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鏡の中のりん 1

 朝、目を開けると、部屋の中がやけに静かだった。

 時計の針が動く音だけが、薄暗い空気の中でかすかに響いている。

 外は曇り。カーテンの隙間から差し込む光は、まるで埃を照らすためにあるようだった。


 「……また、寝坊か」


 独り言のようにつぶやいて、ベッドから起き上がる。

 スマホの通知はひとつも来ていない。昨日送ったメッセージも、既読のまま止まっている。

 胸の奥が少しだけ冷たくなる。けれど、そんなことはもう何度目かわからなかった。


 洗面台の前に立つ。

 鏡の中のわたしが、無表情にこちらを見つめ返している。

 目の下には薄いクマ、唇の色は少し悪い。

 「笑わなきゃ」と思って口角を上げるけれど、鏡の中のわたしは、どこか他人のようだ。


 歯を磨きながら、ふと鏡の奥に目が止まる。

 ほんの一瞬、映っている“わたし”が、微かに動いた気がした。

 まばたきのタイミングが、わたしより一瞬だけ遅れていた。


 「……え?」


 思わず手を止めて、もう一度見つめる。

 でも、そこにはいつも通りのわたし。

 曇りガラス越しに、朝の光がぼんやり揺れている。

 歯ブラシをコップに戻しながら、心の中で小さく笑った。


 「寝ぼけてるのかな……」


 けれど、その“笑ったはずのわたし”が──

 鏡の中で、ほんのわずかに違う表情をしていた気がした。



 キッチンに降りると、母の姿はもうなかった。

 テーブルの上にはパンとメモが置かれている。

 『先に出ます。冷蔵庫に牛乳』

 短い文字と、飲みかけのコーヒーカップ。

 まだ温もりが残っているのに、まるで人の気配だけが抜け落ちていた。


 父の姿はもう何日も見ていない。

 帰ってくる時間も、出ていく時間も知らない。

 冷蔵庫を開けると、昨夜の惣菜がそのまま残っていた。

 「……いらないや」

 りんはパンを半分にちぎって、流し台の端に置いた。

 食欲なんて、もうどこかに置いてきたみたいだった。



 学校へ向かう道。

 交差点で見上げた空はまだ重たく、風だけが季節を先取りしている。

 通りすぎる制服の群れの中で、りんは小さく息を吐いた。

 友達の輪に混じることもなく、足早に昇降口へ向かう。


 ──今日も、何も変わらない朝。

 そう思った瞬間、胸の奥に浮かんだ“さっきの鏡の笑み”が、

 なぜか頭から離れなかった。



 教室のざわめきが、遠い世界の音みたいに聞こえる。

 笑い声、机を引く音、チョークのこすれる音。

 全部が混じり合って、意味を失っていく。


 「りん、そのプリントまわして」

 隣の子が何気なく声をかける。

 笑顔で「うん」と返して、用紙を渡す。

 ──それだけで、会話は終わる。


 昼休み、机を囲む輪の中で誰かが言った。

 「昨日のカフェ行った?」「見て見て、この動画!」

 話の流れが自分のいない方向へ流れていくのを感じながら、

 りんは箸を握りしめた。

 空気に混ざる笑い声が、自分だけを透かして通り抜けていく。


 > 「ねぇ、りんってさ、何考えてるのかわかんないよね」

 以前そう言われた言葉が、ふと脳裏をよぎった。

 たぶん悪気なんてなかった。

 でも、その一言で世界が少し遠のいた気がした。


 窓の外では、曇り空がまるで鏡みたいに色を変えずに漂っていた。



 放課後。

 昇降口を出た瞬間、冷たい風が頬をかすめた。

 笑い合うグループの中に、自分の名前はない。

 スマホを取り出しても、通知はひとつも光っていなかった。

 「……また、明日。」

 誰に言うでもなく呟いて、校門をあとにする。



 夜。

 家の玄関を開けても、やはり静かだった。

 照明のスイッチを入れても、空気が重たいままだ。

 テレビの画面だけが明るく、リビングの椅子には誰も座っていない。

 テーブルの上には、母のメモが置かれていた。

 『夕飯は冷蔵庫。お父さんは出張』


 電子レンジの音が、無人の家に響く。

 温めたパスタを食べながら、テレビのニュースを眺める。

 誰かの笑い声が流れるたびに、胸の中が少しずつ凍っていく。


 > 「この家、静かすぎるんだよね……」


 自分の声が、壁に吸い込まれて消えた。


 食器を流しに置き、部屋へ戻る。

 照明を落とすと、鏡の向こうがぼんやりと光を返した。

 昼間のことを思い出して、少しだけ近づいてみる。


 「……やっぱり、気のせいだよね」


 けれどその瞬間、

 鏡の中の“りん”が、確かに微笑んだ。


 ほんの一瞬、唇がわずかに動いたように見えた。

 ──わたしより、柔らかく。

 ──わたしより、優しく。


 息を飲む。足が動かない。

 心臓の鼓動が、静かな部屋にだけ響いていた。


 鏡の向こうで、“もうひとりのりん”が囁いたような気がした。


 > 「ねぇ……そっちは、苦しくない?」


 空気が凍る。

 でも、りんの頬には、ひとすじの涙が流れていた。

 それが“恐怖”なのか“救い”なのか、わからないまま。

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