第二十一話 嵐の前の人間模様 ③
月明けの初日は週末と重なったのだが、生憎朝から厚い雲が空を覆う小雨混じりの悪天気も相俟って、校内は何処か物憂い空気に満たされていた。
だが、そんな雰囲気とは無縁の人物も当然ながら存在している。
隣の席から漂ってくる“私幸せですオーラ”に当てられた志保は、恵比須顔で仕事を片付けている傍迷惑な腐れ縁へ文句を言った。
「ちょ、ちょっと……よほど良い事があったんだとは思うけどさ……朝っぱらから隣でニコニコ、ニコニコされたら調子が狂っちゃうわ。勘弁してよクレア」
「えっ? そんな顔をしていたかしら?」
その露骨な指摘に頬を染めたクレアは、極まり悪そうに苦笑いするしかない。
すると、如何にも呆れましたと言わんばかりに、志保は妬みと羨望が入り混じった冷やかしという名の追い打ちを掛ける。
「してた、してた! マジで鼻歌五秒前みたいな超御機嫌ルック! まぁ~ねぇ、世界がバラ色に見える気分は分かるけどさぁ……少しは自重してよ。寂しい独り者だっているんですからね」
小鼻を膨らませて文句を言う腐れ縁に、何時もならば嫌味の一つも返すのだが、そんな素振りは微塵も見せないクレアは、照れ臭そうに口元を綻ばせるのだった。
「ごめんね……実は、昨日婚姻届けを出して来たのよ」
「へっ? 結婚式はどうするつもりなのよ? まさか二度目だから式はしない……とか寂しい事は言わないわよね?」
入籍を先に済ませるのは珍しくはないが、彼女なら『わざわざ式は挙げなくてもいい』等と言い出しかねない為、志保は語気を強めて諫めたのだが……。
「そうじゃなくて……彼も私も仕事が忙しくて、暫くは纏まった時間が取れないのよ。それに達也さんが『大袈裟にする必要はないが、せめて教え子達にだけは結婚の報告ができる様、披露宴代わりにガーデンパーティー位はやりたいね』と言ってくれてね……私も大賛成だから、時間的に落ち着く夏休みに親しい人達だけ呼んで式を挙げようと思っているわ」
何の遠慮もなくテレテレの顔でそう惚気るクレア。
まさに《手の舞い足の踏む所を知らず》とはこの事かと、志保は半ば呆れるのと同時に、仄暗い苛立ちが芽生えるのを自覚せざるを得ない。
だから、野暮だとは思いつつも、気が付けば鬱憤晴らしの嫌味交じりの冷やかしが口をついて出たのだった。
「へいへい、さいですかっ! 婚姻届けも提出して晴れて夫婦になった以上、後はやりたい放題だもんね。アンタ自重する気なんてこれっぽっちもないでしょう? あぁ~~あッ! 熱い、熱いッ!」
「ちょ、ちょっと! イヤらしい言い方しないでよ! そうじゃなくてね……昨日自宅に戻って子供たちに『入籍して来たからファミリーネームが白銀になるのよ』って伝えたら、もう凄く喜んじゃって! さくらなんか保育園の備品の名前を全て書き換えて燥いでいたのよ。ユリアもティグルも喜んでくれて……あぁ本当に幸せって……志保? どうしたの?」
喜ぶ子供たちの様子を思い出しながら幸福感に浸り切っていたクレアは、腐れ縁がジト~~と目を峙てているのに気づいて小首を傾げてしまう。
その仕種さえもが癇に障るから美心という人種は始末に悪いのだ……そんな結論に達した志保は大爆発するのだった。
「結局アンタが惚気たいだけでしょ──がッ! どうせ『私も白銀クレアになれて、嬉しいっ! シ・ア・ワ・セ!』とか言う気なんでしょう!? はいはい! 本当にオ・メ・デ・ト・ウさんッ!」
投げやりな物言いで不貞腐れる志保の罵声に、怨念にも似た嫉妬が凝縮されていると悟ったクレアは、長年の経験から言い訳は無意味だと判断し、ご機嫌取りをする努力さえをも完全に放棄した。
浮かれていた自分にも多少の責任はあるのだろうが、バーサクモードを発動させた腐れ縁の相手などする気にはなれない。
それ故、そのまま微苦笑を浮かべて仕事に戻ったのである。
「無視するんじゃないわよッ! コンチクショ────ッッ!」
打ち上がった大音響に、居合わせた他の教官達が何事かと視線を投げて来たが、既に手負いの獣と化した志保の獰猛な眼光に射竦められた彼らは〝触らぬ神に祟りなし″とばかりに視線を明後日の方向へ放り投げるのだった。
◇◆◇◆◇
「アンタは本当に嫌な女だったわ……学生の頃からそうでした。いい男ランキング上位は全部アンタに告白に行って、私に群がるのはショボ~~い男子ばっかり……ああぁッ! 神様は不公平だわッ!」
既に一時間目の授業は始まっており、教官室に他の人間の姿はない。
「世の中って奴は無情よね……私のような好い女が一度も結婚できないっていうのに、アンタが二回もハッピーウェディング!? なんで? ぜぇ~~ったいにぃ、おかしいじゃないのよぉ?」
静謐な室内に志保の愚痴がダラダラと垂れ流されている。
それに付き合わざるを得ないクレアは、一時間目のコマが空いている己の不運を心の底から呪うしかなかった。
不穏な空気を察した林原学校長が顔を出したが、現状を確認した瞬間に回れ右をして学長室に戻ってしまい、それ以降扉が開く気配はない。
救援が期待できない以上、残された選択は屈辱に塗れた降伏しかないと、クレアは諦めるしかなかったのである。
理不尽だとは思いながらも、この調子であと数時間も絡まれ続けるよりはマシかと観念し、遅まきながら御機嫌取りに着手した。
「分かったわよ……私が悪う御座いました。もういい加減に機嫌を直してよ。今度美味しい物を御馳走するから」
この一言を引き出せれば駆け引きは志保の粘り勝ちなのだが、山場はこれからであり、条件交渉という難関が残っている。
譲歩を引き出した途端剣呑な雰囲気を雲散霧消させた志保は、瞳を輝かせて身を乗り出すや更なる闘争に躍起になった。
「美味い酒も付く?」
「はいはい。達也さんのコレクションなら幾ら呑んでも良いから……」
「美味しい料理と酒の肴……それと、新鮮な刺身の盛り合わせも欲しいなぁ~~」
「あなたねぇ~~~。はあっ! しょうがないわ。要求は全部呑むわよ」
その図々しさに根負けしたクレアが了承するや、志保は破顔一笑して燥いだ。
「やったぁ──ッ! 交渉成立ね! 約束破るんじゃないわよッ!」
最初から御馳走と美味い酒が目当てだったらしく、一発で機嫌を良くした腐れ縁にクレアは冷たい視線を向けて内心で呟いた。
(散々私をチョロい、チョロいと揶揄ったくせに……アンタの方が断然チョロ女だからね!)
勿論、話が纏まった現状をぶち壊すほどクレアは粗忽者ではない。
書類を片付けながら、適当に話を合わせてご機嫌取りに精をだしておく。
何だかんだと言っても、お互いに気心が知れたふたりには、この程度は罪のないやり取りの範疇に過ぎないのだから。
暫く馬鹿話をしていると、志保が急に声を改めて真面目な顔で訊ねてきた。
「やっぱり統合軍を退役して銀河連邦軍に行くつもりなの?」
そう問われたクレアは一瞬返答に詰まってしまう。
夫である白銀達也が銀河連邦軍の大尉だったのなら、何の問題もなく志保の問いに『イエス』と答えただろう。
しかし、彼は銀河連邦宇宙軍大将であり、おまけに西部方面域総司令長官という重要な役職まで担っている軍の重鎮に他ならないのだ。
そんな人間の妻である自分が軍組織の一員に収まれるのか……それは甚だ疑問だと言わざるを得ないだろう。
だが、地球統合軍に残るという選択肢も有り得ない以上、志保に変な疑念を懐かせない為にも、差し障りのない答えを返すしかなかった。
「今学期終了を以って統合軍を退役するわ。彼の任地が何処になるのかは分からないけれど……私も子供達も、彼と離れて暮らすなんて考えられないから……たとえ銀河の果てでもついて行くつもりよ」
真剣なクレアの表情から彼女の決意の固さを察した志保は、口元を綻ばせて華やいだ声を上げた。
「そっか……私達の腐れ縁コンビも目出度く解消ね。そうだ! 近い内にアイラやエレオノーラも誘って送別パーティーをやろうよ! 港湾区東の繁華街にお洒落な店があるんだ。私が御馳走するから、パァ~~っと派手に騒ぎましょう!」
殊更に明るい笑顔で燥ぐ志保に相槌を打つクレアだったが、勝ち気な彼女こそが銀河連邦軍への転籍を強く望んでいるのを知っているだけに胸中は複雑だった。
遠藤志保中尉はマスタークラスの格闘技の達人であるのと同時に、数少ないS級空間機兵の資格を持つ実戦経験者でもある。
空間機兵というのは、昔の海兵隊を発展させた部隊を構成する兵員を指し。
軍仕様の特殊なパワードスーツを纏い、宇宙要塞や惑星基地攻略を主任務にする陸・宇宙軍の精鋭中の精鋭の事である。
クレアが妊娠して産休を取っているうちに、木星近辺の暗礁宙域にあった海賊のアジトを急襲する作戦に参加したと、後日酒宴の席で志保自身から聞かされた。
海賊の殲滅には成功したものの、部隊にも多大な損害が出たのだが、彼女は負傷しながらも奮戦し、海賊の幹部を含む数人を倒した、と暗い顔で話してくれたのをクレアは覚えている。
志保が統合軍の在り方に疑問を唱え、事あるごとに不平を漏らす様になったのはその作戦の後からだ。
クレアは何度か事情を訊ねてみたのだが、その都度はぐらかされて今日に至っており、未だに彼女の真意が何処にあるのか計り兼ねてもいた。
(実戦経験のない私には、志保に何があったのかは分からない。幾ら友人とはいえ何処まで踏み込んで良いのか……近いうちに達也さんに相談してみようかしら?)
そんな事を考えているうちに一限目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
会話を打ち切ったふたりは、そそくさと担当授業の準備を始めるのだった。
◇◆◇◆◇
何事もなく四時間目の授業を終え教官室に戻って来たクレアだったが、学校長に呼び出されて、急遽別館にある来賓室を訪れていた。
本来ならば此処は軍の重鎮や政治家等を歓待する場所であるが、士官学校のそれは、せいぜい部屋の内装と供される飲み物のグレードが多少なりとも上がる程度のものに過ぎない。
それにも拘わらず、学校長直々の招集とは何事なのかとクレアは小首を傾げざるを得なかった。
来賓室の前には既に林原学校長が待機しており、彼にしては珍しくも神妙な顔つきで囁いてきた。
「急がせて悪かったね。実は来客が非常に身分の高い方々だけに、私も少々面食らっているんだ。先方は君との面談を御所望されている……何か困った事があれば、テーブル上のベルを鳴らせばいいから……それじゃぁ宜しく頼むよ」
質問する間も与えずに一方的にそう告げた学校長は、今しがた彼女が来た方向へと足早に去っていく。
状況を理解しかねて立ち尽くすクレアだったが、身分のある御方を待たせるのは不敬だと思い直し、一回だけ深呼吸してからドアを軽くノックした。
「失礼いたします。本校で教官職を拝命しております、白銀クレア中尉であります。御召しと伺い参上致しました」
「待ってたよぉ~~ん! 遠慮しないで入りたまえ」
最初は緊張で声がやや上擦ってしまったが、返って来た聞き覚えのある独特の声に思わず頬が緩んでしまう。
入室して見れば、案の定、少女然としたヒルデガルドが笑顔で出迎えてくれたのだが、彼女とは別に無駄に豪奢な応接セットのソファーに座る貴婦人の姿を認めたクレアは、万が一を考慮して失礼にならないよう模範的な敬礼をした。
だが、そんな配慮など歯牙にもかけないのが、ヒルデガルドという貴人だ。
「何を堅苦しい真似をしているんだい!? さぁ、遠慮なく入った、入った!」
「ち、ちょっと……ヒルデガルド殿下!」
せっかちなヒルデガルドらしく、畏まるクレアの手を強引に引いて貴婦人の対面のソファーに座らせるや、自分はその女性の隣に腰を落ち着ける。
何が何だか分からずに戸惑っていると、黒を基調にしたタイトなシルクドレスに、同色の総レースのケープを纏った貴婦人が相好を崩した。
「理由も説明せずに他人を振り回すのは殿下の悪い癖ですわよ? 彼女が目を白黒させていますわ」
「はんっ! その台詞を君が言うのかい、シア? それにボクとクレアくんは固い友情で結ばれた親友同士だからね、この程度は挨拶代わりのスキンシップさ」
「本当ですかぁ~~? 友情より先に食欲が勝ったの間違いではありませんの?」
「ムキィ──ッ! どうしてその事を知っているんだいッッ?」
「殿下の事ですもの……友情云々など如何にも胡散臭い……美味いものに釣られたのだと考える方が合理的ですわ」
目の前で繰り広げられる絶妙の掛け合いに、クレアは唖然とするしかない。
しかし、ヒルデガルドが貴婦人を『シア』と呼んだのに気付き、その正体に思い至った。
「失礼かと思いますが、アナスタシア・ランズベルグ様ではございませんか?」
焦っていたからか早口になってしまったが、そんな些事を気にする余裕はない。
推測が当たっていれば、この女性は達也にとって恩人の奥方に他ならず、粗略な対応をするわけにはいかないのだ。
対して正体を看破されたアナスタシアは、口元を綻ばせて華やいだ声を上げる。
「まあ!? 私の様なお婆ちゃんを知っていて貰えたなんて光栄だわ」
「とんでもございません! 貴女様のお噂は夫から聞いております……御主人様と同様に身に余る御高配を賜った御方だと……」
「あの子は律義ですからね。大切な女房殿には私の事を『鬼婆』とは説明できなかったのでしょう……でも、あの子のお嫁さんが貴女の様な素敵な方で本当に良かったわ」
ころころと愛らしく笑うアナスタシアに褒められたクレアは、緊張して顔が引き攣る思いだった。
上品で柔和な表情を浮かべているこの貴婦人は正真正銘の為政者であり、クレアの様な平民から見れば雲上人に他ならない。
ヒルデガルドとアナスタシアという貴人中の貴人を前にして、緊張するなという方が無理だろう。
とは言え、このまま和んでいたのでは埒が明かないのも事実だ。
だから、簡単な自己紹介をした後、お互いにリラックスできたと判断したヒルデガルドが早速本題を切り出したのである。
「実は君に打ち明けておかなければならない事があってね……達也からはどの程度の話を聞いているんだい?」
その素性も含めて、自分よりも達也を良く知る二人に隠し立てする必要はないだろうと考えたクレアは、本人から聞かされた全てを詳らかにした。
銀河連邦軍の大将で方面軍司令官である事。
軍内部の制度改革の為に、ラインハルトらと共闘している事。
近い内に騒乱が起きるだろうが、特に心配しなくていいと言われている事。
等を包み隠さずに説明した。
すると黙って話を聞いていたアナスタシアは、その表情に物憂げな色を滲ませて吐息を漏らす。
「達也の認識と概ね同じですわね……しかし、それでは駄目なのです……」
そしてラインハルトとエレオノーラにしたのと同じ話を、クレアに懇々と訴えたのである。
ごく一般的な平民育ちのクレアには想像するのさえ大変な内容だったが、情報の取得選択に自分の感情を持ち込まない彼女は、アナスタシアの話を冷静に分析して理解した。
「達也にとっては茨の道になるでしょう……貴女や子供達にも大きな負担を掛けてしまいます。ですが、銀河連邦に寄る全ての人々の未来の為にも誰かがやらねばならない。そして、この様な難事を成し遂げられる者は達也以外にはいないのです」
そう断言したアナスタシアは、複雑な感情を宿した視線でクレアを見たのだが、彼女は微笑みを以て頷き、その想いに賛意を示す。
「アナスタシア様とヒルデガルド殿下の御賢察の通りだと思います。巨大な組織の悪しき因習は、激しい外圧によって変革を余儀なくされるものです……それ以外で後世に称賛される改革を成し遂げた例はありませんから」
アナスタシアは表面では平静を取り繕ってはいたが、クレアに対する称賛で今にも踊り出したい気分だった。
「あの子にばかり貧乏くじを引かせて……それに今度は貴女やお子様達にまで……本当に申し訳なく思っていますよ」
「どうかお気遣いなさいませぬように。達也さんの役にたてるのならば、それだけで私も子供達も満足なのです。彼と共にある……それが私達の幸せですわ」
欠片ほどの気負いもなく自然体でそう言い切ったクレアに、アナスタシアは最後の希望を託す決心を固めた。
この難題を解決できるのは、おそらくクレアしかいない……。
そう思い定めたのである。
「最後になりますが、貴女にお願いしたい事があります……実は……」
アナスタシアが切り出した懇願の内容に、クレアは仰天して大いに狼狽したが、涙ながらに切々と訴える彼女の気持ちを無視できず、暫く考える時間を戴きたいとお願いして、取り敢えずその場で答えを出すのを避けた。
結論を先延ばしにしたこの問題が、近い未来に大きな波乱を生むのは充分に理解している。
それでも、大恩ある二人の想いを無碍にはできないと己を納得させたクレアは、両肩に圧し掛かる不安に苛まれながらも、未来を見据えて顔を上げるのだった。
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