神に裏切られた少女は祈りをやめた 2
満月が、紙の輪のように空に貼りついていた。
白く、冷たく、どこか不自然なほど整っている。
社の灯は細く長く、幣殿の帷は風を孕んで重く垂れた。
その静寂の真ん中で、星空りんは立っていた。白い装束が月光を吸い、まるで身体ごと夜に染み込むようだった。
拝殿の床には、**儀式刀(みはらしの短刀)**が置かれている。
代々の巫女が使い続けてきたもの。血を見たことのないはずの刃が、今夜だけは光を欲しているように見えた。
りんはそれを逆手に取る。掌の中で鋼が鳴る。
祈りは刃。
今夜は、刃が祈る。
◇
最初に現れたのは、田を仕切る若い男だった。
肩には縄の跡、掌はひび割れ、目は迷いで濁っている。
その姿は、りんの知る“働く人の形”そのものだった。けれど、今夜は違った。
怯えと頼りがない交ぜになった目が、神のかわりにりんを見上げている。
「巫女さま……嫁が倒れて。どうか、神さまに……」
「奥で、静かに祈ろう」
りんは低く、やさしい声で言った。
男が帷の向こうへ足を踏み入れると、灯が一段と低くなり、影が深まった。
彼が跪いた瞬間、りんは右手で顎を上げ、左手で口を塞いだ。
「目を閉じて」
その声は祈りの抑揚を保ったまま、刃のように真っ直ぐだった。
胸骨の下に、一度だけ、まっすぐ――。
男の身体が弓なりに震え、息が漏れ、すぐに崩れる。
床板に暗い色が広がる。
鈴は鳴らない。鳴らない音が、よく聞こえる。
「成就」
りんは小さく呟き、布で刀身を拭った。
その布の端を握りながら、ふと指が震えた。
それが寒さなのか、あるいは、神に触れてはいけないことをしたからなのか――わからなかった。
◇ ◇ ◇
次に現れたのは、長老だった。
村で最も古く、最も多く神を語る男。
りんの言葉を軽く扱い、「選ばれた子」と呼びながらも、自分の信仰の飾りにしてきた人。
「巫女、これは神罰だ。おまえが祈れば収まる」
「祈りましょう。長も、ここで」
りんは静かに頷き、背から鈴緒を外した。
長老が膝をついた瞬間、りんはその鈴緒を彼の首にかける。
柔らかい布が喉仏に触れた感触の次に、りんは一気に引いた。
「お許しを」
長老の目が大きく開き、声にならない音が漏れる。
喉の奥で潰れた呼吸が、鈴の代わりに鳴った。
りんは、長老の足が動かなくなるまで見届けると、布を解き、帷を閉じた。
彼の首には、まるで印のように、細い赤の線が残っていた。
「……満ちるまで、だよね」
りんは誰にともなく囁いた。
その声は、祈りよりもずっと冷たく、確かだった。
◇
若い母がやって来た。
目の縁は赤く、指は震え、言葉が祈りと嗚咽のあいだで千切れる。
「巫女さま、うちの子を――神さまは、見ててくださいますよね」
「見てるよ。だから、今はあなたの番」
りんは母の背に手をまわし、抱くふりで肩口の下――
その柔らかな空間に刃を滑らせ、心臓の上を突いた。
息が漏れ、身体が沈む。
りんは抱きとめ、そっと横たえた。
白い装束に黒が滲み、月光がそれを淡く照らす。
彼女の手から滑り落ちた小さな御守りが、りんの足元に転がった。
りんはそれを拾い、掌で包み、目を閉じる。
「おやすみ。……わたしも、もうすぐ行くから」
◇ ◇ ◇
外では、火が走った。
倒れた松明が乾いた草を舐め、塀の影を赤く染める。
夜風が焦げた匂いを運び、りんの白装束を赤く染めた。
駆け上がってきた男が、息を切らして叫ぶ。
「巫女さま! 火が……どうしたら!」
「ここへ。息を整えて。――目を閉じて」
男が言われた通りに膝をつくと、りんはその両手を取り、指を絡めた。
そのまま、逆の方向へ。
骨が鳴る音が短く響き、男の体勢が崩れる。
顔が床に落ちるより早く、うなじの根元に刃を短く落とした。
痙攣が一度、二度、そして静かになる。
「ありがとう。祈りは届いた」
自分の声が、まるで別人のように冷たかった。
◇
次の男は賢かった。
幣殿の奥の沈黙に気づき、半歩だけ退いた。
目の奥に浮かんだ疑念が、りんの心を微かに動かす。
「……何を、してる」
「祈ってる。ずっと、みんなが望んできた祈りを」
「巫女――」
その呼びかけの途中で、りんは鈴緒を伸ばし、男の肩を引き寄せた。
軸足を払う。倒れた胸へ、迷いなく刃を深く。
男の口が何かを探すように開き、声にならないまま閉じた。
「わたしのせいにしていいよ。
ずっと、あなたたちはそうしてきたから」
床に落ちた血が灯に映り、刃の光を赤く反射する。
その光の中で、りんの瞳だけが静かに濡れていた。
◇ ◇ ◇
火は塀を越え、遠い家々に届いた。
炎の輪が夜を囲い、人々の叫びが風に混ざる。
りんは拝殿に戻り、刀身の反射に映る自分の目を見た。
涙は出なかった。
ただ、その目がまだ“祈りの形”をしていることだけが、痛かった。
「神さま、見てる?」
問いは風に乗らなかった。
風はただ、煙の匂いを運んで通り過ぎるだけ。
神は沈黙を選ぶ。
ならば、巫女は――沈黙を破る。
◇
最後に、りんは自ら石段を下りた。
逃げ腰で振り向く男の背を追い、装束の裾を片手で押さえながら距離を詰める。
その背が月光に照らされた瞬間、胸の中央へ――一突き。
息が止まり、膝が折れ、身体が石段にコトリとぶつかる。
その音が、鐘のように長く尾を引いた。
月は白く、血は黒い。
どちらも、よく見える。
冷たく美しい光景だった。
「神さま。これが、あなたの“満ちる”?」
答えはない。
けれど、鳴らない音がいちばんよく聞こえた。
その無音が、りんにとって最後の祈りの形になった。
◇ ◇ ◇
社は、名前を静かに飲み込みつづけた。
りんは手を清め、刃を拭い、帷を下ろす。
その繰り返しのなかに、もはやためらいの居場所はなかった。
鈴の輪を床に置くと、音のない鈴が、静かに彼女を見上げていた。
「こうき」
名を呼ぶ。
返事は来ない。来ないことに、ようやく形があると知る。
「見ないでいい。見たくない。
でも、もしどこかで見ているなら――」
言葉はそこで切れ、胸の空洞の縁がきしむ。
冷たい夜の空気が、その空洞の中をゆっくり通り抜けていく。
りんは鈴を置き、儀式刀を胸の前で確かめた。
刃の反射が、わずかに彼女の頬を照らす。
手が震えた。けれど、それは恐怖ではない。
ようやく、祈りの意味がわかった気がしたから。
祈りは刃。
向きを変えた刃は、人を切り、神を切り――
そして最後に、白い椿が落ちる。
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