6号球に願いを込めて 4
再開。
渚は無理をやめ、ドリブルを一度多くついた。
ボールが床に触れる音が落ち着きを取り戻して、チームのパスが少し滑らかになる。
だが、相手のセンターが強い。
ゴール下での一歩目が重く、ブロックアウトも堅い。
こちらのシュートはリングをかすめては落ち、落ちたボールは大きな手に吸い込まれていった。
“簡単じゃない”
ベンチから見ているだけでも分かる。
コートに入ってから、自分は何を優先すべきか――りんは頭の中で、たった三つを並べなおす。
見る。急がない。呼吸。
“あとは、渚の“止まる瞬間”に合わせる”
スコアは、14対18。四点ビハインドのまま、時計は淡々と進む。
交代のプレートがあがり、りんは立ち上がった。
コートへ踏み出す瞬間、靴底が木の床に吸い付く音が、小さく、しかしはっきりと聞こえた。
“始まる”
◇
最初の一本。
りんはトップより少し下がった位置に立ち、ボールが巡るのを見守る。
渚が右で一度止まる。腰が沈む。視線がゴールからわずかに外れる。
“今”
りんは胸の前で小さく押し出した。
パスは渚の胸元にぴたりと届き、渚は一瞬のためらいもなくゴールに向き直って打つ――が、わずかに長い。
“ざわ……”
客席の空気が、音にならない音を発した。
渚の肩が、ほんの少しだけ下がる。
りんはすぐさま戻りながら、渚の横顔を見た。
視線が泳いでいる。
“渚、今日はリングが遠い”
相手の攻撃をなんとか一本止めて、再びこちらのボール。
りんは渚の前に立って、手を上げて、目で合図した。
“一回、私に預けて”
渚は小さく頷く。
ボールがりんに入る。
りんはドリブルをつかないで、ピボットの軸足を床に貼り付ける。
右を見る。左を見る。
視界の片隅で、ウィングの子の肩がふるふると一瞬だけ揺れる。
あ、空く。
りんは目をほんのわずかに上げ、そこへ鋭く、しかし過不足なくパスを通す。
シュート――
外れ。
“まだ、待つ”
自分にも、チームにも言い聞かせる。
焦って“入れる”ことよりも、“崩さない”ことを選ぶ。
負けているときほど、構造を壊す誘惑が強い。
でも、いま壊したら、もたない。
◇
時間が削れていく。
前半終了、20対24。
ベンチに戻ると、足首の内側が少し重い。
テーピングの端を指で押しなおすと、張り付いた粘着の感触が指に移った。
監督はホワイトボードに四角と線を描き、三手だけ指示を出した。
「相手センターの最初の一歩が重い。そこ、奪う。ウィークサイド、リバウンド“入る前に”押さえる。りん、逆サイの声“切らすな”。渚、ドライブは“二歩目”で切り替えろ、一直線で行くな」
渚はまっすぐ「はい」と答えたが、その声に小さな砂粒が混ざっている。
りんは渚のペットボトルを受け取り、ふたを開けて手渡した。
「戻ってこ。渚」
「……戻る」
短く交わした言葉の温度が、ふたりの間でようやく同じになった気がした。
◇ ◇ ◇
後半開始。
相手が序盤から当たりを強くしてくる。
スクリーンで身体がぶつかるたび、肩の骨に鈍い音が鳴る。
床のワックスが薄いところでは少し滑り、濃いところでは吸い込まれる。
足裏の読み替えを、りんは二回、三回と素早く行う。
ディフェンスで、りんは相手のトップに対して距離を半歩詰め、パスレーンに指先を差し入れていく。
“通していいパスと、だめなパス”
その境目のわずかな隙間に、体を置く。
一本、弾いた。
こぼれ球。
渚が拾う――が、ドリブルが少し高く浮いて、相手の手が差し込まれる。
奪われ、レイアップ。
22対28。
観客席の息が、一瞬止まった。
渚の目が、ほんのわずかに下を向く。
りんは渚の肩に、視線だけで手を置いた。
“大丈夫。戻れる”
返事の代わりに、渚の胸が一度だけ大きく上下する。
呼吸が、戻る。
◇
そこからの数分は、誰にも見せたくない時間だった。
シュートはわずかに逸れ、パスは一歩届かず、ファウルの笛が軽く鳴る。
負けるときの空気は、力で押し返さない限り、勝手に強くなる。
それでも、りんは「構造」を手放さなかった。
右へ出したら、左を使う。
トップが止まったら、ハイポストを見せる。
誰かが止まっている時間を、誰かが走る時間に変える。
“いま、崩さないことが、最後の三秒に繋がる”
根拠なんてない。
けれど、ノートの端に何度も書いた“ゆっくり、強く”という言葉が、いまは一番の根拠に思えた。
◇ ◇ ◇




