鏡の中のりん 2
次の日の朝、鏡の前に立つのが少し怖かった。
けれど、立たないわけにもいかない。
髪を整えなきゃいけないし、制服の襟も曲がっていた。
鏡を見つめる。
そこに映るのは、眠たげで、少し疲れた自分の顔。
いつもと同じ。
そう思いたかった。
でも──
鏡の中のりんは、ほんのわずかに笑っていた。
頬の角度が違う。唇の端が、少し上がっている。
まるで“昨日の続き”のように。
> 「おはよう」
声がした。
確かに、耳ではなく、胸の奥で響いた。
りんは息を詰めたまま、鏡を見つめた。
鏡のりんは微笑みながら言った。
> 「そんな顔、しないで。わたし、あなたに会えてうれしいの。」
空気が震えた。
自分の声ではないのに、どこか懐かしかった。
誰かに“優しく話しかけられる”のが、いつぶりだったか思い出せなかった。
「……あなた、誰?」
やっと出た言葉は、かすれていた。
> 「誰って……わたしは、あなた。」
鏡のりんは、微笑んだまま首をかしげた。
> 「でもね、こっちの世界では少し違うの。
> みんな優しくて、誰もあなたを置いていかない。
> ちゃんと名前を呼んでくれるの。」
その言葉が、りんの胸の奥を静かに刺した。
昼間、誰にも呼ばれなかった自分の名前が、
こうして鏡の中から返ってくる。
たったそれだけで、世界の色が少し変わる気がした。
> 「あなたの世界は、冷たいね。」
鏡のりんの瞳は、りんの心をそのまま映しているようだった。
> 「でもね、こっちに来れば、あたたかいよ。」
その瞬間、りんの喉がひくりと鳴った。
なぜか、涙が込み上げる。
「……ほんとに、そんな世界があるの?」
> 「あるよ。」
> 「あなたが望めば、いつでも来られる。」
鏡の表面がゆらりと波打った。
まるで、水の底にもう一つの空が広がっているみたいだった。
◇
放課後。
教室を出るとき、りんはふと後ろを振り返った。
窓に映る自分の姿が、ほんの少し微笑んでいるように見えた。
──鏡のりんと同じ笑み。
ぞくりとしたのに、不思議と嫌ではなかった。
◇
夜。
家に帰っても、母はまだ帰ってこなかった。
キッチンのテーブルには、新しいメモが置かれていた。
『急な残業。明日の朝も早いから先に寝てて』
横に、ラップで包まれたサンドイッチ。
触れてみると、まだ少し温かかった。
その“ぬくもり”だけが、りんの一日を支えていた。
部屋に戻ると、鏡がまた光を帯びていた。
今夜はいつもより強い。
まるで月が落ちてきたみたいに、部屋全体を淡い光が満たす。
りんは、鏡の前にそっと座った。
心臓が静かに高鳴っている。
> 「今日も、話してくれる?」
鏡のりんが微笑む。
> 「もちろん。あなたが呼んでくれたから。」
ふたりの間に、ガラス一枚。
でも、それはもはや境界ではなかった。
> 「こっちの世界ね、夜が静かで綺麗なの。
> 星が、あなたの名前を呼ぶの。」
「……名前を、呼ぶ?」
> 「うん。りん、りん、って。」
> 「寂しいときは、風が抱きしめてくれるの。」
その言葉に、りんは笑った。
泣き笑いのような表情で、指先を鏡に当てた。
冷たい。けれど、その冷たささえ、やさしく感じた。
> 「あなたも、こっちに来ればいいのに。」
鏡のりんが囁いた。
> 「もう、ひとりで我慢しなくていいんだよ。」
りんは、小さく息を飲む。
指先がわずかに沈む。
まるで、鏡の向こうが“呼吸”しているみたいに。
> 「……行っても、いいの?」
> 「ええ。あなたが望めば、すぐにでも。」
その瞬間、鏡の中のりんの瞳がきらりと光った。
優しい光の奥に、どこか“確信”のようなものがあった。
りんは気づかない。
その笑顔が、ほんのわずかに“勝ち誇っている”ことに。
> 「いつでも、待ってるから。」
その声が、夜の空気に溶けて消えた。
りんは鏡に額を寄せる。
ガラス越しに、自分の呼吸が白く曇る。
「……行きたいな」
その言葉は誰にも届かない。
けれど、鏡の中の世界がかすかに揺れた。
まるで、返事をするように。
◇ ◇ ◇
その夜、りんは夢を見た。
誰かが優しく手を伸ばしてくる夢。
その手を掴んだ瞬間、温かさと同時に、どこか冷たい光が流れ込んでくる。
──それが“もうひとつの世界”の始まりだった。




