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39話 お祭り中編 回想その1

日本で最後の夏の話となります。



 真夏の昼下がり、自室で扇風機の風を浴びながら本日のノルマである夏休みの宿題をこなす。

 夏休みの宿題をまとめてやる派か毎日コツコツ派かというと俺は中途半端な性格で、その日のノルマをなんとなく気分で決めて、やったら終わりにするというものだ。

 コンセントレーションが最高潮なときはその限りではなく、やれるだけやることにしている。

 勉強が好きでも嫌いでもない俺にとって集中力が持続する日は貴重だからな。

 毎日同じコンディションで生活できるならいいが、夜更かしする日があればそうもいかない。

 したがって日別のスケジュールなんて面倒なものは組まない。

 あれは真の自由というものを自ら牢獄に閉じこめて貶める愚かな行為だ。

 むしろ宿題をする上では逆効果であると考えている。

 自分でプレッシャーをかけてしまい、やる気が減退して結局ノルマさえ達成できないことがあるからだ。

 宿題をやる範囲なんて即興で決めてしまった方がストレスがなくて楽なのである。

 非計画的にコツコツやるこの手法は俺にあっていたのか、宿題が間に合わなかったことがない。

 気分によるムラはあるものの大体夏休み中盤までには終わってしまうことが多いな。


 ――よし、あと1ページやったら終わりにすっか。

 普段よりノルマを少なめに設定する。

 昨日は夏休みの納期に間に合わせるため実質未完成のバグだらけでネットでは炎上しているクソゲーを夜遅くまでやっていて寝不足だ。

 どこか面白い点は探せないものだろうかと粘ったが時間の無駄であった。

 有名タイトルのナンバリング作品という付加価値に騙されて購入してしまったこの怒り、ふて寝でもしなければやっていられない。

 そんなわけで午後の予定は昼寝に決定……

 ん?携帯のバイブレーションが着信で動作している。

 通話画面の相手を確認するとクラスでよくつるんでいる友人の名前が表示されていた。


「よーう、千鳥。今暇か?暇に決まってるよな。彼女いねえもんなァ」


 開口一番煽りである。

 彼女いない歴=年齢なのはお互い様だろうが。


「うっせ、余計なお世話だ。

 生憎とこれから昼寝するので極めて多忙だ。

 あのクソゲー絶対に許さねえ」


「お、おう買ったのかアレ……

 レビューぐらい見てから買えよ。

 それより今日は夏祭りの日だろ。

 夕方からナンパ行くぞナンパ。英語で言うとマンハント。

 田中と唐沢は誘っといた」


 狩猟成功率0%の童貞が何をおっしゃるやら。

 数を揃えりゃいいもんでもなし。

 速攻で撃退されてクエストリタイアがオチだろうに。

 俺は先日妹とそのお友達にうっかりやらかして以降後悔で悶えたくなるほどなのだ。

 これ以上黒歴史を重ねていきたくはない。

 しかし、来る日も来る日もソーメンを食わされてきた胃はジャンクフードを欲している。

 祭りの空気を肌で感じ、浴衣の女性たちを目で楽しみながら食す焼きそばやたこ焼きはきっと格別な味わいだろう。


「祭りに行くのはいいが、ナンパはやらねーぞ。お前と田中と唐沢だけでやっとけ。

 尽忠報国、総員玉砕せよ」


 今の俺は食欲の方が色欲に勝る。

 彼女はいつでも募集中だけどな。


「玉砕前提かよ!?少しは希望もとうぜ!?

 まあ、前の時ボロクソに言われたじゃん?

 一度だけ特攻して失敗したら諦めるわ」


「それがいい。

 何時に集合するんだ?」


「5時に駅前な」


「オッケー。んじゃ時間まで寝るわ。おやすみ」


 通話を切って俺はベッドに横になった。

 扇風機は眠ったままで1カ所に浴び続けていると風邪をひくらしいので首振りモードにしておく。

 目覚まし時計のアラームをセットして目を閉じる。


 ――そういや夏祭りって毎年妹と一緒に出掛けていたな。

 小学4年の頃だったか、兄貴風を吹かしたくて連れて行ってやったら思いのほか好評だった。

 それ以降は妹にせがまれて行っていたのだが。

 霞澄のやつはおねだり上手で祭りのたびに財布の中身がマッハで消耗していくんだよなあ。

 あいつも中学生になったんだ。

 兄妹で祭りに行くのは気恥ずかしかろう。

 思春期に入ってから俺にやたらと鋭角的な態度を示すようになったから一緒に行ってもケンカになるだけかもしれん。

 例のナンパ失敗事件以降は別人のように軟化してきているから大丈夫だとは思うが、移ろいやすいあいつの機嫌をうかがうのは面倒だなぁ。


 ならば今年からは別行動だ。

 俺には俺の、霞澄には霞澄の交友関係がある。

 お互いの予定などいちいち確かめていない。

 霞澄みたいな美人は引く手あまただからな。

 友達か、彼氏でも作って祭りに行くんじゃないかな?

 もし彼氏がいるようなら……ククク、ご愁傷様。

 破産という名の劇毒に身を冒されることになるだろう。

 救いはない。


 しっかし、なんだ暑いな。

 扇風機の風が弱くなってねーか。

 弱にしてるが、弱すぎるっていうか、風の当たる面積が狭くなってるぞ。

 もしかして故障か?

 それはまずい。

 部屋にエアコンはあるが、オカンに電気代は節約しろとうるさく言われている。

 省エネで家計負担の小さい扇風機は看過していただいているのだ。

 これなしに俺は夏を越せる自信がない。

 直せるとは思えないが、見るだけ見てみるか。


 閉じていた目を開けた瞬間、視界を埋め尽くしたのは見慣れた顔であった。

 妹、霞澄の顔である。


「っ!?」


 びっくりした!

 いつの間に部屋に入ってきたんだよ。

 忍者かアサシンか!?

 とりあえず不法侵入は許容しよう。

 ノックをしなかった無礼も許そう。

 扇風機の故障ではないという確証を得られて安堵した。

 霞澄の体で風を遮られていただけだったのだから。

 この場で問題なのは俺の顔と霞澄の顔の彼我の距離が1センチあるかないかという点だ。


 目を閉じていて何かを我慢するように必死な表情で額と瞼を強く歪ませ、頭部全体をプルプルと震わせている。

 一体何をしに来たんだろうコイツは。

 まさか――と脳裏に閃くものがあった。


 扇風機は寝たまま風を浴び続けると低体温症になって死亡するという都市伝説を聞いたことがある。

 テレビのバラエティ番組でまったくの眉唾でせいぜい風邪をひいたり、乾燥で喉を傷めるぐらいだと、視聴者に認識を改めるよう説いていた。

 凍死するのはありえないらしい。

 何が真実であるのか医者でもない俺には分からないのだが、1つ確実なことがある。

 今の俺は健康体であるということだ。

 だが、眠っているので妹の目には生死の区別がつかないのだろう。

 つまり俺が死体かどうか呼吸で確かめているのだな。

 起きてるぞと囁くべきか、いや、これは千載一遇のチャンス。

 おどかしてやって日頃の行為に対する意趣返しとしようか。

 よし大声を出すか……ってくすぐったいな!

 垂れてきた髪の毛先が鼻先にあたる。

 鼻腔が甘く華やかなシャンプーの香りで満たされるが、それに対して数秒後にお返しできるのはくしゃみしかない。

 おいおいそれ以上震えるなよ、余計に出そうになるじゃないか。


「お兄ちゃん……」


 霞澄が肩まで震わせて小さく呟く。

 呼吸を測るよりもまずは呼びかけをするのが緊急時の救護の対応として適当である。

 順番が前後しているが非常時こそ冷静な対応が難しい。

 その状況に居合わせること自体まれだから対処として上出来な部類だろう。

 真面目に心配されてるならからかうのはよしとくか。

 なんだかんだで妹には甘いな俺。


「あー、俺は生きてるぞ霞澄」


「ふぇ!?なんで起きて!?」


 なんでって、生きてるし起きてるからな。

 というかくすぐったいから離れろよ。

 狼狽する妹の髪が激しく鼻に掻痒感を与えてくる。

 柔らかい毛先がくしゃみを促すには十分すぎた。

 あかん、噴射する。

 限界を告げるカウントダウンが秒読みに入る。

 3、2、1……


 FIRE!!


「ぶぇぇぇっくしっっっっ!!!!!!」


 親父をも凌ぐ声量、散弾銃の弾速に匹敵するであろうくしゃみが前方にぶちまけられた。

 体液のショットガンによる被害を受けるのは霞澄のよく整った顔である。

 ついでにくしゃみの運動エネルギーによって発生したリコイルを殺しきれなかった俺は、上体をベッドから反発させて決して故意ではないヘッドバッドを霞澄に炸裂させた。


「いってぇぇぇえええ!!!!」

「いったーーーーーい!!!!」


 激痛にお互いがダメージを負ったカ所をおさえて悶絶する。

 俺は体をくの字に折って。

 霞澄は床にしゃがみこんで。


「痛いし、汚いし、お兄ちゃん最低!!」


 やがて回復した霞澄は額をさすりながら罵倒を浴びせてきた。


「人が寝てんのに顔を覗き込んできたほうが悪いだろうが。

 事故率を上げたのはお前の方だろ。

 先に声をかけろよ。さては俺にイタズラをするつもりだったのか?

 だったら自業自得ってもんだ」


「イタズラじゃないもん。

 真剣に…………ス……した……かったんだもん」


 真剣に何だ?


「イタズラじゃないなら何をする気だったんだ?」


「なんだっていいでしょ!!

 そんなことよりお兄ちゃん、夕方からお祭りなんだからそのダッサいTシャツ着替えて出かける準備しておいてよね!」


「いや、俺は約束があるからな、お前も中学生なんだし今年は別行動にしないか?

 現地でばったり会ってもお互い干渉しない方向でさ」


「え……?」


 霞澄が一瞬期待を裏切られたかのような表情を見せる。

 もしかして今でも俺と祭りに行くの楽しみにしてたのか?

 なんだまだ妹らしく可愛いところあるじゃん。


「それってもしかして、彼女ができたから……とか?」


 俺の予想とは程遠い推理をおっしゃる。

 残念ながら探偵の才能はないようだ。

 だが、乗ってみるのも一興だろう。


「だったら?」


「嘘!?お兄ちゃんなんか好きになる物好きな人なんているの!?」


 最も可能性が低い推理を自分で最初に挙げておいて即否定にかかるとかいかがなものかと思うぞ妹よ。

 俺を傷つける罠だとしたら実に巧妙だ。

 罵倒し、見栄を張ったことによる自傷の追加ダメージも加えてくるとかヒドいヤツだぜ。

 実際へこむ。


「驚くのは失礼じゃね!?

 実際彼女はいないけどな。冗談だ冗談」


「よかった。あ、そうじゃなくてね。

 お兄ちゃんに付き合って不幸になる女の子がいなくてよかったって意味でね」


「そうかよ……。

 ともかく今回はクラスの野郎どもと行く予定だからな。

 そっちも友達と行ってきたらどうだ?」


「友達はみんな親戚の家とか旅行でいないんだもん。

 その約束断ってよ」


「あー、なら俺らについてくるか?」


 うーん、提案しておいて思うんだが、妹は家族としてのマイナス補正がかかっていても美人だからなあ、飢えた野良犬どもに餌を差し出すようで気がひける。


「やだ。お兄ちゃんと2人の方がいい」


 そりゃそうか。

 知らない男数人がついてくるのは霞澄にとっても嫌に決まってるよな。

 どうする?

 男の友情と妹、どっちをとればいい?

 俺の基準は明確だ。

 女の子には優しくである。

 男は、どうでもいいか。


「分かった。お前と行くことにするよ」


「当然よね。可愛い子と一緒の方がお兄ちゃんも鼻が高いでしょ?」


 ソレ自分で言う?


「けど、今年は奢らないぞ」


「えっ!?」


「えっ!?」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするなよ。

 こいつ俺のことを歩く財布と思っているんじゃなかろうな。


「代わりになんでも言うことを1つ聞くからじゃダメ?」


「話を聞くだけで終わらなけりゃな。

 仮に認めたとしても俺の願いは決まっている。

 金返せ――だ」


「じゃあ、何か勝負をして私が勝ったら奢って」


「断る。

 俺が霞澄に要求したいことが何もない以上、勝っても得がない」


 勝った場合妹に奢らせるという選択肢はあるが、男ならばともかく女の子にそのような外道を働く趣味はない。


「意気地なし、ヘタレ、童貞、ナンパ震え小鹿。

 挑まれた勝負から逃げるなんて本当に男なの?

 しかも年下の女の子から。

 下の小さなお稲荷さんいつかなくっちゃうんじゃない?」


「なんだと!?」


 その暴言聞き捨てならんな。

 ヘタレで童貞なのは認めるが、男という点まで否定されては引き下がれぬ。

 あと俺のお稲荷さんは大器晩成型だ。

 どこにも行ったりしないし、いずれビッグボーイとなってくれるはずだ。


「安い挑発だが乗ってやろう。

 お前が勝ったら金がなくなるまでいくらでも奢ってやる。

 負けた時は相応の報いがあるものと知るがいい。

 で、勝負の内容はどうする?」


 霞澄は少し考え込むような仕草をすると俺の部屋の中を見回した。

 すぐに興味の対象を発見する。


「じゃあコレ」


 妹が選んだのは部屋の隅でホコリをかぶっていたスポーツチャンバラの剣であった。

 昔商店街の福引で当てて遊ぶことなく放置していた景品だ。

 柔らかい素材でできており全力で叩いたとしても万が一にもケガをすることはない。


「スポチャンか。

 でもお前剣道部じゃん。

 俺、不利じゃね?

 平等なゲームでけりをつけるべきだろ」


 妹は中学から剣道部に所属している。

 初心者であるにも関わらず、小学校からの経験者にも勝つほどの才能があり、めきめきと腕を上げているんだそうな。


「クスクス、お兄ちゃんが妹を恐れるなんて情けないと思わないの?」


「前言撤回、全力でぶっ潰す」


 我ながら単細胞だなと心のどこかで呆れつつ勝負を受諾した。



 ――――


 昼過ぎ、真夏の太陽はいずれ夕日に変化するために傾き始めているが、いまだ絶好調だと主張して光と熱をまき散らし、その熱量に後押しされた蝉たちが子孫繁栄を願う歌声を共鳴室の耐久力の許す限り騒々しく響かせる。


 庭に出た俺たちは互いの剣が届かぬ間合いをとって対峙する。

 距離にして3m程になるか。

 得物の刃渡りは60センチ弱、腕の長さを含めても斬り結ぶには到底足りぬ。


「どこに当たっても1本とったとみなすことにするけどいい?」


「ああ、ただしかすっただけで勝利を主張するのはなしにしよう。

 確実に先に命中させたと判断できる場合に勝ちだ」


「引き分けとどっちが早かったかもめるような曖昧な勝ちは私が認めない。

 その時は仕切り直しで。

 誰が見ても優劣のつく結果にしましょ。

 今宵お兄ちゃんの首級を肴に美味しいラムネが飲めそうね」


「ぬかせ!では、参る」


 俺はまず剣を正眼に構えた。

 対応力において汎用性の高い王道の型。

 絶対に敗北の許されない戦いだ。

 剣術の経験値で圧倒的に劣る俺が勝つには相手の動向を知らなければ戦いようがない。

 故に相手の足運び、構え、目線に注視して行動を予測する。


 霞澄は剣を肩へ担ぐように構えた。

 上段、敵を切り伏せる剣形である。

 俺との体格差、リーチを埋めるための構。

 泰然とした足腰の落ち着きようは実戦慣れしていて、身長の違いを感じさせない大きさを伴っていた。


「ぐっ……!」


 構えられただけで圧迫され、無意識に後ずさる。

 霞澄の意図するところは明らかであるというのに。

 狙いは俺の首元、真剣であれば確実に急所となる部位である。

 どこに当てても勝ちだと言ったが、勝負の後の物言いの余地を徹底的に奪うつもりか。

 その剣が傲慢ではないのは確固とした実力に裏打ちされているためであろう。

 斬りかかる隙を与えぬよう、軸をずらしながら歩を旋回させていく。

 日の光が背中に当たる位置に。

 陽光によって相手の目を奪った瞬間に攻め込み、空いた胴に刺突するのだ。

 かつて鑑賞したマカロニウエスタンの映画で悪役が主人公との決闘で利用した戦術である。

 シチュエーションは若干異なる。

 相手の視界を奪う手段は俺のしている立ち位置の変更ではなく、朝日が昇る瞬間を利用したものだったが、お互いの武器は攻撃を目で捕捉できない銃ではなく剣だ。

 移動して有利な盤面を形成するだけの余裕はある。

 卑怯ではあるが、環境をも利用しなければ技量負けする俺に勝機はない。


「!?」


 不動の姿勢であった霞澄が動く。

 俺とは逆方向に旋回して。

 作戦が看破されたか!?

 霞澄の唇が笑みの形に歪んだ。

 子供騙しの一手だと嘲笑されているようであった。


 相対の状況が元に戻る。

 霞澄は依然として剣を八相のまま維持している。

 こちらの有効打をも読まれているのだろうか。

 ならば上段は誘いをかけるためのフェイクか。


 例え罠であっても先手をとり射程距離の優越を生かして刺突にて攻めた場合は間違いなく有利だ。

 振り被りの手間が必要な斬撃は大きな隙を生む。

 次手の間隔の短い突きこそが安全性の高い攻撃。

 まさか、これを破る手があいつにあるというのか?

 突きによって反撃されるリスクを軽減しても危惧しなければならないのは懐に入られること。

 得物を用いての戦いにおいて体躯の大きさで勝る者が小柄な者にインファイトに持ち込まれるのは著しく不利であることは自明の理。

 俺は霞澄の運動能力、敏捷性の限界を知らない。

 攻めをかわされたら次はあるか?

 不明である。

 迂闊に動けなくなってしまった。


 霞澄は歩を進めた。


「……っ……」


 間合いを詰められる。

 明確な攻勢の意思。

 前進されたというだけで恐怖にアドレナリンが分泌されて心臓が早鐘を打ち始めた。

 迎撃の手段を用意しておかなければ、対応を誤り敗北は必至。

 かといってイチかバチか勢いに任せた猪突を仕掛ければ返し技の一刀にて死に体となるであろう。


 後退する、か?

 膠着状態を維持し続ければ、有利にはならずとも勝ち筋を発見するための時間稼ぎはできる。

 いや、駄目だ。

 下がれば、こちらの攻めに精彩を欠く。

 加えて霞澄の打ち込みに対する防御に踏ん張りがきかない。

 俺が退こうとするたびに攻めの好機と捉えて食らいついてくるだろう。

 進んだということは霞澄は逃げる相手を狩る手段を持ち合わせていると考えておいた方がいい。

 距離をとろうとする行為は徒に死期を早めるだけだ。

 ……逃げ場は最初からなかった。


 暑さと鼓膜を刺激する騒音が、霞澄のプレッシャーと相まって体力と気力を削っていく。

 頭皮から発生した汗がこめかみを伝って目にしみて顔をしかめる。

 心理的優位にある霞澄の表情は涼しいものだ。

 気力の消耗戦において時間は相手に味方にしている。


「うう……」


 苦悶の声が漏れる。

 持久戦は挑んではいけない。

 勝算を得られぬまま待っても、思考放棄して動いても訪れるのは敗北。

 一太刀も交えていないにも関わらず有効な戦術を見出すことができない。

 間合いは徐々に狭まっていく。

 時ともに俺が闇雲に攻撃する以外の選択肢を失っていってしまう。

 ならば――短期決戦に賭けてかき集められる限り全ての集中力を注ぐより他に手はない。

 霞澄の動きを細部まで観察するのだ。

 膂力とリーチの面ではこちらが勝っている。

 ならば、相手の斬撃の瞬間、その軌跡を追って得物を力任せに弾き、一撃を入れることができれば……


 不可能だ。

 脳内実験の結果、反応に間に合わず無残に斬られる自分の姿を幻視する。

 パリイングは達人の領域。

 命運を預けるには分の悪すぎる賭けだ。

 想像力が負の面に働いた。

 極度の緊張で血流が乱れ、動揺に剣を落としそうになる。

 注意力が散漫になり、意識が現実から逸らされて浮遊感を覚える。

 今俺の内心が表面化すれば致命的な隙を晒すことになるだろう。

 霞澄にとっては待望の瞬間である。

 駄目だ駄目だ!

 消失しようとする感覚を失わせまいと心の中で叱咤する。

 剣を落としていないか、確認したがる眼球を強引に目前の霞澄に固定する。


 霞澄がにじり寄る。

 牛歩のごとき歩みだが、いずれこちらを必殺するための布石であるとすればおぞましくあった。


 負ける。

 俺は全財産を奪われてしまうのか。

 否、負けてはいけない、負けられない。

 充実した夏休みを過ごしたいのだ。

 それにはどうしても金が要る。

 もし何らかの偶然で彼女ができようものなら金がなくては困るではないか。

 使うかもしれないデート費用を妹に浪費されるなどあってはならない。

 奪われることは悪なのだ。

 勝ち目が薄いからといって守ることを放棄してなるものか。


 俺は、俺の欲望を信じる!


 剣を握る手に力が戻る。

 断片化してホワイトアウトしかかっていた意識が再構築されて甦り、呼吸と心音の間隔が正常な状態に回帰する。


「お兄ちゃん」


 俺の変化を嗅ぎとったのか霞澄の放つ気迫が厳しさを増す。

 気圧されぬよう俺も構えに力を込めて。

 霞澄同様、上段八相へ。

 小細工を弄していた自身の思考回路が恥ずかしくなる。

 差し違える覚悟で挑むべきだったのだ。

 非殺傷の武器であっても、失うものがある以上これは正しく死合いである。

 俺の攻め手は決定した。

 霞澄と同じ構えだが、斬り下ろしの軌道から刃を寝かせて真横へ薙ぐつもりである。

 俺が一方的に攻撃可能な射程に到達した瞬間に全身全霊をもって成す。

 単なる斬り下ろしでは半身を傾けるだけで回避されかねない。

 横からの斬撃は剣速に欠けるのが難点ではあるが、防御手段がしゃがむか後ろに退くか、剣で受けるしかなくなる。

 しゃがむという選択は大きな隙を生むため論外。

 よって対手に2択を強要させることができる。

 霞澄が退けば、こちらは前進の勢力をもって攻守の関係に逆転が叶う。

 剣で受ける方を選べば、力押しでねじ伏せられる。


 光明が差した心持である。

 とはいえ勝負が決する前に安堵の吐息を漏らすわけにはいかないが。


 じりじりと蚯蚓が這うようにサンダルの底を擦って進む。

 逃げ腰だった俺から接近されたことに霞澄の歩みが慎重さを増す。


「…………」


「…………」


 一足一刀の射程に到達した。

 俺の領域。

 すかさず剣を振り被る。

 その一瞬に霞澄も同様に動いた。

 霞澄は敵を切り伏せる雷刀、立ち会いの最初から変わらぬ太刀筋である。

 踏み込みは紫電の如き鋭さ。

 俺の剣が間に合うか、霞澄の踏み込みに抜かれるか。

 いずれの心を支配する意思は乾坤一擲。己の技に運命を委ねる。



 2人の体が陽光を背に交差した。











 ――――


「お兄ちゃんかき氷買ってきて、私イチゴ味ね」


「あいよー、お姫様」


 浴衣姿で上機嫌な妹に命令され手近な屋台に向かう。

 店のおっちゃんに硬貨を渡して一人分のかき氷を受け取ってくる。

 使いっぱしりをさせられていることからも明らかなように、俺は敗北した。

 霞澄は俺の横薙ぎよりも素早く懐に潜り込み、快音をもって額を打ち付けたのである。

 この結果に文句のつけようもなかった。

 いつかリベンジしてやることにしよう。


「ほらよ」


「ご苦労様」


 霞澄は嬉々としてスプーンを口に運んだ。

 搾取される側だというのに妹の喜ぶ姿には充足感を得る。

 その姿が見たくて俺は最初の時霞澄を誘ったんだなと思い出していた。


「お兄ちゃん、はいあーん」


「なんだよ?」


「だからあーん」


「あん?」


 カップルの真似事的なあーんに付き合えと?

 くれるっていうんならもらうけどな。

 俺の金だけど。

 それにしてもうちの妹は回し飲みとか気にしないな。

 俺の使ってた箸とかスプーンとか平気で勝手に使うし、マッサージなんかのスキンシップもやらされる。

 女ってのは年頃になると家族の男を本能的に嫌うようになるんじゃなかったか。

 定番のパパの洗濯物と一緒に洗わないでってやつみたいに。

 小憎らしくなるぐらいの変化はあったけど、匙加減は人によりけりなのかもな。


 ためらわずスプーンに食いつき一口の冷気を堪能する。


「あー、この安っぽいシロップの味こそかき氷を食ったって実感がわくわ。

 けどこういうのは彼氏でも作ってやれよな。

 兄貴とやって何が楽しいんだよ」


「彼氏なんていらない。………………お兄ちゃんがいるし(ボソッ」


 霞澄のやつ恋愛に興味がないのか?

 はっきり断言できるぐらいに。

 理由の方はもごもごと口の中で咀嚼されてしまっていて聞き取れないんだが。

 人に言いにくい理由があるのか?

 恋愛に興味がないのではなく……

 妹よお前まさか。

 彼氏いらない=彼女ならOK?

 つまり百合ってやつなのか。お前は百合なのか?

 なんてこった。

 身内が同性愛者であることを知る日が到来することになるとは。

 親父は晩酌のたびに霞澄は嫁に行かせない、ずっと家にいてくれと懇願して妹を辟易とさせていたが、これは嫁に行く行かない以前の問題である。

 他人同士がする分には同性愛に偏見はない。

 お兄ちゃんとしては霞澄が熟考した上で決めた相手なら応援してやりたいと思う。

 いつか妹の恋愛でもめる事があれば弁護ぐらいはしてやろう。


「お兄ちゃん次は金魚すくい行こ」


 霞澄は腕を絡ませて体を密着させてきた。


「おいおい、暑いから離れろよ」


「人が多いんだからくっついてないとはぐれちゃうでしょ。

 お兄ちゃんがいなかったら誰がお金を払うの?」


「そうそう見失わねえから安心しろ。

 どこに紛れたって必ず探してやれるし、俺は――お前だけを見てる(混雑してる場所では)」


 霞澄ぐらい人目を引きつける美人であれば雑踏に隠れようと見つけ出すのは容易い。

 見慣れた家族の姿なら尚更。


「お兄ちゃん……嬉しい」


 感極まったように呟くと絡みつく腕にさらに力を籠めてきた。

 俺の話を理解してくれたのに離れるどころか余計にくっついてくるのは嫌がらせか!?

 天邪鬼なやつだな!

 その妹の行いのせいで周りの男どもの嫉妬光線が痛い。

 全然似てないけど俺達正真正銘血のつながった兄妹ですから!

 声を大にして言いたかったが、目立って頭のおかしい人だと思われるのも遠慮したいので己の忍耐を頼みとするしかない。


「っとこの屋台が色々種類がいていいんじゃないか?

 やってこいよ」


「お兄ちゃんは?」


「後ろで見てるよ。俺はこういうの下手くそだしな」


 霞澄の腕前を観戦すべく俺は背後に立って水槽の金魚を眺めた。

 貧弱なポイだが器用なものでほとんど紙を消耗することなく次々と金魚をカップに移していく。

 手合わせして分かったことだがこいつの集中力は大したもんだな。

 最近の天は選ばれた人に二物を与えすぎじゃないすかね。


「ほら、どう?お兄ちゃん」


「すごいな。とても俺には真似できない。

 そんなにたくさん持って帰るのか?」


「ほとんどリリースするから大丈夫」


 そう言って淀みなく金魚をキャッチしていく。

 まったく凡人にも少しは才能のお目こぼしをいただきたいもんだ……ん?


 急に背後から肩を叩かれて俺は反射的に振り向いた。

 そこにいたのは3匹の少年。

 本日俺が一緒に祭りに行く予定であったが、一身上の都合により同行をお断りしたモテない三銃士。

 その三人がおしなべて同質の邪悪な笑みをたたえているではないか。



「千鳥クゥンどういうことかなァ?」


「そうだ、これは裏切りじゃないのかね?」


「左様、我らの同盟に亀裂をもたらす行為と存ずる」


「こないだナンパした美少女じゃないのかねェ?オレは妹と祭りに行くって聞いたんだけどな?

 嘘をついて抜け駆けはよくないよなァ?」


 似ていない兄妹だからな、誤解が生じるのは当然と言えば当然か。


「待て話せば分かる」


「同じ言葉が辞世の句になった男と同じ運命に会いたいのか?」

「美少女と密着したそのけしからん腕、置いていくのが誠意と存ずる」


「説明を聞け、こいつは俺の……」


「『彼女』です。大事なデート中なので私たちは失礼しますね」


 いつの間にやら金魚すくいを終わらせていた霞澄が割り込んできた。

 そして有無を言わさず俺の腕を引っ張っていく。


 彼女って誤解を加速させてどうすんだよ!?

 普通に妹だって言えばいいじゃねぇか。

 あ、でもそうしたらこいつらに言い寄られる可能性があるのか。

 俺に対して妹を紹介しろとしつこくせがまれるかもしれん。

 あいつらに義兄さんと呼ばれるなんて吐き気がする。

 霞澄にも俺にもメリットのある選択肢だな。

 今度会った時に別れたって言っとくか。

 ショックを受けて呆然と立ち尽くす彼らを尻目に妹はずかずかと人ごみをかきわけて進んでいく。


「ちょ、霞澄引っ張るなよ!」


「何よ、お兄ちゃんのこと助けてあげたんじゃない。

 ホント男の嫉妬って見苦しい。

 女の子が認めた人を邪魔するなんて無駄だって分からないのかしら」


 そもそもお前と出かけなければ窮地に陥ることもなかったがなと言っては今握られている手首をねじり切られかねないので黙っておく。


「見苦しい男達のことなんて忘れてご飯食べて、花火見よ♪」


 彼らへの言い訳を考えると俺は胃が重たいんだがなあ。





 ――――


 俺達は腹を満たした後近所の河川敷で打ち上げられる花火が見えるポイントまで移動した。


「レジャーシート持ってきたからな。

 座っても大丈夫だぞ」


「準備がいいね」


 並んで腰かけ、花火の打ち上がっていない夜空を眺める。


「お前少しでもいい浴衣を買うのに小遣いほとんど使ったんじゃないか?

 汚れたら勿体ない。

 せっかくよく似合ってるんだからな」


「お兄ちゃん……」


 何を思ったか霞澄は俺の手の甲に掌を重ねてきた。

 本日の妹君はずいぶんベタベタと接触してくるな。

 無垢なお兄ちゃん子だった幼い頃に戻ったかのようだ。


「ねえ、来年も再来年も一緒にお祭り行こうね」


「来年は受験生だからなぁ……どうかなぁ……」


「偏差値を問わなければ高校なんていくらでもあるじゃない。

 どうしても行きたいところがあるの?」


「進路は決まってないけど、親のすねをかじってる身なんだからある程度は頑張らないとな」


 凡人は凡人なりの努力で得られる範囲の幸福を享受したいのだ。

 宝くじに当選とかトラックにひかれたらチート能力つきで異世界に転生のような努力がなくても手に入る類の奇跡でも起きない限り、あがき続けるしかない。


「じゃあもしお兄ちゃんが進学に失敗して将来ニートなっちゃったら私が養ってあげる。割と本気で」


「縁起でもないこと言うなよ。

 学歴が高かろうが低かろうが働くぞ俺は」


「私は主夫だって立派な仕事だと思うけど。

 ママはサボりすぎだけどね」


「ハハ、それは言えてらぁ」


 母親の家事の手抜きっぷりを笑っていると花火が上がってきた。

 夜空に広がる虹彩に魅入られる。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「私ねお兄ちゃんのこと……」


「おう」


「…………」


「…………」


「……えーとね」


「おう」


「…………」


「……そのね」


「お、おう」


 霞澄が深呼吸をして、長い吐息を吐いた。


「……ケンカが多かったけどいいお兄ちゃんだと思ってるよ!」


「そうか。俺の財政事情に気を使ってくれれば俺もいい妹だと思っているぞ」


「それだけじゃなくてね!

 …………うぅ…………勇気だせ私!」


「なあ、霞澄」


「え?」


「頼みがあるんだが」


 座り込んでからの間に切迫した事情が発生したことで眼差しに熱がこもる。

 俺の眼力に威圧されるものでもあったのか心なしか霞澄が涙目になった。

 しおらしい妹の姿なんてレアだな。

 別に過酷なことを要求するつもりはないんだが。


「いいよ、お兄ちゃんがしたいことなら何でも」


 覚悟を決めた様子の霞澄が俺の肩に体重を預けて答えた。

 本当に今日はいちいち大げさだな。

 悪いものでも食ったのか


「虫刺されの薬もってないか?

 蚊に刺されてめっちゃ痒いんだわ。

 あ、話遮って悪かったな。

 それだけじゃなくての続き何なんだ?」


「忘れたからいい。

 思い出したら言うね。…………いつかきっと」


 小物入れから出てきた薬を受け取って患部に塗ると再び空を仰ぐ。

 次の祭りも妹と楽しんでやろうと考えながら。




























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