6号球に願いを込めて 1
放課後の体育館は、いつもより音が少なかった。
ゴムの床に反射する窓の光は薄く、埃がふわりと舞っている。
りんは端っこのコートで、マーカーコーンを三つ並べていた。
右足、左足。小さく踏み替えるステップを十回。
次はドリブルをつけながら、細かく体の向きを変える。
“トン、トン、トン”
ボールの音がときどき空振りのように軽くなって、りんは眉を寄せる。
「親指、力入りすぎ」
いつの間にか背中に声。振り向くと、渚がペットボトルを持って立っていた。
「こう。指は“つかむ”じゃなくて“添える”。手のひらで叩かない。音、聴いて」
渚がお手本を見せる。
“タン、タン、タン”
同じ“3”なのに、音がまるで違う。
りんは無意識に背筋を伸ばした。
「……渚は、どうしてそんなに上手なの?」
「回数。あと、焦らないこと。りんは“早く上手くなりたい”が強いから、力で追い抜こうとしてる」
渚は笑って、りんの額に指を当てた。
「急がない。呼吸。はい、3回吸って、3回吐いて」
りんは渚と同じリズムで呼吸して、もう一度ボールに触れた。
掌じゃない。指で、支える。
“トン、トン、トン”
ほんの少しだけ、音が丸くなった。
「……今の、ちょっと良かった?」
「うん。ちょっと、ね」
ちょっと。
それでも、胸の奥で小さな灯りが点いた。
◇
帰り道、ランドセルの重さが今日は少しだけ軽い気がした。
夕焼けが長い影を作る歩道で、りんはボールを抱えて歩く。
渚は前をスキップするみたいに進んで、時々ふり返る。
「次の練習試合、メンバー発表、週末なんだって」
「……うん」
言葉が小さくなる。
りんはまだ一度も、公式メンバーに入ったことがない。
名簿はいつも白い紙の中央から右側に寄って、渚の名前がある部分だけ濃く見えた。
“頑張ってるのにね”
たぶん大人が言ったら優しさのつもりの言葉が、りんには刃みたいに感じられることがある。
頑張ってる、のに。
“のに”は、どうしてこんなに苦いんだろう。
「りん」
渚が立ち止まって、真っ直ぐに言う。
「りんの“良いとこ”、私知ってる。視野、広いよ。誰が空いてるか見るの、上手」
「……でも、上手いだけじゃ、ダメなんでしょ」
「ううん。“上手い”にいろいろある。りんの“上手い”はチームを助ける“上手い”。それ、すごい」
渚の言葉は、いつも遠回りをしない。
胸の中の硬くなった場所に、ぽん、と指で触れてくる。
りんはうまく笑えず、ただうなずいた。
◇
家に帰ると、味噌汁の匂いがした。
「おかえり、りん。手洗ってー」
台所からお母さんの声。
りんはランドセルを置いて、ボールを部屋に運ぶ。
勉強机の端に置いてあるノートの表紙には、
**『りんのれんしゅうノート』**と書かれている。
今日の日付。
ドリブル:指を意識、音がまるくなった(渚ちゃんアドバイス)
フットワーク:コーン3こ、10往復、タイム 1分34秒 → 1分30秒(4秒短くなった!)
最後に小さな星印を描き足して、りんはふぅ、と息を吐いた。
夕飯を食べて、お風呂に入って、宿題を済ませる。
寝る前、部屋の明かりを消すと、窓の外で風がレースカーテンを揺らした。
りんは布団にもぐり込み、目を閉じる。
頭の中で、コートの線を歩く。
右、左。正面を向く。“見る”。
渚の声が、なぜか心の中でゆっくり響いた。
「急がない。呼吸」
寝る前の最後の呼吸は、いつもより深かった。
◇ ◇ ◇




