表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/47

紅い月の夜 2

 鐘が一つ巡り、二つ巡り――祭りの熱は最高潮に達する。


 わたしは塔の影に戻り、石段の縁に腰を下ろした。


 (十三度目の鐘が来る)


 胸の奥で、静かに合図が鳴る。


 “宵の鍵”が、布越しに脈を打った。


 (わたしは、生まれながらに門を開ける者。……選べる)


 その時、屋台と屋台の隙間で、狼の仮面と猫耳の仮面が並ぶのが見えた。


 こうき。渚。


 二人は言葉を交わし、渚が小さく笑って、こうきが困ったように肩をすくめる。


 胸の内側に、冷たいものと温かいものが同時に落ちた。


 (いいよ)


 わたしは心の中で呟く。


 (大丈夫。……わたしが選べばいい)


 広場のざわめきの上を、鐘の音が滑ってくる。


 紅い月が天に到り、風が止み、灯りの火が一瞬だけ細くなる。


 わたしは立ち上がった。


 塔の階段へ、一段ずつ足をかける。


 下で、渚がこちらを見上げた。


 「りん?」


 「すぐ戻る」


 わたしはそう言って、微笑む。


 ――これは逃げるための階段じゃない。


 ――譲るために、そして守るために登る階段だ。


◇ ◇ ◇


 塔の最上段。


 円環の刻まれた石床が、紅の薄光を飲んでいる。


 ここを訪れたことは一度もないのに、懐かしい場所のように思えた。


 わたしは踊り場からゆっくり歩み出る。


 手の中の“宵の鍵”が、微かに熱を帯びた。


 紅い月が、真上で脈を打つ。

 血の奥に溶け込むような響き。


 (わたしは……選ぶために生まれた)


 母が亡くなる前に、そっと言っていた言葉が蘇る。

 “りん、あなたには門が見える。けれど、それを開けるのは心なのよ”


 “宵の鍵”がわたしの掌の中で、かすかな音を立てる。


 (もう、迷わない)


 指先に小さな刃をあてる。


 痛みはすぐに熱に変わり、紅の滴がひと粒、落ちた。


 円環の模様が淡く光り、石の目地を静かに走った。


 わたしは、はっきりと言葉にする。


 「星空りん。紅い月の血を持って生まれました。……わたしは選びます」


 呼吸が定まる。


 「渚の笑顔を守りたい。こうきの優しさを守りたい。だから、わたしは、わたしの時間を降りる」


 もう一滴、落とす。光が深くなり、足元がわずかに浮いた気がした。


 永遠は冷たく、静かで、清潔だった。


 (それでも)


 胸の真ん中に、温度の違う灯が一つある。三人で過ごした時間。分け合った蜂蜜菓子の甘さ。重なる笑い声。


 それらを抱いたまま、わたしは“外側”へ立つ。


 紅い月が、目の高さに降りてきた。


 世界が遠ざかる。音が薄くなる。代わりに、わたしの中の時間が広がっていく。


 (さようなら、同じ時間。……いってらっしゃい、二人の時間)



 塔の最上段を降りると、祭りの音楽はまだ続いていた。


 渚とこうきが塔の影に立っている。


 「りん!」


 渚が駆け寄って、すぐ手前で止まった。わたしの目を見て、息を呑む。


 「……りん、目が、」


 「大丈夫。ちょっと、夜に慣れただけ」


 こうきが一歩、近づく。


 「りん。俺は、」


 言葉を途中で切る彼に、わたしは首を振った。


 「言わなくていい。言ったら、壊れる。……だから、言わないで」


 「でも、」


 「わたしね、二人にお願いがある」


 わたしは笑って、手を差し出す。


 「幸せになって。二人で」


 渚が泣きそうな顔で首を振る。


 「そんな……そんなの、わたし」


 「渚」


 こうきが渚の肩に手を置いた。その手は迷っていたが、拒まれてはいなかった。


 わたしは“宵の鍵”を握り直し、胸の内でそっと祈る。


 (この夜が、二人にとって始まりでありますように)


 広場の反対側で、火の手が上がった。紙飾りに灯りが移ったのだ。


 「行って!」


 わたしが言うと、こうきは頷き、渚の手を握って駆け出した。


 狼の仮面が揺れ、猫耳の仮面が光を返す。


 その背中を見送り、わたしは塔の壁にもたれた。


 痛みはない。あるのは、静かな空腹のような感覚――永遠になった体が、今夜から抱え続けることになる、時間の広さ。



 夜が明けた。


 ガス灯が消え、屋台が片づけられ、広場は少し埃っぽくなる。


 渚とこうきは、疲れた顔で笑っていた。火はすぐに消し止められ、怪我人も出なかったという。


 「りん、朝ごはん、食べに行こう」


 渚が言う。


 「ごめん、今日は家に寄って、師匠手伝ってくる」


 「そっか」


 こうきが何か言いかけて、やめた。


 「また夜に」


 「うん。また夜に」


 “また夜に”は、嘘ではない。


 これからのわたしは、いつだって夜にいる。


 同じ夜を、もう、誰とも並んで歩くことはないだけで。


◇ ◇ ◇

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ