”
“宵の鍵”がわたしの掌の中で、かすかな音を立てる。
(もう、迷わない)
指先に小さな刃をあてる。
痛みはすぐに熱に変わり、紅の滴がひと粒、落ちた。
円環の模様が淡く光り、石の目地を静かに走った。
わたしは、はっきりと言葉にする。
「星空りん。紅い月の血を持って生まれました。……わたしは選びます」
呼吸が定まる。
「渚の笑顔を守りたい。こうきの優しさを守りたい。だから、わたしは、わたしの時間を降りる」
もう一滴、落とす。光が深くなり、足元がわずかに浮いた気がした。
永遠は冷たく、静かで、清潔だった。
(それでも)
胸の真ん中に、温度の違う灯が一つある。三人で過ごした時間。分け合った蜂蜜菓子の甘さ。重なる笑い声。
それらを抱いたまま、わたしは“外側”へ立つ。
紅い月が、目の高さに降りてきた。
世界が遠ざかる。音が薄くなる。代わりに、わたしの中の時間が広がっていく。
(さようなら、同じ時間。……いってらっしゃい、二人の時間)
◇
塔の最上段を降りると、祭りの音楽はまだ続いていた。
渚とこうきが塔の影に立っている。
「りん!」
渚が駆け寄って、すぐ手前で止まった。わたしの目を見て、息を呑む。
「……りん、目が、」
「大丈夫。ちょっと、夜に慣れただけ」
こうきが一歩、近づく。
「りん。俺は、」
言葉を途中で切る彼に、わたしは首を振った。
「言わなくていい。言ったら、壊れる。……だから、言わないで」
「でも、」
「わたしね、二人にお願いがある」
わたしは笑って、手を差し出す。
「幸せになって。二人で」
渚が泣きそうな顔で首を振る。
「そんな……そんなの、わたし」
「渚」
こうきが渚の肩に手を置いた。その手は迷っていたが、拒まれてはいなかった。
わたしは“宵の鍵”を握り直し、胸の内でそっと祈る。
(この夜が、二人にとって始まりでありますように)
広場の反対側で、火の手が上がった。紙飾りに灯りが移ったのだ。
「行って!」
わたしが言うと、こうきは頷き、渚の手を握って駆け出した。
狼の仮面が揺れ、猫耳の仮面が光を返す。
その背中を見送り、わたしは塔の壁にもたれた。
痛みはない。あるのは、静かな空腹のような感覚――永遠になった体が、今夜から抱え続けることになる、時間の広さ。
◇
夜が明けた。
ガス灯が消え、屋台が片づけられ、広場は少し埃っぽくなる。
渚とこうきは、疲れた顔で笑っていた。火はすぐに消し止められ、怪我人も出なかったという。
「りん、朝ごはん、食べに行こう」
渚が言う。
「ごめん、今日は家に寄って、師匠手伝ってくる」
「そっか」
こうきが何か言いかけて、やめた。
「また夜に」
「うん。また夜に」
“また夜に”は、嘘ではない。
これからのわたしは、いつだって夜にいる。
同じ夜を、もう、誰とも並んで歩くことはないだけで。
◇ ◇ ◇




