6号球に願いを込めて 5(終)
時計が最後の一分を切ったとき、スコアボードは36対38を示していた。
たった二点差。
だが、その二点が、海みたいに広い。
ベンチからの声が増える。
「戻れ!」「切り替え!」「落ち着け!」
言葉はもう、音の形をした風になって、頭の上を通り過ぎていく。
相手のオフェンス。
りんはトップの子に対して、横へ横へと遅らせる。
相手が焦れてスキップパスを選んだ瞬間、りんは一歩、線の上に飛び出した。
指先が、ボールの縫い目に触れる。
“弾け”
こぼれた。
床に一度、ボールが弾んで、変な回転をして転がる。
りんはすべり込みながら手を伸ばし、指の腹でボールを止めた。
「りん!」
渚の声が右側から届く。
でも、そこにはすでにディフェンスの影。
“渡せない”
りんは立ち上がりながら、ドリブルを一度だけついた。
視界の端。左ウィングのスペースが、空になっている。
走る――いや、止まる。
“止まる瞬間”
軸足で床を掴む。
肩の力を落とす。
呼吸。
時計は残り5秒。
誰かが叫んだ。
「打て!」
その声は渚のものだった。
視線が交わる。
言葉が要らないくらい、渚の目は澄んでいた。
“信じてる”
りんは、跳んだ。
フリースローラインの少し外。
足元のワックスの光が、跳躍の前に一瞬だけ揺れる。
ボールが手から離れるとき、指先に残るスピンの感触が、ゆっくりと遠ざかっていく。
空気の温度が変わる。
観客席の音が消える。
世界が、耳鳴りみたいな静けさで満たされる。
弧を描くボールが、体育館の高い天井の白と、窓の外の青をひとつに混ぜながら落ちてくる。
リングの縁に触れる直前、りんは自分の心臓の音をはっきりと聞いた。
“入れ”
ボールはリングの内側で一度だけわずかに踊り、次の瞬間、音を立てずにネットを通った。
“スパッ”
細い白い糸がほどけるみたいに揺れる。
――ブザー。
“ピーーーーーッ!!”
数字がひっくり返る。
39対38。
逆転。
◇ ◇ ◇
世界が、戻ってきた。
歓声、足音、椅子がはねる音、誰かの泣き声、笑い声。
雑多な音がいっせいに押し寄せて、りんの身体にぶつかってくる。
渚が、走ってきた。
「りんっ!!!」
抱きしめられた瞬間、空気が肺から音を立てて出ていく。
汗の匂いと、タオルの柔軟剤の匂いがいっぺんに鼻を満たした。
「すごい、ほんとに、すごい……!」
渚の声は、笑っていて、泣いていた。
「渚が、“打て”って言ってくれたから」
「うん。信じてた。りんなら、決めるって」
背中に置かれた渚の手が、ぎゅっと一度だけ強くなる。
それだけで、言葉のいらない何かが、ふたりの間できちんと形になった気がした。
ベンチに戻る道すがら、監督がりんの肩に手を置いた。
「よく、止まった。……よく、見た」
それは短くて、ひどく温かい言葉だった。
⸻
試合が終わって、人がはけた体育館は、少し広く見えた。
床のワックスの光は均一で、昼間よりも冷たい。
りんはベンチの端に座り、シューズの紐をほどいて、指の跡がついた甲を揉んだ。
“夢みたい”
でも、夢じゃない。
指先に残ったスピンの感触も、跳ぶ前の床の粘りも、渚の「打て」の声も、全部がまだ身体のどこかで鳴っている。
渚がタオルを首にかけて座った。
ふたりの肩と肩が、自然に触れた。
「……ごめん。今日は、私、ダメだった」
渚の声は、かすかに震えている。
りんは首を横に振った。
「ダメじゃなかった。渚が走ってくれたから、全部の“止まる瞬間”が生まれた」
「でも、外した」
「外す日もある。わたし、知ってる。練習ノートにも書いてる。――“ゆっくり、強く”。今日は、最後にそれがやっと、届いただけ」
渚はしばらく黙って、やがて小さく笑った。
「りんのノート、今度見せてよ」
「やだ。字、汚いもん」
ふたりで笑う。
その笑い声は、体育館の高い天井へゆっくり登っていって、どこかで消えた。
◇
帰りの空は、朝より少し淡い青に変わっていた。
冷たい風が、汗の乾いた首筋を撫でる。
体育館の前で、何人かの保護者が「おめでとう」と声をかけてくれた。
りんは照れくさくて、半分うなずいて、半分逃げるように渚と並んで歩いた。
「りん」
「ん?」
「ありがとう」
「こちらこそ」
短い会話。
けれど、それで十分だった。
校門を出るとき、金属の柱に固定された小さな旗が風に鳴って、かすかな音を立てた。
りんは空を一度見上げ、目を細める。
“できないから逃げない。焦るから目をそらさない。ゆっくり、強く”
ノートに書いた三行は、もう紙の上だけの文字じゃない。
それは、足の裏と、指先と、胸の奥の呼吸に、確かに刻まれている。
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夜。
机の上にノートを開く。
表紙の角が少し丸くなって、紙の縁に今日の汗の塩の跡が白く残った。
日付を書き、ページのいちばん上の段に、今日のスコアを添える。
試合:勝ち。39—38(逆転)。
そして、下にゆっくりと書いた。
・“止まる瞬間”に、決断を置く。
・視線の重なり=合図。
・渚の“打て”は、わたしの“打つ”。
・最後の三秒は、最後の三週間の積み重ね。
・ゆっくり、強く。
最後の行の右に、小さな星を三つ並べる。
ペン先のインクが少しにじんで、星の角がやわらかくなった。
ノートを閉じると、指先にまだ微かなスピンの記憶が残っている。
窓の外、風がレースカーテンを揺らして、部屋の空気が少しだけ動いた。
りんは灯りを落として、ベッドに横になった。
目を閉じると、体育館の天井と、白いネットと、渚の目が、ゆっくりと浮かんでは遠のいた。
胸の真ん中で、心臓が一度、二度、静かに叩く。
“今日は、逃げなかった”
その短い言葉だけを、眠りの入口に置いて、りんは息を深く、長く吐いた。
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『6号球に願いを込めて』 完




