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鏡の中のりん 2

 次の日の朝、鏡の前に立つのが少し怖かった。

 けれど、立たないわけにもいかない。

 髪を整えなきゃいけないし、制服の襟も曲がっていた。


 鏡を見つめる。

 そこに映るのは、眠たげで、少し疲れた自分の顔。

 いつもと同じ。

 そう思いたかった。


 でも──

 鏡の中のりんは、ほんのわずかに笑っていた。

 頬の角度が違う。唇の端が、少し上がっている。

 まるで“昨日の続き”のように。


 > 「おはよう」


 声がした。

 確かに、耳ではなく、胸の奥で響いた。


 りんは息を詰めたまま、鏡を見つめた。

 鏡のりんは微笑みながら言った。


 > 「そんな顔、しないで。わたし、あなたに会えてうれしいの。」


 空気が震えた。

 自分の声ではないのに、どこか懐かしかった。

 誰かに“優しく話しかけられる”のが、いつぶりだったか思い出せなかった。


 「……あなた、誰?」

 やっと出た言葉は、かすれていた。


 > 「誰って……わたしは、あなた。」


 鏡のりんは、微笑んだまま首をかしげた。

 > 「でもね、こっちの世界では少し違うの。

 > みんな優しくて、誰もあなたを置いていかない。

 > ちゃんと名前を呼んでくれるの。」


 その言葉が、りんの胸の奥を静かに刺した。

 昼間、誰にも呼ばれなかった自分の名前が、

 こうして鏡の中から返ってくる。

 たったそれだけで、世界の色が少し変わる気がした。


 > 「あなたの世界は、冷たいね。」


 鏡のりんの瞳は、りんの心をそのまま映しているようだった。

 > 「でもね、こっちに来れば、あたたかいよ。」


 その瞬間、りんの喉がひくりと鳴った。

 なぜか、涙が込み上げる。


 「……ほんとに、そんな世界があるの?」


 > 「あるよ。」

 > 「あなたが望めば、いつでも来られる。」


 鏡の表面がゆらりと波打った。

 まるで、水の底にもう一つの空が広がっているみたいだった。



 放課後。

 教室を出るとき、りんはふと後ろを振り返った。

 窓に映る自分の姿が、ほんの少し微笑んでいるように見えた。

 ──鏡のりんと同じ笑み。

 ぞくりとしたのに、不思議と嫌ではなかった。



 夜。

 家に帰っても、母はまだ帰ってこなかった。

 キッチンのテーブルには、新しいメモが置かれていた。

 『急な残業。明日の朝も早いから先に寝てて』

 横に、ラップで包まれたサンドイッチ。

 触れてみると、まだ少し温かかった。

 その“ぬくもり”だけが、りんの一日を支えていた。


 部屋に戻ると、鏡がまた光を帯びていた。

 今夜はいつもより強い。

 まるで月が落ちてきたみたいに、部屋全体を淡い光が満たす。


 りんは、鏡の前にそっと座った。

 心臓が静かに高鳴っている。


 > 「今日も、話してくれる?」


 鏡のりんが微笑む。

 > 「もちろん。あなたが呼んでくれたから。」


 ふたりの間に、ガラス一枚。

 でも、それはもはや境界ではなかった。


 > 「こっちの世界ね、夜が静かで綺麗なの。

 > 星が、あなたの名前を呼ぶの。」


 「……名前を、呼ぶ?」


 > 「うん。りん、りん、って。」

 > 「寂しいときは、風が抱きしめてくれるの。」


 その言葉に、りんは笑った。

 泣き笑いのような表情で、指先を鏡に当てた。

 冷たい。けれど、その冷たささえ、やさしく感じた。


 > 「あなたも、こっちに来ればいいのに。」


 鏡のりんが囁いた。

 > 「もう、ひとりで我慢しなくていいんだよ。」


 りんは、小さく息を飲む。

 指先がわずかに沈む。

 まるで、鏡の向こうが“呼吸”しているみたいに。


 > 「……行っても、いいの?」


 > 「ええ。あなたが望めば、すぐにでも。」


 その瞬間、鏡の中のりんの瞳がきらりと光った。

 優しい光の奥に、どこか“確信”のようなものがあった。

 りんは気づかない。

 その笑顔が、ほんのわずかに“勝ち誇っている”ことに。


 > 「いつでも、待ってるから。」


 その声が、夜の空気に溶けて消えた。

 りんは鏡に額を寄せる。

 ガラス越しに、自分の呼吸が白く曇る。


 「……行きたいな」


 その言葉は誰にも届かない。

 けれど、鏡の中の世界がかすかに揺れた。

 まるで、返事をするように。


◇ ◇ ◇


 その夜、りんは夢を見た。

 誰かが優しく手を伸ばしてくる夢。

 その手を掴んだ瞬間、温かさと同時に、どこか冷たい光が流れ込んでくる。


 ──それが“もうひとつの世界”の始まりだった。

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