6号球に願いを込めて 3
朝、空はよく晴れていた。
雲は薄く、空気はきりりとしていて、道の白線がいつもよりくっきり見えた。
りんはランドセルではなく、チームバッグを肩にかけて学校の門をくぐる。
金属のファスナーが歩くたびに小さく触れ合って、ちり、と音を立てた。
“今日、わたしはメンバーなんだ”
その事実を、歩くたびに足の裏が思い出させてくる。
鼻から吸い込む空気がすべて胸の奥へ真っ直ぐ届いて、そこに薄い熱を置いていく。
体育館の扉は半分だけ開いていて、中から雑巾とワックスが混ざった匂いが流れてくる。
マットの片付けを終えた上級生が、軽く会釈した。
りんも小さく会釈しかえして、床とボールの音が跳ね返る世界へ入っていく。
◇
更衣室の蛍光灯は少し白すぎて、肌の色が冷たく見えた。
ユニフォームに着替えると、布が肩の丸みを掬って、少しだけ頼りなく感じる。
胸の番号を指でなぞると、指先から数字の縁のミシン目の硬さが伝わってくる。
“今日は、逃げない”
自分に言い聞かせるみたいに、心の中で言葉を置く。
靴紐を結びなおす。結び目を片方ずつ引いて、甲にぴたりと吸いつく感覚に耳をすませる。
「りん」
振り向くと、渚がドリンクを二本持って立っていた。
髪は高めのポニーテール、結び目のところに小さなリボン。
いつもの笑顔。だけど、その笑顔の縁に、ごく薄い緊張が貼りついている。
「のど、乾くよ。はい」
「ありがとう」
ペットボトルのキャップを回す音が、カチ、カチと小さく鳴る。
口に触れるプラスチックの冷たさ。
水が喉を通っていくのを、りんは一滴ずつ数えられそうな気がした。
「緊張してる?」
「……ちょっと。りんは?」
「うん。してる。でも、深呼吸すれば大丈夫な種類のやつ」
渚は笑って、りんの胸の前で手のひらを上下に動かす。
「じゃ、合わせよっか。吸って――」
「――吐く」
ふたりの息が、一瞬だけ同じ長さになって、部屋の白い空気の上を滑っていく。
◇ ◇ ◇
アップの時間。
パスの音、シューズの擦れる音、誰かの笑い声、監督の短い指示。
体育館の音は粒になって、空中で混じり合い、また分かれて、壁に吸い込まれていく。
りんは胸の前で軽くボールを弾ませ、両手で受けて、肩の力を落とした。
“見る。急がない。呼吸”
自分のノートの先頭に書いてある三行を、頭の隅で繰り返す。
コートの端で、相手チームが三人でパス回しをしていた。
動きが速い。足の止まる時間が短い。
目が慣れるまで、その速さに、観ているだけで身体が少し引いてしまう。
監督が集合の合図を出す。円になる。
「いつもどおり。声、消すな。戻り、あと半歩速く。――渚、入り」
短い言葉が、脳の芯に刺さる。
名前を呼ばれて、渚は小さく頷いた。
「りんは、まずベンチ。途中から行く。準備しとけ」
「はい」
言葉にした「はい」は、驚くほど落ち着いた声で、りん自身が少し驚いた。
胸の中の熱は、さっきより形を持ち始めている。
◇
試合開始。
“ピーッ!”
ブザーの音が、体育館の空気の膜を一回破る。
客席の保護者席から、いくつもの手拍子が広がった。
最初のプレーで、渚がトップからスピードを上げ、右のレーンをえぐる。
切り返し、二歩目でふわりと角度を変える。
相手センターの指先をすり抜けるレイアップ。
“コトン”
柔らかい音。
ネットが一瞬だけ揺れて、光が水みたいに跳ねた。
“いつもの渚だ”
ベンチでタオルを握りながら、りんは小さく息をはいた。
だが、そのすぐ後だった。
ディフェンスからの切り替え、渚がノーマークのミドルを受け取って、ためらわずに放つ。
“カンッ!”
いつもより少し強い。
ボールはリングの手前で弾かれ、相手ボールになって戻ってくる。
“こういうこと、もある”
自分に言い聞かせる間もなく、もう一度。
渚が同じ位置で受け、今度はわずかに短い。
“コツ……”
リングに嫌われた音がして、ボールが隣のレーンに転がる。
相手の速攻。二点。
スコアはすぐ同点に追いつかれ、そして一度逆転された。
ベンチのすぐ前を、渚が戻ってくる。
その横顔の汗に、焦りの粒が混ざっているのが見えた。
“渚……”
呼び止めたい気持ちと、声に出してはいけないような気持ちが喉でぶつかって、りんは唇を噛む。
◇
タイムアウト。
椅子がきしむ音、タオルの綿の匂い、ドリンクのキャップが次々開く音。
監督は声を荒げない人だ。今も、短く、はっきり。
「ミドルは悪くない。けど“急いで打ってる”。一本、作ろう。渚、ダイブの角度変えろ。ウィングの合わせ、半歩遅らす」
渚は「はい」と返す。
視線の焦点がまだ揺れている。
監督はベンチの端にいたりんを見た。
「二本後、りん入る。視野、貸せ」
「――はい」
心臓の音が、少しだけ強くなる。
怖くはない。
ただ、自分の身体の中で、誰かが灯りを一つ増やしたみたいだった。
◇ ◇ ◇




