鏡の中のりん 3(終)
夜。
時計の針が零時を指した瞬間、風がカーテンを揺らした。
部屋の空気が、ひときわ澄んでいる。
まるで、世界が息を潜めているようだった。
机の上には開きっぱなしのノート。
書きかけの言葉は、途中で止まっている。
> 「もう、頑張れない。」
たったそれだけの文字が、光に照らされていた。
ペン先にはまだ、黒いインクの雫が残っている。
りんは指でそれを拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。
鏡が、淡く光を放っていた。
昨日よりも、ずっと明るい。
まるで呼吸をしているみたいに、
波紋がゆらゆらと揺れている。
> 「……呼んでた?」
りんがそう呟くと、鏡の中の“りん”が微笑んだ。
その笑みは、あたたかくもあり、どこか“確信”に満ちていた。
> 「来てくれたんだね。待ってたよ。」
鏡のりんの声は、優しく震える。
けれどその奥に、静かな“勝利の色”が混ざっていた。
まるで、最初からこの瞬間を知っていたかのように。
りんは一歩、また一歩と近づく。
足元に、淡い光が広がる。
> 「ねぇ……あなたの世界って、本当に優しいの?」
> 「ええ。みんな、あなたを好きになる。
> 誰も裏切らないし、誰もあなたを笑わない。」
鏡の中のりんは、そっと手を差し伸べた。
白い指が光を帯び、りんの指先と重なりそうになる。
> 「もう、こっちへ来ていいの。
> あなたは十分、頑張ったから。」
りんは、微笑んだ。
涙が頬を伝う。
> 「……ありがとう。」
鏡の表面に触れた瞬間、冷たいはずのガラスがやわらかく沈んだ。
波紋が広がり、部屋の光が吸い込まれていく。
世界が反転するように、りんの視界がゆっくりと反転した。
◇
朝。
カーテンの隙間から光が差し込む。
部屋の空気は、昨日よりも明るかった。
鏡の前には、ひとりの“りん”が立っていた。
同じ姿、同じ制服。
けれど、その表情は――まるで別人。
> 「おはよう。」
その声には、柔らかな響きがあった。
鏡の中の“現実のりん”が静かに見つめている。
その瞳には驚きも恐怖もなく、ただ“受け入れた安らぎ”があった。
> 「あなたの代わりに、ちゃんと幸せになるね。」
そう言って、“鏡のりん”は微笑む。
その笑みには、どこか“してやった”ような余韻が漂っていた。
彼女の中で、現実は完全に掌の中にあった。
> 「こっちの世界……本当に、素敵。」
ベランダに出ると、朝の光が肌を撫でた。
鳥の声。
風の匂い。
何もかもが、新しい。
――まるで、自分のものになった世界。
◇
一方、鏡の向こう。
もうひとりの“りん”は、淡い闇の中にいた。
何もない空間。
壁も天井もなく、ただ、ゆらめく光の層だけが彼女を包んでいる。
> 「……ここが、あの子の言ってた世界?」
りんは周囲を見渡す。
静寂。
自分の呼吸だけが音を立てる。
でも、不思議と怖くはなかった。
孤独が、やさしく寄り添ってくれるようだった。
何も期待されず、誰にも笑われない。
その静けさは、痛みよりもずっと心地よかった。
> 「……大丈夫。鏡の中なら、泣いても誰にも見えないから。」
りんは、涙を指で拭った。
その頬には、どこか穏やかな笑みが浮かんでいた。
◇
外の世界では、“新しいりん”が笑っていた。
友達に囲まれ、誰かと話し、軽やかに歩く。
彼女の笑顔を見て、誰も疑わない。
――それが本物の“星空りん”だと。
けれど、鏡の奥では、
もうひとりのりんが静かに見つめていた。
光と闇。
現実と鏡。
ふたつのりんが、それぞれの幸福を手に入れた。
ひとりは、誰かの世界で生きる幸福を。
もうひとりは、誰にも見えない場所で泣ける自由を。
> 「どっちが本物の“わたし”なんだろうね。」
鏡の奥で、小さな笑い声が響いた。
やさしくて、寂しくて、それでも少し幸せそうな声だった。
⸻
『鏡の中のりん』 完




