第二十話 銀河の片隅で ④
背中を撫でる夜気の所為か、クレアは肌寒さを覚えて目を覚ました。
思い煩ってきた悩みが解決してからは、朝まで熟睡するのが当たり前になっていたからか、夜半に目覚めるのは久しぶりで戸惑わずにはいられない。
覚醒しきってはいない虚ろな意識の中、埒もない考えが浮かんでは消える。
(なぜ背中が寒いのかしら……もうすぐ六月になるというのに……あぁ……そうか私、裸だから……裸────つッ!?)
それがキーワードであったかのように一気に意識がクリアーになったクレアは、弾かれたように上半身を起こした。
そして、自分の左側に視線をやり、そこに居るべき人間を確認して安堵の吐息を漏らす。
(あっ、あぁ……良かった。夢じゃなかった。私、この人と一つになれた)
静かな寝息をたてながらも、何処か無邪気な顔をして眠っている達也を見れば、思わず口元が綻んでしまう。
何時の間にか彼の右腕を枕代わりにしていたらしく、背中に廻された手が羽毛の掛け布団を払った為に夜気が肌に触れ、目を覚ましてしまったのだと気付いた。
ほんの僅かでも離れているのが切なくて仕方がなく、再度達也に肌を密着させて寄り添ったクレアは、心地良い温もりを堪能しながら、無防備な恋人の寝顔へ自分のそれを近づけていく。
至近距離に愛しい男の顔があるのが嬉しくて堪らず、目が冴えたのを自己弁護の材料にして、飽きもせずに達也の寝顔を見続けるクレア。
(私を驚かせてばかりの悪い人……心臓が止まるかと思うほど吃驚したんですからね……本当に意地悪なんだから)
僅かばかりの憤懣と共に脳裏に蘇るのは、数時間前に告白されたばかりの驚愕の事実だった……。
◇◆◇◆◇
《六時間ほど時間を遡る・クレア宅リビング》
「ちゅ、中将で太陽系派遣艦隊司令官……って! 私を揶揄っているんですか?」
見目麗しい顔を引き攣らせたクレアは、不信感を露にした視線で目の前の恋人を睨むしかなかった。
しかし、そんな視線を向けられれば、己が極悪人になったかの様な気がするから不思議だ。
告白の内容を鑑みれば彼女の反応はごく当然のものだと言えるだろうし、それは達也も重々承知している。
(こんな非常識な話を信じろという方が無理だよな……)
遣る瀬ない思いに溜息を吐き、小型の情報端末を取り出して最終ロックを解除し、詐称されていない本来の個人データーを彼女へ差し出す。
その途端、恋人の双眸が端末の画面と自分の顔の間を何度も往復し、驚愕に彩られていく様はひどく滑稽に見えたが、それを口にするほど達也は粗忽者ではない。
だが、今のクレアにとって己がどんな表情をしているかなどは些事でしかなく、それを気遣う余裕は微塵もなかった。
(ほっ、本当の話なの? 達也さんが……中将閣下って???)
銀河連邦宇宙軍認可の階級証明は本物であり、これを見せられれば信じるしかないが、そこで更に追い打ちを掛けられたクレアは益々混乱を深くしてしまう。
「驚いている所に恐縮なんだが、来月一日を以て大将に昇進した上で、八大方面軍の一つである西部方面域の総司令官に任じられ、麾下二千隻の艦隊を指揮する事になるんだ」
この段階でクレアは思考する努力を放棄したい衝動に駆られた。
というよりも、そうしなかった自分を褒めてやりたいとさえ思ったのだ。
(まだ三十歳にもなっていない人が大将? 幾ら何でもそんな馬鹿な話がある訳がないじゃない……そっ、そうよ! きっと私を揶揄う為のジョークなんだわっ!)
目の前の現実を受け入れられないクレアは、現実逃避願望も手伝って揶揄われたのだと憤り、視線を険しくして達也を睨んでしまう。
『冗談に決まっているじゃないか!』、とか言われて、後で笑われるに違いないと気付けば、生真面目な態度を崩さない達也が腹立たしくて仕方がない。
(私は真面目に話を聞くつもりだったのにぃ~~~!)
偶には、少し本気で怒った方がいいのではないかと思った瞬間だった……。
昼間に聞いた彼の言葉が、唐突に、そして、鮮烈に脳裏に蘇ったのだ。
『もう一つは、いつ終わるとも知れない無間地獄を歩いて行く覚悟を以て、昇進を受け入れる連中……』
頭を殴られた様な衝撃に唖然とするなか改めて達也を見れば、酷く落ち着かない様子なのが一目瞭然で、いつもの自信に満ちた態度は何処にもない。
それが、達也の心情を雄弁に表しているのだと気付いたクレアは、自分が如何に浅慮だったのかを悟って愕然となった。
(あっ、あれは……自分の事を言っていた? そうよ……将官になれる程の経験と実績を積んでいれば、どんな危険な局面であっても冷静に対処できるはずだわ……そして、この人はそれが出来る人だった……)
然も、それだけの能力があるにも拘わらず、己の実績など鼻にもかけず、殊更に能力を披露して燥いだりもしない。
それが何を意味するのか、クレアは初めて思い至ったのだ。
(そうなのね……この人にとって昇進し位階を極めるのは、無間地獄に例える程に辛い事でしかないのだわ。それは命を預かる部下の数が増えていくから……多くの命と、その命に託された親しい人々の想いも背負って行かなければならないから)
背筋に冷たい怖気が走った……。
その背負うべきモノの重さを想像しただけで、込み上げて来る恐怖に身体が強張り四肢が震るえるのが分かる。
(私はこの人に何度も救けられて……愛情や優しい想いを当たり前のように受け入れてきた……でもそれは、達也さんの苦しみや葛藤を、何一つ知ろうとも分かろうともせずに、甘えていただけだったのではないかしら)
そう気づけば、激しい自責の念に苛まれ、己の浅はかさを嫌というほど思い知らされてしまう。
いっそ達也の目の前から消えてしまいたい……。
羞恥に震えそう願ってしまったが、それが不可能なのは、クレア自身が誰よりも分かっているのだ。
(そんなのできる筈がない……だって、こんなにも愛おしい気持ちが心から溢れているんですもの……)
切ない想いが弾けた瞬間、隣に座る達也の首に細腕を廻したクレアは、涙ながらにその身体を抱擁するのだった。
※※※
一方の達也は真実を伝えて一山越えたと安堵したのだが、如何にも半信半疑というクレアの表情を見て、もっと丁寧な説明が必要かと思案する。
最大の問題は、結婚を機にクレアや子供達が、テロの脅威に晒される懸念がある事だった。
因みに達也は将官に昇進した以降だけでも、大小合わせて三十以上の海賊や武装密輸ギルドを壊滅させている。
然も、これはたった二年間で成したものであり、自分の艦隊を持たない『日雇い提督』という立場では尋常ならざる戦果だと言っても過言ではなかった。
優秀な軍人は一般民衆にとっては心強い英雄であるが、裏稼業の人間にとっては厄介極まりない疫病神そのものである。
まして、英知に富み用意周到な将官ほど戦場で仕留めるのは難しい。
それならば、私的空間で暗殺を狙おうと考えるのは至極当然の帰結であり、彼ら悪党の常套手段でもあった。
その時に家族が巻き添えを食う確率は極めて高く、死亡率は言わずもがなだ。
勿論、高級士官のパーソナルデーターは秘匿されて厳重に管理されてはいるが、法外な報酬に目が眩んでデーターを漏洩させる不届きな軍人が存在するのも事実であり、漏れたデーターで引き起こされるテロ事件は後を絶たない。
どのような状況下に於いても警備には万全を期すが、それで百%の保証ができるのかと言えば、心許ないと言わざるを得ないのが現実なのだ。
このようなリスクがあると知った彼女がどう思うか……。
愛想を尽かされても不思議ではないだけに、達也は気が気ではなかった。
だが、既にクレアは自分にとって掛け替えのない存在になっている。
今更別れるという選択を許容できない以上、最悪土下座でも何でもするしかないと、そう覚悟を決めた時だった。
彼女が不意打ち同然に抱き着いて来たものだから、危うくソファーに押し倒されそうになってしまう。
その華奢な身体を支えて、辛うじて男として無様な姿は晒さずに済んだものの、抱きとめた肢体は小刻みに震えており、然も、啜り泣きまで聞こえるではないか。
何が起きたのか分からずに戸惑う達也の耳朶を、掠れたクレアの声が打った。
「ごめ……ごめんなさい……私、あなたの優しさに甘えてばかりで……」
「どっ、どうしたのさ突然? 君が謝るような事は何も……」
その否定の言葉を頭を振って押し留め、クレアは哀切に満ちた心情を吐露する。
「達也さんにとって将官である事は苦痛でしかないのでしょう? 大勢の命を背負って戦わなければならない……それがどんなに大変なことか、経験がない私にでも分かるもの……それなのに、知らなかったとはいえ、あなたには私やさくらの事で迷惑ばかりかけて……」
彼女の痛哭に頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた達也は、一瞬だが返す言葉を失ってしまう。
将官にまで上り詰めた自分を、それは立派な事だと褒めそやし、知己を得ようと鼻を鳴らして擦り寄って来る者を大勢見て来た。
そしてその度に不愉快な思いを押し殺しては、笑顔を取り繕って物分かりの良い人間を演じてきたのだ。
確かに人が位階を極めるというのは、人生の中で最も華やかで価値のあるものなのかもしれない。
しかし、軍人のそれは違うと達也は思わざるを得なかった。
(大勢の部下に『死んで来いッ!』と命令できる無慈悲な人間が、立派な筈がないじゃないか)
そんな苦悩をクレアは正しく理解した上で、まるで自分の事の様に心を痛めてくれている。
それを知った時に胸に込み上げてきた感動と歓喜は一生忘れないだろう……。
彼女に対する深い感謝と共に、達也は心の底からそう思うのだった。
「そんな事はないさ……君やさくらの事で俺が迷惑に思うなど有り得ないよ」
「それはあなたが優しいから……そして強いから言えるのよ。でも、それでは私は甘えるだけのお荷物になってしまうっ! それだけは絶対に嫌! 私は白銀達也の隣に立って支える存在になりたいの……役に立ちたいの……あなたの為に」
啜り泣きは嗚咽へと変わり、首に廻された細腕に更に力が加わる。
それが、彼女の嘘偽りのない純粋な想いの証だと達也は知った。
(何も心配する必要はなかった……この女性は誰よりも俺を理解してくれているのだから)
恋人の背中に両腕を廻し優しく抱き締めてて、達也は彼女が泣き止むのを待つ。
暫くして嗚咽も止んで身体の震えも止まったのだが、クレアは中々顔を上げようとはしない。
「もしもし、クレアさん? そろそろ顔を見せてくれないかな?」
「いやです。ひどい顔をしているもの……達也さんに見られたくない。それよりも答えを聞かせてください……私はあなたにとって必要な人間なのですか?」
この質問を達也にするのは、これが最初でそして最後だと決めた。
一度聞けたならそれで充分だし、それが叶えば後はこの男性を信じて共に歩いて行くだけだとクレアは思い定めたのである。
そして告げられた答えは、彼女が待ち望んでいたものだった。
「当たり前じゃないか。前にも言ったけれど、俺の隣に居て欲しいのは君だけだ……俺の人生に必要な女性は君以外には居ないよ……だからクレア……俺と結婚してくれないか? これからの人生を俺と一緒に歩いて欲しいんだ」
嬉しくて、嬉しくて……達也の胸に顔を埋めたまま、クレアは何度も何度も頷いて自分の気持ちを伝えたのである。
◇◆◇◆◇
今、思い出しても目頭が熱くなる……。
待ち望んでいたプロポーズをしてくれただけでなく、何時の間に用意していたのか婚約指輪までプレゼントして貰った。
子供達もいないふたりっきりの空間で、昂る気持ちのままに求められ、クレアは躊躇いもせずにそれを受け入れたのだ。
この夜、達也とクレアは初めての契りを結んだのである。
(あなたに貰った言葉と同じ……私の人生に必要な男性は達也さん以外にはいません……これからもずっと傍にいさせて下さいね)
愛しい伴侶の寝顔を見つめながら幸せな感慨に浸っていると、視線に気付いたのか、達也の閉じられた瞼が震えてゆっくりと開いていく。
そして視線が絡み合って、ふたりは揃って口元を綻ばせた。
「どうしたのさ……眠れないのかい?」
クレアは恥ずかしげに微笑んで小さく頭を振る。
「いいえ……私も目が覚めてしまって。ずっとあなたを見ていたの……」
「物好きだな君は……でも、まあ見惚れる程度には良い男だろう?」
「うふふふ……確かに寝顔は随分と可愛らしかったわ。ティグルちゃんといい勝負かしら?」
「ひどいなぁ~~君は意外に意地悪だったんだな」
ガッカリした風情で達也が溜息を吐くと、クレアは心外だと言わんばかりに眉根を寄せて文句を言いだした。
「意地悪なのは達也さんじゃありませんか! あ、あんなコトを私に……わ、私ばかり恥ずかしい思いをさせて……達也さんはケダモノですッ!」
一方で非難された達也はニヤニヤと意地の悪い顔をして反論する。
「あ~~っ! そういう事を言うんだ? そもそもが君にだって責任はあると思うんだけどねぇ?」
「せっ、責任って? 私に何の責任があると言うのですかっ!?」
「だってさぁ……君のような楚々とした淑女がだよ? あんなにも可愛らしい声を上げるなんてさ……反則だよ。理性が吹っ飛んでも仕方がないじゃないか?」
その台詞にクレアは耳まで真っ赤にして……そして大噴火。
「明日は子供達を迎えに行くのですから、早く寝てしまいなさぁ~~いッ!」
後世の歴史家達は皆が口を揃えて、このふたりの夫婦仲は終生円満だったと伝えている。
それはどんなに苦しい時でも常に白銀達也の傍らで、彼を支え続けた白銀クレアの逸話が数多く残っているからに他ならない。
そして英雄の名を欲しい儘にした彼が、唯一頭が上がらなかった相手も、最愛の奥方である彼女だったという意見も衆目の一致する所だった。




