神に裏切られた少女は祈りをやめた 3(終)
夜は、灰をほどくように細くなった。
火の匂いはまだ遠くの空に紛れ、境内の石は、濡れた紙のように冷えている。
幣殿の床には、夜の呼吸の名残が薄く残り、拝殿の柱は、長い影を抱いたまま黙っていた。
星空りんは、膝の上に儀式刀(みはらしの短刀)を置き、鈴を外した。
輪の跡が指に残る。丸い痕は、祈りの跡に似ていた。
祈りは刃。
切るものが尽きたとき、刃は自分を映す。
◇
りんは立ちあがり、幣殿の帷を半ばまで上げる。
冷たい朝の空気が、奥の闇に形を与えた。
足元に、昨夜置いた白布がある。縁だけが灰を吸い、わずかに色を変えている。
彼らの名を、心の中で呼ぶ。
長老――いつも「選ばれた子」と、りんの重さを軽い言葉で受け流した人。
田を仕切る若い男――縄の跡が肩に残り、額の汗を袖でぬぐった人。
若い母――指が震えながらも、最後まで子の名を唇で確かめていた人。
炎に追われた男――「どうしたら」と、りんに問うた眼の黒さ。
半歩だけ退いた賢い男――沈黙の深さに気づいた、人。
名前は、消えない。
言葉にすれば、形を持つ。持ってしまえば、ここに残る。
りんは一歩ずつ近づき、白布の端をそっと揃えた。
整えることは、贖いにはならない。でも、いまは――それしかできない。
◇ ◇ ◇
外では、灰が雪のように降っている。
境内の端、椿の木の下に立つと、花のつぼみがほんの少し開いていた。
椿は、散るとき、まるごと落ちる。
首を、ひとつの花に戻すみたいに。
りんは掌を見つめる。線の上にうすい黒が残り、冷たい水の記憶と、温かい手の記憶が、互いに触れ合わないまま棲み分けている。
川の音が、耳の奥でほどける。
「こうき」
名を呼ぶと、空気がわずかにあたたまる。
返事はない。返事がないことが、ようやく確かな形を持ちはじめる。
◇
拝殿に戻る。
りんは灯を小さくともした。火は「見える」という役目だけを果たし、何も温めない。
板の上に、炭を一本置く。
板目の白い筋に沿って、文字を刻むように、炭で逆さ祝詞を書きつける。
「祈りを返す。
願いをほどく。
約束を、川へ戻す。
名前を、痛みのない方角へ向ける。」
炭が擦れる音は、鈴に似ていた。
書き終えると、指先が黒く染まる。
その黒を、りんはひとつずつ拭わず、残すことにした。
残る印は、消えない祈りになる。
◇ ◇ ◇
こうきのことを、ゆっくり思い出す。
春の終わり、石の上を渡る足。
笑うとき、少しだけ左の頬が先に上がること。
田の水の加減を掌で測るくせ。
りんの手を包んだときの、骨の輪郭。
「巫女のりんじゃなくて、ただのりんに会ってみたいな」
それを聞いた日の、胸のなかの花弁の重さ。
ただのりんは、いつだって彼のためにしか現れなかった。
そして昨夜、巫女のりんは、彼のいない世界で、刃になった。
どちらも、りんで、どちらも、りんではない。
だからこそ、いまは、ひとつに戻さなきゃいけない。
◇
風が幣殿の帷を揺らす。
幼い日の声が、背中を撫でる。
――見ているよ。
その声は、神の名を持っていた頃と同じ響きで、りんの耳に落ちる。
りんは目を伏せ、静かに息を吐いた。
「見てるだけなら、いらない」
声にすると、胸の空洞がわずかに震える。
震えはやがて弱まり、空洞は器の形になる。器には、いま、言葉が入る。
「わたし、あのひとを救えなかった。
あのひとを救えない神さまを、もう信じられなかった。
だから、切った。
あなたたちを。世界を。
そして、わたし自身を。」
告白は、ひとつずつ器を満たし、重さを持つ。
重さが、りんを地面へ繋ぎとめる。
◇ ◇ ◇
幣殿の奥に戻る。
りんは儀式刀を取り、膝に置いたまま、長い時間、ただ触れていた。
刃は冷たく、しかし、あたたかかった。
彼の掌の記憶が、鋼に残っているような気がした。
「まだ、間違えられるだろうか」
独り言が溶け、梁の暗がりに吸われる。
間違いは、いつも遅れてやってくる。
遅れてやってくるから、選び直すことはもうできない。
できるのは、終わらせ方を、自分で選ぶことだけ。
◇
りんは立ちあがり、拝殿の階に出た。
白い椿が、ひとつ、音もなくほどける。
花の重さが、世界の軽さを一瞬だけ引きとめる。
「長老、ごめんなさい。
田のひと、ごめんなさい。
おかあさん、ごめんなさい。
火の人、ごめんなさい。
半歩退いた人、ごめんなさい。」
名を呼ばない謝罪は、名を呼ぶ痛みと同じだけの熱を持っていた。
りんは頭を下げ、もう一度、鈴を持つ。
輪の跡が、ふたたび指に刻まれる。
祈りの向きは――いま、ここで、最後に変わる。
◇ ◇ ◇
幣殿へ戻る前に、りんは川へ降りた。
水は眠っているように暗く、石は夜を抱いて冷たい。
両手を沈め、指を開く。
祈りを洗う。
温くなりすぎた祈り、刃になった祈り、他人の言葉でできた祈り――全部、ほどいて流す。
「満月の夜、溜息の数を数えようって言ったよね」
声は、川の音と一緒に輪になり、岸に届く前にほどける。
「数えられなかった。
数えられないほど、息を失くしたから」
りんは濡れた手で頬を撫で、拝殿へと戻った。
◇ ◇ ◇
朝の気配が、山の背を淡く染める。
幣殿の灯は、息をひとつだけ深くしてから、細くなった。
りんは儀式刀を胸の前に抱き、ゆっくりと膝を折る。
「どうか、誰も見ませんように。
どうか、誰も気づきませんように。」
祝詞ではない。
これは、終わり方の祈りだ。
襟をゆるめ、肌に朝の冷たさを迎える。
心臓の上に掌を置き、鼓動を鈴の音に重ねる。
一度だけ。まっすぐ。
刃はよく切れ、息は短く跳ね、すぐに遠のく。
痛みは短く、祈りは長い。
床板の木目が川になり、梁の黒が夜になり、音がひとつずつ、順番に消えていく。
◇ ◇ ◇
消える最後の音は、自分の脈ではなかった。
それは、笑いだった。
川の石に当たって砕ける水音に似た、こうきの笑い。
「ただのりん、でいい?」
あの日の声が、胸の内側で生まれる。
りんは微笑む。唇はもう、ほとんど体の一部として機能していないのに、微笑みだけは形を保った。
愛していた。
それだけは、言える。
◇
境内の端で、白い椿がもう一輪、遅れて開いた。
露が花弁に溜まり、重さが美しさに変わる。
鳥の声が山を渡り、村のどこかで戸が開く音が、まだ知らない朝を連れてくる。
りんは天井を見ないまま、空を眺める。
額に灰が触れ、すぐに落ちる。
胸の下で温度が散り、散った温度が、やさしい静けさになる。
喉の奥に残っていた言葉を、やっと外へ出す。
祝詞でも、世界へのさよならでもない。
たったひとりに向けた、いちばん短い祈り。
「わたし間違えてたのかな?」
「次に生まれ変わるとしたら、こうきくん、こんなわたしを許してくれる?」
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