神に裏切られた少女は祈りをやめた 1
山のかたちをなぞるように家々が縫いとめられ、いちばん高いところに古い社が口を閉ざしている。
星空りんは、そこで育った。朝は水を汲み、鈴を磨き、階を掃き、日が昇れば祝詞を繰り、日が落ちれば灯をともす。村人は彼女を「神さまにいちばん近い子」と呼んだ。
りんは、その呼び名の重さと静けさを、両手で抱える術を覚えていった。
風が背中を撫でる夜があり、耳を澄ませば布を裂かぬような声が言う――祈れ。祈りは川と同じで、止まれば濁る。
◇
社の裏手を下り、杉林を抜けると、石を跳ねる細い川がある。季節の輪郭がいつでもそこにあった。
春の終わり、風がまだ若かった日、鍬を肩にかけた青年が石の上を渡ってきた。
「巫女さまが、こんなところで何してるの」
りんは水面のきらめきから目を上げた。
「祈りを洗ってるの」
「祈りって、洗えるの?」
「温くなったら、ね。いちど水に浸けて、息をさせてあげないと」
青年は目をまるくし、すぐ、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、ぼくの笑いも洗えるかな」
「笑いは、洗うと小さくなるよ」
「え、それ困る」
二人で笑った。鈴に似ていて、鈴より少し体温が高い音。
青年の名はこうき。土の匂いが似合う名だ、とりんは思った。
◇
祭のたび、りんは白い装束で舞い、鈴を振り、祝詞を唱える。動作は正確で、呼吸は一定、言葉は濁らない。
けれど、川に降りる時だけ、彼女は形から少しこぼれた。裾を指で摘み、石を渡り、こうきの押さえる石の上にそっと足を置く。彼はよく喋り、よく働き、よく笑った。
「巫女のりんじゃなくて、ただのりんに会ってみたいな」
「ただのりんは、上手に笑えないよ」
「上手じゃなくていい。今日みたいに笑えばいい」
こうきは、りんの手を取った。祈りを洗う手が、初めてだれかに洗われるみたいに温かくなる。
川の流れの速度と、胸の鼓動の速度が、いつの間にか同じ拍になっていた。
◇ ◇ ◇
季節はゆっくり傾く。川は冷え、森の影が長くなり、社の灯は重さを増す。
村人は収穫を数え、祈りを数え、ため息を数える。数えられるものは、いつか尽きる。
咳が増えた。遠い家から、近い家へ。熱が下がらない子、起き上がれない老人。見えない影に**「病」**の名がつくと、人は少し落ち着いた。だが、輪郭は薄まらない。
「巫女さま、どうか」
背を曲げた手が、りんの足元に重なる。
「祈ります」
りんは答え、祈った。祝詞は水の記憶を持つ。言葉を口にするたび、舌の上を冷たい流れが渡っていく。
夜が深いほど音は澄み、鈴はよく響いた。
――そして、朝になるたび、祈りの数より多い名が村から消えた。
◇
こうきが川に来なかった日、りんは流れの音を長く聞いた。
翌日、彼は来た。笑いの色が薄く、目の下に眠りが落とした影。
「だいじょうぶ?」
「ちょっと、喉がね。笑いすぎたのかな」
「笑いは洗うと小さくなるって言ったのに」
「じゃあ、洗わないで。君の手で温めて」
息はいつもより浅く、掌は秋の石みたいに遅い冷たさを帯びていた。
◇ ◇ ◇
祭日が一日前倒しになる。「神の機嫌を損ねないためだ」と長は言った。境内は磨かれ、灯は新しく、供物は形を整えて並ぶ。
りんは舞い、鈴を振る。足の運びは合い、音は合い、拍手は合う――合っているのに、どこかがずれる。
祝詞が終わり、風が答えた。
――見ているよ。
「じゃあ、救って」
――祈れ。
「ずっと祈ってる」
――もっとだ。満ちるまで。
満ちるという言葉の形が、急に恐ろしくなる。満ちるためには、どれほど空けばいいのだろう。祈りも、涙も、息も、愛も。
りんは鈴を胸に押しあて、息をとめた。手のひらに円の跡が残る。跡はしばらく消えない。
◇
こうきの熱は静かに上がり、静かに下がり――静かに戻らなくなった。
戻らない静けさは、最初に足音を消す。戸口の影が薄くなり、部屋の空気が紙みたいに軽くなる。
「りん……」
「来たよ。笑いを持ってきた」
「……今日は、分けてもらえるかな」
笑おうとして、咳に笑いが飲まれる。りんは手を握る。骨の輪郭が指先に触れ、触れているあいだにも記憶が薄れていく。
「神さまに、話してきたの」
「なんて?」
「『どうか、この人だけは』って。だめかな」
「だめだよ。みんな救われないと、ぼくだけが恥ずかしい」
「恥ずかしいの?」
「うん、りんの恋人だから」
その言い方が好きで、りんは泣いた。泣きながら、体から出るものはいつか尽きると知る。
尽きるものにすがる生き方の怖さが、指から腕へ、胸へ、喉へと登ってくる。
◇ ◇ ◇
夜更け、社は灯を細くして待っていた。りんは戸を閉め、祭壇の前に膝を折る。供物の果実は固く、手の中で拒む。
「神さま」
声は静かで、奥にひびを孕む。
「返して。わたしの祈りを返して。わたしの愛を返して。わたしの、こうきを返して」
風が吹く。鈴は鳴らない。鳴らない音は、鳴る音より冷たい。
りんは果実を握りつぶした。甘い匂いが割れ、ぬるい汁が手首を伝う。
――祈れ。
確かに声がした。乾いた陶器がひとりでに割れるように、りんの中で音のない破裂が起こる。
「……そう。じゃあ、祈ってあげる」
唇の裏で言葉が焼け、微笑みが鈴の代わりに鳴った。
⸻
夜明け前、りんは川へ降りた。水は暗く、石は冷たく、空はまだ色を持たない。両手を沈め、ゆっくり指を開く。祈りがほどけ、流れに混ざって消える。
「こうき」
名前は、川の音に似ていた。
「満月の夜、溜息の数を数えようって言ったよね。……今でも、数えられると思う?」
水面の輪は岸に届く前に消えた。りんは濡れた手で頬を撫で、息を吐く。
白くならない息は、見えないぶんだけ長く居座る。
「神さま」
空を見上げずに言う。
「あなた、ほんとうにいるの?」
川は答えない。風は社へ戻る。戻っていくものは、いつだって軽い。
◇ ◇ ◇
昼、村人は「病」の二文字で会話を短くし、夜、灯りは早く消えた。名を呼べば沈黙が返る。沈黙は返事のなかでいちばん重い。
りんは祭具を整え、言葉を整え、気持ちを整えようとして手を止める。整えるという行為は、形のあるものにだけ効く。胸の中で形を持つのは、喪失だけだった。
祈りの姿勢をとる。背筋は正しい。呼吸は正しい。目の位置も、指の角度も、鈴を持つ高さも。
正しさは、ひとつも彼女を救わない。
「ねぇ、こうき。満月、もうすぐだよ」
声にすると、部屋の空気が少し動く。動いた分だけ言葉は軽くなり、すぐ床に落ちる。
りんは落ちた言葉を拾い上げ、胸にしまう。胸の中はいっぱいで、でも空っぽだ。
⸻
遠くで犬が一度だけ吠えた。鈴は鳴らない。灯は細く長く、風は階の埃を少し動かす。
満月は今夜。りんは目を閉じ、黒いまぶたの裏に白い輪を見る。輪は鈴の音に似て、こうきの笑いにも似ている――似ているだけで、どちらでもない。
祈りは刃。向きだけが問題だ。
りんは掌を見つめる。そこに残るのは、冷たい水の記憶と、温かい手の記憶。そのふたつだけが、はっきり残っている。
「……今夜」
りんは囁く。
「わたし、祈るよ」
祈りの向きを、変えるために。




