鏡の中のりん 1
朝、目を開けると、部屋の中がやけに静かだった。
時計の針が動く音だけが、薄暗い空気の中でかすかに響いている。
外は曇り。カーテンの隙間から差し込む光は、まるで埃を照らすためにあるようだった。
「……また、寝坊か」
独り言のようにつぶやいて、ベッドから起き上がる。
スマホの通知はひとつも来ていない。昨日送ったメッセージも、既読のまま止まっている。
胸の奥が少しだけ冷たくなる。けれど、そんなことはもう何度目かわからなかった。
洗面台の前に立つ。
鏡の中のわたしが、無表情にこちらを見つめ返している。
目の下には薄いクマ、唇の色は少し悪い。
「笑わなきゃ」と思って口角を上げるけれど、鏡の中のわたしは、どこか他人のようだ。
歯を磨きながら、ふと鏡の奥に目が止まる。
ほんの一瞬、映っている“わたし”が、微かに動いた気がした。
まばたきのタイミングが、わたしより一瞬だけ遅れていた。
「……え?」
思わず手を止めて、もう一度見つめる。
でも、そこにはいつも通りのわたし。
曇りガラス越しに、朝の光がぼんやり揺れている。
歯ブラシをコップに戻しながら、心の中で小さく笑った。
「寝ぼけてるのかな……」
けれど、その“笑ったはずのわたし”が──
鏡の中で、ほんのわずかに違う表情をしていた気がした。
◇
キッチンに降りると、母の姿はもうなかった。
テーブルの上にはパンとメモが置かれている。
『先に出ます。冷蔵庫に牛乳』
短い文字と、飲みかけのコーヒーカップ。
まだ温もりが残っているのに、まるで人の気配だけが抜け落ちていた。
父の姿はもう何日も見ていない。
帰ってくる時間も、出ていく時間も知らない。
冷蔵庫を開けると、昨夜の惣菜がそのまま残っていた。
「……いらないや」
りんはパンを半分にちぎって、流し台の端に置いた。
食欲なんて、もうどこかに置いてきたみたいだった。
◇
学校へ向かう道。
交差点で見上げた空はまだ重たく、風だけが季節を先取りしている。
通りすぎる制服の群れの中で、りんは小さく息を吐いた。
友達の輪に混じることもなく、足早に昇降口へ向かう。
──今日も、何も変わらない朝。
そう思った瞬間、胸の奥に浮かんだ“さっきの鏡の笑み”が、
なぜか頭から離れなかった。
◇
教室のざわめきが、遠い世界の音みたいに聞こえる。
笑い声、机を引く音、チョークのこすれる音。
全部が混じり合って、意味を失っていく。
「りん、そのプリントまわして」
隣の子が何気なく声をかける。
笑顔で「うん」と返して、用紙を渡す。
──それだけで、会話は終わる。
昼休み、机を囲む輪の中で誰かが言った。
「昨日のカフェ行った?」「見て見て、この動画!」
話の流れが自分のいない方向へ流れていくのを感じながら、
りんは箸を握りしめた。
空気に混ざる笑い声が、自分だけを透かして通り抜けていく。
> 「ねぇ、りんってさ、何考えてるのかわかんないよね」
以前そう言われた言葉が、ふと脳裏をよぎった。
たぶん悪気なんてなかった。
でも、その一言で世界が少し遠のいた気がした。
窓の外では、曇り空がまるで鏡みたいに色を変えずに漂っていた。
◇
放課後。
昇降口を出た瞬間、冷たい風が頬をかすめた。
笑い合うグループの中に、自分の名前はない。
スマホを取り出しても、通知はひとつも光っていなかった。
「……また、明日。」
誰に言うでもなく呟いて、校門をあとにする。
◇
夜。
家の玄関を開けても、やはり静かだった。
照明のスイッチを入れても、空気が重たいままだ。
テレビの画面だけが明るく、リビングの椅子には誰も座っていない。
テーブルの上には、母のメモが置かれていた。
『夕飯は冷蔵庫。お父さんは出張』
電子レンジの音が、無人の家に響く。
温めたパスタを食べながら、テレビのニュースを眺める。
誰かの笑い声が流れるたびに、胸の中が少しずつ凍っていく。
> 「この家、静かすぎるんだよね……」
自分の声が、壁に吸い込まれて消えた。
食器を流しに置き、部屋へ戻る。
照明を落とすと、鏡の向こうがぼんやりと光を返した。
昼間のことを思い出して、少しだけ近づいてみる。
「……やっぱり、気のせいだよね」
けれどその瞬間、
鏡の中の“りん”が、確かに微笑んだ。
ほんの一瞬、唇がわずかに動いたように見えた。
──わたしより、柔らかく。
──わたしより、優しく。
息を飲む。足が動かない。
心臓の鼓動が、静かな部屋にだけ響いていた。
鏡の向こうで、“もうひとりのりん”が囁いたような気がした。
> 「ねぇ……そっちは、苦しくない?」
空気が凍る。
でも、りんの頬には、ひとすじの涙が流れていた。
それが“恐怖”なのか“救い”なのか、わからないまま。




