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神に裏切られた少女は祈りをやめた 1

 山のかたちをなぞるように家々が縫いとめられ、いちばん高いところに古い社が口を閉ざしている。

 星空りんは、そこで育った。朝は水を汲み、鈴を磨き、きざはしを掃き、日が昇れば祝詞を繰り、日が落ちれば灯をともす。村人は彼女を「神さまにいちばん近い子」と呼んだ。


 りんは、その呼び名の重さと静けさを、両手で抱える術を覚えていった。

 風が背中を撫でる夜があり、耳を澄ませば布を裂かぬような声が言う――祈れ。祈りは川と同じで、止まれば濁る。



 社の裏手を下り、杉林を抜けると、石を跳ねる細い川がある。季節の輪郭がいつでもそこにあった。

 春の終わり、風がまだ若かった日、鍬を肩にかけた青年が石の上を渡ってきた。


 「巫女さまが、こんなところで何してるの」


 りんは水面のきらめきから目を上げた。


 「祈りを洗ってるの」


 「祈りって、洗えるの?」


 「温くなったら、ね。いちど水に浸けて、息をさせてあげないと」


 青年は目をまるくし、すぐ、いたずらっぽく笑った。


 「じゃあ、ぼくの笑いも洗えるかな」


 「笑いは、洗うと小さくなるよ」


 「え、それ困る」


 二人で笑った。鈴に似ていて、鈴より少し体温が高い音。

 青年の名はこうき。土の匂いが似合う名だ、とりんは思った。



 祭のたび、りんは白い装束で舞い、鈴を振り、祝詞を唱える。動作は正確で、呼吸は一定、言葉は濁らない。

 けれど、川に降りる時だけ、彼女は形から少しこぼれた。裾を指で摘み、石を渡り、こうきの押さえる石の上にそっと足を置く。彼はよく喋り、よく働き、よく笑った。


 「巫女のりんじゃなくて、ただのりんに会ってみたいな」


 「ただのりんは、上手に笑えないよ」


 「上手じゃなくていい。今日みたいに笑えばいい」


 こうきは、りんの手を取った。祈りを洗う手が、初めてだれかに洗われるみたいに温かくなる。

 川の流れの速度と、胸の鼓動の速度が、いつの間にか同じ拍になっていた。


◇ ◇ ◇


 季節はゆっくり傾く。川は冷え、森の影が長くなり、社の灯は重さを増す。

 村人は収穫を数え、祈りを数え、ため息を数える。数えられるものは、いつか尽きる。


 咳が増えた。遠い家から、近い家へ。熱が下がらない子、起き上がれない老人。見えない影に**「病」**の名がつくと、人は少し落ち着いた。だが、輪郭は薄まらない。


 「巫女さま、どうか」


 背を曲げた手が、りんの足元に重なる。


 「祈ります」


 りんは答え、祈った。祝詞は水の記憶を持つ。言葉を口にするたび、舌の上を冷たい流れが渡っていく。

 夜が深いほど音は澄み、鈴はよく響いた。


 ――そして、朝になるたび、祈りの数より多い名が村から消えた。



 こうきが川に来なかった日、りんは流れの音を長く聞いた。

 翌日、彼は来た。笑いの色が薄く、目の下に眠りが落とした影。


 「だいじょうぶ?」


 「ちょっと、喉がね。笑いすぎたのかな」


 「笑いは洗うと小さくなるって言ったのに」


 「じゃあ、洗わないで。君の手で温めて」


 息はいつもより浅く、掌は秋の石みたいに遅い冷たさを帯びていた。


◇ ◇ ◇


 祭日が一日前倒しになる。「神の機嫌を損ねないためだ」と長は言った。境内は磨かれ、灯は新しく、供物は形を整えて並ぶ。

 りんは舞い、鈴を振る。足の運びは合い、音は合い、拍手は合う――合っているのに、どこかがずれる。


 祝詞が終わり、風が答えた。


 ――見ているよ。


 「じゃあ、救って」


 ――祈れ。


 「ずっと祈ってる」


 ――もっとだ。満ちるまで。


 満ちるという言葉の形が、急に恐ろしくなる。満ちるためには、どれほど空けばいいのだろう。祈りも、涙も、息も、愛も。


 りんは鈴を胸に押しあて、息をとめた。手のひらに円の跡が残る。跡はしばらく消えない。



 こうきの熱は静かに上がり、静かに下がり――静かに戻らなくなった。

 戻らない静けさは、最初に足音を消す。戸口の影が薄くなり、部屋の空気が紙みたいに軽くなる。


 「りん……」


 「来たよ。笑いを持ってきた」


 「……今日は、分けてもらえるかな」


 笑おうとして、咳に笑いが飲まれる。りんは手を握る。骨の輪郭が指先に触れ、触れているあいだにも記憶が薄れていく。


 「神さまに、話してきたの」


 「なんて?」


 「『どうか、この人だけは』って。だめかな」


 「だめだよ。みんな救われないと、ぼくだけが恥ずかしい」


 「恥ずかしいの?」


 「うん、りんの恋人だから」


 その言い方が好きで、りんは泣いた。泣きながら、体から出るものはいつか尽きると知る。

 尽きるものにすがる生き方の怖さが、指から腕へ、胸へ、喉へと登ってくる。


◇ ◇ ◇


 夜更け、社は灯を細くして待っていた。りんは戸を閉め、祭壇の前に膝を折る。供物の果実は固く、手の中で拒む。


 「神さま」


 声は静かで、奥にひびを孕む。


 「返して。わたしの祈りを返して。わたしの愛を返して。わたしの、こうきを返して」


 風が吹く。鈴は鳴らない。鳴らない音は、鳴る音より冷たい。


 りんは果実を握りつぶした。甘い匂いが割れ、ぬるい汁が手首を伝う。


 ――祈れ。


 確かに声がした。乾いた陶器がひとりでに割れるように、りんの中で音のない破裂が起こる。


 「……そう。じゃあ、祈ってあげる」


 唇の裏で言葉が焼け、微笑みが鈴の代わりに鳴った。



 夜明け前、りんは川へ降りた。水は暗く、石は冷たく、空はまだ色を持たない。両手を沈め、ゆっくり指を開く。祈りがほどけ、流れに混ざって消える。


 「こうき」


 名前は、川の音に似ていた。


 「満月の夜、溜息の数を数えようって言ったよね。……今でも、数えられると思う?」


 水面の輪は岸に届く前に消えた。りんは濡れた手で頬を撫で、息を吐く。

 白くならない息は、見えないぶんだけ長く居座る。


 「神さま」


 空を見上げずに言う。


 「あなた、ほんとうにいるの?」


 川は答えない。風は社へ戻る。戻っていくものは、いつだって軽い。


◇ ◇ ◇


 昼、村人は「病」の二文字で会話を短くし、夜、灯りは早く消えた。名を呼べば沈黙が返る。沈黙は返事のなかでいちばん重い。

 りんは祭具を整え、言葉を整え、気持ちを整えようとして手を止める。整えるという行為は、形のあるものにだけ効く。胸の中で形を持つのは、喪失だけだった。


 祈りの姿勢をとる。背筋は正しい。呼吸は正しい。目の位置も、指の角度も、鈴を持つ高さも。

 正しさは、ひとつも彼女を救わない。


 「ねぇ、こうき。満月、もうすぐだよ」


 声にすると、部屋の空気が少し動く。動いた分だけ言葉は軽くなり、すぐ床に落ちる。

 りんは落ちた言葉を拾い上げ、胸にしまう。胸の中はいっぱいで、でも空っぽだ。



 遠くで犬が一度だけ吠えた。鈴は鳴らない。灯は細く長く、風は階の埃を少し動かす。

 満月は今夜。りんは目を閉じ、黒いまぶたの裏に白い輪を見る。輪は鈴の音に似て、こうきの笑いにも似ている――似ているだけで、どちらでもない。


 祈りは刃。向きだけが問題だ。

 りんは掌を見つめる。そこに残るのは、冷たい水の記憶と、温かい手の記憶。そのふたつだけが、はっきり残っている。


 「……今夜」


 りんは囁く。


 「わたし、祈るよ」


 祈りの向きを、変えるために。

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