番外編 少年期のエピソード4 +少女期のエピソード
霞澄が戻ってきたのは俺達が2匹目を釣りあげてからのことだった。
なにやらそわそわしていて落ち着きがない。
俺と目が合うたび人見知りの幼稚園児みたいに顔を伏せてもじもじと縮こまっている。
トイレに行く前は鬼気迫る表情だったのが別人のように大人しくなっていた。
「どうしたんだ?様子が変だぞ。具合でも悪いのか?」
そうは言ったが顔色自体は悪そうに見えないな。
霞澄は小学校低学年の内から自己管理を徹底していて風邪やインフルなんかで休むことなく皆勤賞をとっている。
体調を崩すことなど滅多にない。
とすれば避けようのない変調だろうか。
女って月のものが来ると顔が赤くなったりするもんなのかね?
保健体育の授業で教わった記憶はない。
ま、俺が体験することはできないんだからどれだけ辛いかってのは考えるだけ無駄か。訊いたところでデリカシーないってキレられそうだしな。
明らかにやせ我慢してるようならコテージのベッドに寝かせりゃいい。
俺の心配に対して霞澄は、
「べ、別に平気!車の中で寝た分元気100倍だから!それよりお兄ちゃん釣れた?」
上ずった声で愛と勇気だけがフレンズなヒーローのセリフを吐き、ビシッと決めポーズをとった。
明らかに不自然だ。短い間に一体何があったのかね。
とはいえポーズには頭部交換したてのような覇気がある。まごうことなき元気100倍。だったら心配することもねえよな。
普段通りに接しよう。
「ああ、俺も怜兄さんも2匹ずつ釣ったぞ。そんだけにしとくつもりだけどお前の分は自分で釣るか?」
「うん、そうする」
放置したままの竿を拾って餌を投げ込む霞澄。
しかし心ここにあらずというか水面に集中できていないようで、時折こちらをチラチラとチラ見してくる。
「あ、逃げちゃった……」
集中力の怪物であるはずの霞澄が再開してから5回、かかった魚を取り逃がす。
釣り初心者であるとはいえ、らしくない失態だ。
餌が残り少なくなっている。
失敗できる回数にも限りがある以上手助けすべきだろうと思った。
霞澄の後ろから手を回して竿を支えてやる。
「お、お、お兄ちゃん!?」
「お節介だったか?」
ここのところ霞澄の方からくっついてくるのでもう慣れっこだ。
おっぱいに触ったりしなければどうということはない。
シャンプーの魔力にだって耐性がついた。
「ううん!そんなことない!………………嬉しい」
意地を張るかと思ったが、しおらしく腕の中に納まる霞澄。
程なくして手の中にヒットの感触が伝わる。
「お、かかったぞ。かえしのついてない針だから無理に引くと外れるからな。慌てずゆっくりとな」
霞澄がいない間に体得したコツを披露して魚を岸まで引き寄せる。
怜兄さんがランディングネットを構えて待機してくれた。
サポートが功を奏して無事魚を引き上げる。
「釣れた!釣れたよお兄ちゃん!」
魚が跳ね、飛び散る水滴が顔や服を濡らすのも構わずはしゃぐ霞澄。
患っていた緊張らしきものが少しはほぐれたみたいだ。
「お、なかなかの大物じゃん。脂がのっててうまそうだ。余ってる餌の分も釣るか?」
「2匹も食べられないから1匹でいい」
珍しく少食だな。霞澄も胃腸は夏バテ気味だろうか。
「そか。怜兄さん切り上げますか?」
「いいよ。オレも2匹でいいからね。焼いてもらいに行こうか」
魚籠を持って受付に戻る。
5匹のイワナはスタッフの慣れた手つきで下処理を施され、口から尾ひれの先まで串を通された。
塩をまぶしてある皮は炭火に炙られてぱりぱりといった感じに焦げ、こんがりと焼き上げられていく。
香ばしく焼ける脂の匂いに喉がぐびりと鳴った。
これだけで白米が食える。
実物がおかずについてくるならさぞかし飯が進むことだろう。
焼き上がりを待つ間、清流を臨むテーブル席に腰を下ろす。
テーブル上にはメニューが置かれていて、魚以外の料理も豊富だった。
『地産地消の地元食材!』という文字が料理の写真の上に踊っている。
それらに興味がないわけではないが、俺の気分は『白い飯!』である。
値段は観光地価格といっても高くはない。
どうする?霞澄に金を借りるか?
恐ろしい利子がつきそうだが……。
クソッ!こないだ買ったクソゲー、パッケージ版の方を買えばよかった。DL版だったから売ることもフリスビーにして遊ぶこともできねえんだよ。
悪魔と交渉すべきか悩んでいると怜兄さんが声をかけてきた。
「飛鳥くんライスが食べたくならないかい?奢るよ」
俺の葛藤は色に出にけりだったらしい。
『大丈夫なんで』と断ろうとする俺の思考も先読みしてこう付け加えた。
「遠慮しなくていいぜ。オレと飛鳥くんの仲じゃないか」
朝食の時、金がないと告白したことで気を遣わせてしまったようだ。
「もし居心地の悪さを感じるなら飛鳥くんが社会人になった時に奢り返してくれればいいよ。その時は飛鳥くんから旅行に誘ってくれたら嬉しいな」
出世払いか。怜兄さんに借りを作るなら悪くないので素直に奢られたいと思う。
「そういうことなら喜んでご馳走になります。旅行だって俺なんかと一緒で退屈しないならいつか誘わせてもらいますよ」
奢られた礼儀として思いつく限りの誠意を伝えた。
もちろん社交辞令だけでなく怜兄さんと友情を深めたいという気持ちを込めてがっぷり握手を交わす。
「本当かい?そいつは嬉しいね!」
すると怜兄さんは理知的な美貌に女なら誰もがうっとりと見惚れるんじゃないかってぐらい極上の笑顔を俺に見せた。
なんつーか、笑顔を向ける対象を盛大に間違えている。
「ねえねえ、お兄ちゃん。私も何か奢ってあげようか?」
怜兄さんと男同士の約束すると霞澄が耳を疑うようなことを言い出した。
「霞澄……、お前どっかで変なものでも拾い食いしたか?精神に異常をきたすキノコとか。いくらなんでもおかしいぞ?」
真面目な顔をして心配したら無言で脇腹をつねられた。
納得いかねえ。
霞澄の様子は一旦は調子を取り戻したものの、時間を追うごとにどんどんおかしくなっていった。
清涼で空気のうまいハイキングコースを散歩している時も、名所と言われる荘厳な滝を見物している時も気もそぞろで、何もないところで躓いて転倒しかけるなんてことが頻繁に起きた。
そしてバーベキューの時も。
「霞澄、全然食べてねえけど体調悪いのか?」
今日一日で最低でも10回以上は繰り返した心配をする。
熾烈な肉争奪バトルを予想をしていただけに肩透かしをくらった気分である。
「全然そんなことないよ!食欲はあるし」
「そんなことあるだろ。好物のレバーちょっとしかつまんでないじゃん」
ちなみに俺は中落ちカルビ、上ロース、タンを平らげ、今は骨付きスペアリブにかぶりついている。
涼しさのおかげで夏バテもどこへやら。山の雄大な景色を臨むシチュエーションも手伝い食欲がマックスになっていた。あとやっぱ木炭の香りだな。炭自体は食えないのになぜヤツは食欲を刺激してやまないのかね。
肉食系の霞澄だって暴走してもおかしくないのに妙だ。
「お前ひょっとして夏バテか?」
「ううん、食べ過ぎるとお腹出ちゃうから。お風呂で恥ずかしいとこ見せたくないし」
「なかなか女子らしい理由だな」
風呂じゃなくてもヘソ出しルックの服着てるじゃんとはツッコまない。年頃なんだしオシャレの方が重要なんだろう。
「ま、俺は食欲のある今の内にしっかり食べて精をつけておくけどな。お前は体育会系なんだから尚更体力つけておいた方がいいと思うぞ」
この夏を乗り切るために。
「へ?えぇっ!精をつけるって!?私も!?」
特に何の意識もしていない発言に霞澄は過剰反応を示した。
驚くようなワードあったか?
「ごくり……それなら私ももう少し食べる」
「おう、食え食え。今夜の内に体力つけとかないと明日からもたないからな」
また何気なしに言うと霞澄は「今夜!?明日からもたなくなるの私!?」と叫んで、ボンッと破裂音がするんじゃないかってぐらいに顔を真っ赤にした。
俺の妹は最近面白い。
〇〇〇
私、千鳥霞澄は兄を宇宙一愛している女である。
もし宇宙の外に外宇宙があるなら外宇宙一兄を愛している。
三千世界一兄を愛している。
とにかく小学生みたいな屁理屈を持ち出さずにいられないほど兄が好きだ。
兄と恋仲になるためであれば実の兄妹という険しいハードルだって越えてみせる。
恋敵が抜け駆けしようものなら全力で阻止するし、別の障害が立ちふさがるなら全力で排除する。
パパに軽蔑すべき甘えた声でみっともなくおねだりして旅行費を供出させたのも全ては恋を成就させるためだ。
兄の寵愛を得られるならプライドなんてくだらないもの犬に食わせてしまえばいい。
しかし、私はプライドと一緒に羞恥心まで誤って捨ててしまったらしい。
少々先走りすぎてしまったことを後悔している。
私が昼前に予約した温泉の家族風呂。
その時間が迫ってくるのと同時に私の心臓は例えようもない強烈な動悸を打ち始めたのだ。
おかげでせっかくの兄との旅行だというのに緊張でまともに頭が回らず、挙動不審な態度を見せてしまい、無用な心配をかけさせてしまった。
兄からの心配は申し訳ないと思う気持ちをかきたてられる反面、甘露でもあった。
何度も私を気遣ってくれる兄の優しさを受け入れるたび、激しいだけの動悸に甘く心地よいアクセントが加わるのである。
心臓にかかる負担は鞭だけど、時折与えられる飴によって私は混乱し、もうなんだかわけのわからないことになっている。
「落ち着け私……!お兄ちゃんと一緒にお風呂に入るなんて何十回としてきたじゃない!ここ数年は入ってないけどきっと大丈夫!」
全然大丈夫じゃない。
男らしく成長してきた兄の裸を見たら、兄に女らしく成長してきた自分の裸を見せたら、私はその場で目を回して卒倒する自信がある。
よしんば耐えられたとしても釣りの時みたいに後ろから抱きすくめられたら天にも昇る心地とともに実際に昇天してしまうだろう。
それほどまでに男女二人きりの温泉は危険。
兄と過ごすエデンの園は至上の快楽を約束してくれるが、同時に私の血圧にとっては命を脅かす煉獄であると頭の中で警鐘が鳴り響いている。
かといって予約をばっくれる気は起きなかった。
この身にいかなる災厄が降りかかろうとも私は恋路を突き進むのみだからだ。
私は決意を固め、兄のいるベッドルームに入る。
コテージは一軒につき宿泊できるのは2名まで。
恋敵は隣のコテージに一人で泊っているので、万が一私が兄と男女の関係になろうとしたとしても邪魔は一切入らない。
食休みでベッドに寝転がって携帯ゲームをしている兄の姿を視界に収める。
画面では美少年のキャラクターが白い歯をキラリと光らせてモンスター相手に華麗な剣さばきをみせている。美少年は熱帯植物男子の【キリカ】だ。兄は【キリカ】の毒牙にかかってしまったらしい。おのれゲームのキャラクターの分際でお兄ちゃんに手を出すなんて!
お兄ちゃんの尻軽……!嫉妬にふつふつと怒りがこみ上げるが愛しさは失わない。
私は3代目を襲名したフランスの大怪盗のごとく兄の上にダイブしたい衝動を堪え、声をかける。
「お、お兄ちゃん、そろ、そろそろお風呂入りにいかない?」
ガチガチに緊張し過ぎて声が震えてしまった。
「おう。それなら怜兄さん誘わないとな」
のほほんとした兄のセリフに心臓が凍る。兄にには私より友情を優先して欲しくなかった。
だから、
「怜士は先に入ってきたんだって」
と私は咄嗟に嘘をついた。汚い女だと自己嫌悪に陥るが、卑怯者になってでも欲望を満たしたかった。
「なんだそうなのか。なら一緒に行くか」
特に疑いもせず兄はベッドから降りる。
兄を騙したことに胸がちくりと痛むが強引に無視をした。
コテージを出て兄と並んで歩く。
家族風呂に入ろうとこの場で切り出さなければならないのだけど、その一言を言うのがとてつもなく難しい。
『愛してる』の短い一言すら言えないのだから当然と言えば当然だ。
会話すら持てず番台の前まで来てしまう。
ここで止めなければ。
私はポケットの中の入浴券を探る兄の手を強く握った。
「ちょっと待って!お兄ちゃん!」
「霞澄?」
これから別行動だというのに制止されて怪訝な顔をする兄。
「えっとね……その……私と…………………………」
全力でマラソンをした後みたいに息が上がって思考力が減退してしまい、繰り出すべき言葉を発音できない。
悪戯の仮面で偽った誘惑をするのは平気なのに、それ以上が踏み出せない。
日頃高飛車な妹を演じて兄に意気地なしとかヘタレとか貶しておきながら私も同類。いや、それ以下だ。
「私と………………」
目を伏せて黙りこくってしまう。
「どうしたんだ?タオルでも忘れたのか?コテージの鍵はお前が持ってるだろ?」
私の身を案じた兄が顔を覗きこんでくる。
その目は優しい。どんなお願いをしても受け入れてくれそうな慈悲深い色がある。
でも私は言い出せない。
言い出す勇気が決定的に足りない。
拒否されることが怖くて。
だから『お兄ちゃんから誘ってくれないかな』と虫のいい妄想を目で訴えることしかできなかった。
「忘れ物はしてない」
優しい気遣いに対してぶっきらぼうに返す私。
兄は困ったような表情で頭をかくとアプローチを変えた。
「じゃあなんなんだ?言っとくが俺はマジに金持ってないからな。何にも奢れねえぞ。むしろ金貸してくれ。無利子で。風呂上がりにコーヒー牛乳飲みてえ」
見当違いな方向に兄は警戒を強める。
私がこれまでにしてきた行いが私自身の首を絞めていた。
お金で解決できるならこんなに楽な話はない。
コーヒー牛乳の見返りを約束して家族風呂に誘うべきだろうか。
いやいや、誘うという行為自体につまずいているのに交渉の流れを考えてどうする。
鈍い思考を必死に巡らせていると救いの神は意外なところから現れた。
「あの、何かお困りですか?」
番台にいる二十代前半と思しき女性スタッフが親切心から声をかけてきた。
家族風呂の予約をした時と同じスタッフだ。
私の顔を見てはっと思い出したように手を打つ。
「あ、ご兄妹でご予約いただいてる千鳥様ですよね!準備の方できていますよ!」
勇気のない私に代わって話を進めてくれた。
このお姉さんに無上の感謝を捧げたい。
「ん?予約って何のことだ?」
兄が困惑した様子で交互に私とお姉さんを見る。
私はこの隙に一気に攻勢出るべきだと短くも充実した剣道の経験から判断した。
お姉さんが作ってくれたきっかけ。絶対に無駄にはしない!
ふっきれた私はお腹の底に力を入れて声を出す。
「お兄ちゃん!一緒にお風呂入ろ♪」
お姉さんに予約券を握らせて兄の二の腕に自分の腕を絡ませる。
定期的なベンチプレスで鍛え上げた腕力を駆使しして逃がさないようにがっちりと固めた。
ついでに胸も押し付けて抵抗する気力を削ぐ。
それでも逃れようともがくお兄ちゃん。
可愛い♪
「うおぉぉい!!どこに連れていくつもりだ!?」
私は答えずに兄を連行して家族風呂の暖簾をくぐる。
勢いに任せた高揚感で弱気な私はどこかに消え失せていた。
尻込みしていたのが馬鹿みたいだ。
「なんだよ……。予約って家族風呂のことか」
脱衣室に入ってから拘束を解くと兄は嘆息して言った。
「久しぶりに一緒に入ろうよ」
「お前なあ……。俺達もう中学生だぞ」
「たまにはいいじゃない。旅の恥はかきすてって言うでしょ」
たまにで満足できるわけがないけど。
本音を言うなら毎日一緒に入りたい。
「お前見た目はちゃんと成長してんのに子供っぽいよな」
「中学生なんて小学生に毛が生えたようなもんでしょ。大して変わらないわ」
「言い得て妙なこと言うんじゃない。恥じらいってもんはないのか」
「別に兄妹だから遠慮することないと思うけど」
「親しき中にもってのがあるだろうが。まあいいや。不毛な会話はよすか……。ほら、さっさと脱いでさっさと入るぞ」
やれやれだぜといった表情で服を脱ぎ始める兄。
Tシャツを脱いだ兄の上半身に私は釘付けになる。
お風呂上りに腰にタオル一枚でうろつくことの多い兄だけど、間近で観察する機会は滅多になかった。
気付かれないように盗み見するのがせいぜいだった。
お兄ちゃんのカラダ。意外に引き締まってて、なんというか、エロティック。
ダビデ像とまではいかないけれど彫りこまれた彫刻のような胸筋に割れたお腹。
顔は地味なのに脱いだらすごいってギャップがたまらなくそそる。
「何見てんだよ。家族風呂は時間制限があるもんだから急がないといけないだろ。お前も早く脱げ」
『お前も早く脱げ』
命令系の言葉に心臓が飛び出すんじゃないかというぐらい跳ねた。
一方的な片思いなだけに、兄から求められるというシチュエーションを熱望していた私にとってそれは破壊力が強すぎる。
私は従順な人妻のように服を脱いでいった。
裸になった私は兄の後ろについていって少し離れた場所に腰かけて無言で体を洗う。
洗髪で目を閉じている兄のカラダを私は横目でちらちらと盗み見た。
その行為を自覚して溜息をつく。
これじゃ私に不快な視線をよこしてくる男子と同次元だ。
ちょっとだけ反省して私も髪を洗う。
身体も隈なく洗い終えたらいよいよ湯船に。
枯山水をイメージした風情ある広い岩風呂が目の前に広がっている。
兄は気を遣ってくれているのだろう。私のことは見ずに先に湯船に浸かった。
一瞬目に映った形のいい兄のお尻を目に焼きつけておく。
ここまで一緒になれば私の胆はずいぶんと豪胆になっていた。
身体の前面を隠していたタオルをはらりと捨て、(見てはくれないだろうけど)見せつけるように堂々と隣に腰を下ろす。
兄の肩に自分の肩をぴったり密着させた。
まるで恋人同士だ。
このまま時が止まってしまえばいいのにと陳腐なことを考える。
「あー、しみるわー。足をのばせる風呂最高ー」
「そうね。最高」
私と兄では最高の意味合いに齟齬があるのは残念。
いつか同じに気持ちにさせたい。
「なんか体が溶けそうってぐらいすげー癒される。ここの湯ってどんな効能があるんだ?」
兄が首を動かして泉質を紹介する看板を読む。
「美容効果・神経痛・筋肉・関節痛・うちみ・くじき・冷え性・疲労回復・皮膚病・リウマチ・喘息……。何でもござれだな」
ついでに子宝の湯とも表記されている。
いずれ兄の子を産むためにもしっかり浸かっておかなければ。
「後は歴史みたいなのが書いてあるな。神籬……。読めねえ。なんとかのミコトって女神がとんでもない醜女で旦那に嫌われてて、この山の湯に浸かったところ、他の神々が振り向かざるを得ない美しさを誇る女神に生まれ変わったってある」
「そのなんとかのミコトって女神様に続いて入った人もみんな美人になったそうね。そのお湯のおかげでこの付近には美人が多いんだって」
「よくある神話だな。ま、お前はそれ以上美人になりようがないだろ」
遠回しに容姿を褒められた。
とても嬉しい。しかしどういうわけか相槌を打った声は女の私より高くて違和感を感じた。
疑問と共に隣を見ると間抜けな声が漏れる。
「…………ぇ?」
息をするのも忘れ、口を半開きにして我が目を疑った。
隣にいるはずの兄は――兄じゃなかった。
何を言ってるかわからないと思うけど、私も何を言っているかわからない。
私が肩を寄せていたのは、女神と表現にするには幼すぎるものの、神々しいまでの美しさをもつ幻想世界の美少女だった。
背丈は私より低いけれど年は私と同じか少し上くらい。
湯に濡れた銀糸の髪は星空から降り注ぐ月の光を受けて淡く輝いている。
髪の隙間からは少し尖った耳がぴょこんと可愛らしく覗いていて愛らしい。
あどけなさを残す小さな顔には黄金色に透き通る宝石の瞳が。
その宝石は虹彩を万華鏡のように散りばめて私の心の奥まで見通すかのごとくじっと見つめてきた。
少女は薄いピンク色の可憐な唇を動かして、親しみのこもった口調で、私の知るイントネーションで、耳を優しく撫でる鈴の音色のような声で、私の名前を呼ぶ。
「霞澄、どうしたんだよ。お化けでも見たような顔して」
「嘘……!?あなた誰!?」
まさに今お化けを私は見ている。どうやって兄と入れ替わったのか。
現実離れして美しい少女に動揺する。
「はあ?お前何いきなり記憶喪失してんの?」
女の子は私が愛している人と同じ表情をつくって呆れる。
それによってこの子の正体に心当たりがついてしまうのだけど、あまりに非現実的だった。
少女が非現実なら、状況もまた非現実。
お湯に入ったら女の子になる存在なんて私の知る限り創作物の中にしかない。
しかし、おそらく湯が原因でこの女の子が現れた。神話の神が浸かったと言われる眉唾物の湯によって。
幻覚か夢か、どちらでもいい。私は正気を失ってあり得ないものと対面している。
私はらしくもなく声を荒げた。
「誰よあなた!お兄ちゃんはどこ!?」
「ふざけんのもいい加減にしろ。兄貴の顔を忘れるやつがあるか」
怒声を上げられてお兄ちゃんらしき女の子も怒る。憤慨した表情ですらとてもキュートだった。黙っていればおとなしそうな楚々とした美少女だけど、表情が豊かだ。
この女の子に魅力的でない表情など一つとしてない。喧嘩しながらそう確信できるくらい私の心を捕らえて離さなかった。
「嘘よこんなの。自分の身体を見ておかしいと思わないの?」
そう指摘するが女の子は自分の身体を見下ろして、男性にはない仄かに膨らんだ柔らかな乳房を見ても平然としたものだった。
「別にいつもの俺じゃん」
女の子の目には何の違和感にも映ってないようだ。
「そんな!?私のお兄ちゃんは……」
「落ち着けよ霞澄。いきなり興奮すんな。ちゃんと一から説明しろ」
女の子に肩を揺すられて私は息を整える。
「お兄ちゃんが女の子に見えるんだけど」
「は?すまん、もう一回言ってくれ。ワンモアプリーズ」
「お兄ちゃんが女の子に見える」
「そんなわけがあるか。この腕、この胸板。どこもぷにっとしてないぞ」
兄には元の身体に見えているらしい。
「触ってみろよ」
女の子が腕を差し出した。
私は恐る恐るその腕に触れてみる。
きめ細かくすべすべで瑞々しいハリのある肌だった。
少なくとも男の手触りではない。
私は確証を得るため胸板にも手を伸ばした。
ふにゅ。
小ぶりながらももちもちとしたはずむような弾力がかえってくる。
私のよりずっと小さいけど触り心地は遥かに上回っていた。しっとりと指に吸いついてくる。
女の子の胸を揉んでみたいなんて思ったことはないけど、これは癖になりそう。
「うおぉぉぉぉい!!なんばしよっとか!」
女の子は赤面して腕をクロスさせ、胸を隠した。
フーッ!フーッ!と怒った子猫のようにうなり声を上げている。
かわいい。
「お兄ちゃんごめん」
「減るもんじゃないからいいけどよ。幻覚は治ったか?」
『それともやっぱり拾い食いした謎のキノコに原因が……』と呟く兄。変なキノコなんて食べてないからそれだけは決してあり得ない。
「治ってない。触った感触も女の子だった」
「そっか」
「どうしよう私。おかしくなっちゃったのかな……」
突然起きたファンタジーな現象に消沈する。
いくらかわいいと言ってもお兄ちゃんが女の子になってしまったら、女の子にしか見えなくなってしまったら私の計画は大部分が水の泡だ。
子宝の湯のくせに私から子宝を遠ざけようとしている。
私が悲しそうにしていると、女の子は湯に浸かったまま身を寄せてきた。
そして立膝になって正面から抱きしめてくる。
「よく分からんけど、俺はお前にどう見えたって俺だぞ。核戦争が起きて頭モヒカンにしてトゲ付き肩パッドつけて改造バイクに跨ってヒャッハー!と叫んでても、宇宙の金属生命体と融合して地球征服を企む無数のメタル飛鳥になっても俺だってことは変わらないんだから安心しろ」
「何よそれ」
くすりと笑って女の子の柔らかい胸に顔を埋める。
「でも、うん。どんな風にお兄ちゃんが見えたって、お兄ちゃんは私の好きなお兄ちゃんだもんね」
女の子の心臓がトクンと跳ねて体温が上がった。
「そうだな。お前変なヤツだけど、俺だっていい妹だって思ってるからな」
女の子がそう言うと一陣の風が吹いた。
白い湯気を吹き散らし一瞬視界が真っ白に染まった。
湯気が元通りになると私を抱きとめていた女の子はおらず、見慣れた兄がその場にいる。
「あれ?お兄ちゃん?あれ?元のお兄ちゃんだ」
胸板に触れる。
硬い筋肉の感触だった。
「だから胸触んなって。俺がおかしなものに見える現象は治ったんだな?一体なんだったんだ」
「うん。ちゃんといつものお兄ちゃんに見える。あれ?あの子どんな見た目してたっけ?」
先ほどまで触れ合える距離で見つめていたのに急速に記憶から遠ざかっていく。
あの子に触れた感触まで忘れていく。
蜃気楼のように。
そんな不思議な出来事があってからおよそ二十年後。
ラメイソンの路地裏でごろつきの集団に囲まれる女の子を見かけた。
あの夏ほんのわずかだけ見た女の子と面影が重なって心が千々に乱れるような胸のざわめきを感じた。
気付けば路地に飛び込んで女の子を助け、頻繁に目で追うようになっていた。
もっとこの少女のことが知りたいと初恋めいたときめきを覚えていた。
当たり前だ。この時出会った少女も、あの夏の少女も全て私の大好きな兄だったのだから。
可愛らしい少女になった兄と恋仲になり、デート中に私はこう囁いた。
「ねえ、お兄ちゃん。私実は3回初恋をしたことがあるの」
「は?初恋は初恋だろ。1回目しかないものに2回目があるかよ」
背の高くなった私に対して小さな少女のお兄ちゃんが見上げて揚げ足をとる。
「姿が違ったから別でカウントした方がいいかなって。でも全部同じ人だったよ」




