紅い月の夜 1
この街のハロウィンは、鐘の音で始まる。
教会の塔が十三度だけ鳴り、広場のガス灯に一斉に火が入ると、仮面をつけた人々が石畳に影を落とす。屋台には蜂蜜菓子と焼き栗、楽師は弦を弾き、子どもはかぼちゃ灯の揺れる袋をぶら下げて駆け出す。
わたし――星空りんは、蝋燭の束を胸に抱えて工房を出た。溶けた蜜蝋の甘い匂いが、まだ指先に残っている。
「りーん! 待って!」
呼ばれなくても分かる声。猫耳の仮面を手にした茅ヶ崎渚が、マントの裾を踏みそうになりながら駆け寄ってくる。
「落とすよそれ、貸して」
「大丈夫、持てる。……ほら、ほつれてる」
渚は器用な指先で、わたしの髪のリボンを結び直す。結び目がひとつ、きゅっと整った。
「ありがと」
「ううん。広場、もうすごいよ。今年の月、濃い紅だって」
見上げれば、薄暮の空に滲む紅の縁。年に一度だけ昇る“紅い月”は、夜になる前から街にほんのり色を落とし始める。
その色が好きだった。胸の奥のどこか、秘密の場所をそっと撫でられるようで。
広場に出る手前で、見回りの青年が手をあげた。
「やあ、二人とも」
狼の仮面を首に引っかけた、かずまさこうき。背が高く、肩の線がまっすぐなひと。
「こうき、今日も夜警?」
渚が笑うと、彼は少し得意そうに顎を上げた。
「もちろん。祭りの夜は騒ぎも多いからね。りん、その蝋燭は教会へ?」
「うん、届けたら戻る。終わったら鐘楼の影で会おう、三人で」
「了解」
わたしたちは三人でいる時間が長かった。
誰かの誕生日も、失敗して大笑いした日も、黙って同じ夕焼けを見た日も。
わたしは知っている。渚がこうきを見つめる目の奥に、嘘のつけない光が宿っていること。
わたしは知っている。こうきがわたしの結び直したリボンに、ほんの少しだけ目を細めてしまう癖があること。
だからこそ、わたしは笑う。三人のバランスがほどけないように、呼吸を整えるみたいに。
◇
教会に蝋燭を納めた帰り、広場の喧噪が一段濃くなる。楽師が速い曲に切り替え、仮面の群れが輪を作って踊りだす。
わたしは人波をかき分けながら、塔の影へ向かった。そこはいつも風がひんやり流れて、祭りの熱からひと呼吸分離れていられる。
先に来ていたのは渚だった。猫耳の仮面を頭の上にずらし、頬に灯りの色が踊っている。
「りん、こっち!」
石段の下、狼の仮面が現れる。こうきだ。
「ごめん、少し巡視で引き留められてた」
「おつかれ。怪我、してない?」
「してないしてない」
三人で他愛ない話をして、ふと沈黙が落ちたとき、わたしの胸の内側が、かすかに鳴った。
――紅い月。
まだ天頂には遠いが、確かに呼吸の調子を変える。
わたしは小さく手を握る。
生まれたときから知っている感覚。血のどこかが、夜になるたびに耳を澄ます。
(わたしには、選ぶ権利がある)
「りん?」
渚に呼ばれて、我に返る。
「ごめん、ちょっと風に当たってくる。すぐ戻るね」
「行ってらっしゃい」
こうきが目で「大丈夫?」と訊く。
わたしは笑って頷いた。
◇ ◇ ◇
塔の踊り場は人がいない。石の匂い、古い鉄の手すりの冷たさ。
胸元の内ポケットから、小さな銀の印章を取り出す。母の形見だ。表には小さな鍵の紋が刻まれている。
“宵の鍵”。
紅い月の夜、門を開く者だけが持って生まれる紋章。
(まだ、早い)
紅い月が呼ぶのは、いつも十三度目の鐘が鳴る時刻。
いまはただ、呼吸を合わせる。
渚の笑い声。こうきの低い声。
塔の下から時折届くその音が、わたしの選択に静かに線を引いていく。
踊り場の影に、足音が重なる。
「りん」
渚だ。
「どうしたの、顔色……」
「大丈夫。少し、考えたいだけ」
渚は手すりにもたれ、夜風に髪を揺らした。
「ねぇ、りん」
「うん?」
「わたし、ずるいのかな」
問う声は、わずかに震えていた。
「ずるいって?」
「りんとこうきと三人でいるのが一番好き。ずっとこのままがいい。でも、こうきを見ると胸の奥が痛くなる。……こんなの、りんに言っちゃだめだよね」
わたしは首を振る。
「言ってくれて、ありがとう」
渚が目を瞬いた。
「怒らないの?」
「怒りの場所が、わたしの中に無いから。いつの間にか、無くなっちゃったみたい」
渚は小さく笑って、すぐに目を伏せた。
「こうきは、りんが好きだよ」
「知ってる」
「どうすればいいんだろう、わたしたち」
「……選ぶんだと思う。誰かが、じゃなくて、わたしたちそれぞれが。どこに立って、何を守りたいか」
十三度目の鐘が、街の底から抜けてくる。
紅い月が、天へ滑り込む。
風が止まった。
◇
人波を戻ると、広場の輪はさらに大きくなっていた。楽師が指を鳴らし、子どもが歓声をあげる。
「りん」
こうきが合図する。巡視の若者が何かを報告し、彼は短く指示を返した。
「ちょっと見回ってくる。鐘が二つ巡ったら、またここで」
「うん」
彼が人波に消えるのを見送ったあと、渚は小さく息を吐いた。
「ね、りん。今夜の月、怖くない?」
「怖くないよ。……綺麗だと思う」
渚はわたしの横顔をのぞく。
「りんは、ほんとに強い」
「強くなんてない。好きなものを、大事にしたいだけ」
渚は頷いて、それから視線を落とした。
「わたし、りんが大事。こうきも大事。……どっちも、失いたくない」
「うん」
「でも、欲張りなんだよね、それって」
「多分ね」
渚は苦笑した。
「ねぇ、りん。もし、わたしが、こうきを好きだって言ったら、どうする?」
「さっき言ってたよ」
「言ってた……か」
わたしは渚の手を取る。
「渚が言ってくれたの、嬉しかったよ」
「りん……」
「ね、渚。もし世界がわたしたちを試すなら、わたしたちは“正直”で返そう。嘘が一番、夜を冷たくするから」
「うん」
◇ ◇ ◇




