6号球に願いを込めて 2
翌日の放課後。
チームは5対5のゲーム形式の練習だった。
りんはビブスを着て、控えの列に並ぶ。
監督が合図を出す。交代。
りんはコートに入って、最初の一歩で靴の底が少し滑った。
“あ、やだ”
焦りが一気に体温を奪う。
「ボール、来るよ!」
渚の声。振り返ると、まっすぐにパスが飛んでくる。
りんは反射的に両手で受け止め、腰を落とし、顔を上げる。
目の前のディフェンスの子は、腕を広げて切り替えに備えている。
――抜けない。
体が固まる。
りんは一歩下がって、横にずらし、もう一度視線を上に。
右の45度、渚が一瞬、フリー。
“今”
りんは胸の前で小さく押し出すようにパスを出した。
渚のシュートは、リングの手前で一回ふわりと踊って、落ちた。
「ナイス、ナイス、今の視野良かったよ」
監督の声。
でもりんの胸は、少しだけ痛かった。
“わたしのパス、軽かったかな”
“もっと強くても良かった?”
自分にだけ、厳しい声が飛ぶ。
◇
練習が終わる頃には、りんの喉はからからだった。
給水の列で、渚が肩をぽんと叩く。
「さっきのパス、良かった。りんの“見る”は、やっぱ好き」
「……でも、ディフェンス、遅れた」
「うん。でも、遅れたって分かってるの、すでに半分“直ってる”」
渚はペットボトルをりんの唇へ押しつける仕草をして、おどけて笑った。
力が抜けて、りんも笑ってしまう。
◇
雨の日。
体育館が使えない時間帯は、校舎の廊下の端を借りて、りんは身ひとつでできる練習をした。
壁を使って“ワンハンドシュート”のフォームだけを反復する。
肘を落とさない。手首を返す。
壁に触れるのは指先だけ。
同時に、つま先立ちでふくらはぎを上げ下げ。
床の冷たさが足の裏に伝わる。
10回、20回、30回。
“ちゃんと伸びろ、ちゃんと戻れ”
自分の体に、言い聞かせる。
りんのノートは、その日のページの半分が汗でよれて、鉛筆の文字が少し滲んだ。
◇
夜、家の廊下でドリブルをしていたら、お母さんが顔を出した。
「りん、床がね、マンションだからね、下のお家に響いちゃうからね」
「……ごめんなさい」
注意されたことが悲しいわけじゃない。
やめなきゃいけないことが増えるのが、怖いだけだ。
りんは一度ボールを抱えて、ほんの少し考えた。
“叩く”から“転がす”へ。
布団の上にボールを置いて、指先だけで押す。
ふかふかの布団の反発は弱く、ボールは言うことを聞いてくれない。
でも、だからこそ“指”で扱う練習になる。
できないときは、やり方を変えればいい。
渚が前に言っていた言葉を思い出す。
りんはうなずいて、指先に集中した。
やわらかい弾力の中で、ボールの芯を探す。
◇ ◇ ◇
土曜日の朝。
りんは早起きして、家の前の小さな公園へ行った。
朝露の匂いと、鳥の声。
鉄棒のそばの平らなスペースで、ラダー代わりにチョークで四角いマス目を描く。
前へ、後ろへ、斜めへ。
足の裏で地面を“押す”。
最初は頭がこんがらがる。
でも、10分、15分、20分と繰り返すうちに、足がリズムを覚え始める。
汗が額から頬へ落ちて、首筋を伝う。
最後に深呼吸をして、りんは空を見た。
雲の間から陽が差して、地面の白い四角が光を吸っている。
胸の奥の小さな灯りが、少しだけ大きくなる。
◇
月曜の放課後。
監督がホワイトボードに近づいた瞬間、空気が少しだけ冷たくなった。
《次の公式戦メンバー》
黒いマグネットで四隅を留められた白い紙。
りんは少し離れた場所で、靴紐を結ぶふりをしていた。
近づいたら、期待してしまう。
期待したら、外れたときに、苦しくなる。
渚が気づいて、視線で合図を送る。
**「いこう」**という目。
りんは、一回だけ深く息を吸って、立ち上がった。
白い紙に、びっしりと並ぶ名前。
まず、いつもの数人の名前に目が行く。
渚。キャプテン。センターのあの子。
――そして。
目が自然に、紙の下のほうへ滑っていく。
星空りん
その二つの言葉が並んでいた。
手のひらが、すぐ汗ばむ。
文字が揺れる。
りんは紙に指が触れてしまいそうになるのを引っ込めて、ボールをぎゅっと抱いた。
呼吸がどこへ行ったのか、しばらく分からなかった。
渚の笑い声が、遠くで風鈴みたいに鳴っている。
「りん」
名前を呼ばれて、やっと息が戻る。
「……ほんとに、ある」
声は震えて、笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない。
渚が、りんの肩をぐいっと抱き寄せた。
「おめでとう。ね、言ったでしょ。りんの“見る”は、チームの力になるって」
りんはうなずいて、胸の奥で、ずっと言えなかった言葉をそっと並べる。
“できない”から逃げなかった。
“焦る”から目をそらさなかった。
“ゆっくり”を信じた。
「……がんばって、よかった」
言葉にした瞬間、世界がすっと明るくなった気がした。
⸻
体育館の窓の外で、雲の切れ間から光が差した。
白いボードの前に立つ、ちいさな影は、いつもより少しだけ、背が伸びて見えた。




