第十六話 それぞれの絆 ④
達也が用意してくれたホットミルクをひと口飲んだクレアは、ほぅと軽い吐息を零して口元を綻ばせた。
「ふうぅ……美味しい。ハチミツを入れているのね……微かな甘みが心地良くて、気持ちが落ち着くわ」
当然ながら今この場には、ソファーで身体を寄せ合うふたりしかいない。
少しだけ顔色が良くなった恋人の様子に安堵しながらも、お褒めの言葉を頂戴した達也は、どうにも照れ臭くて居心地が悪かった。
「そう言って貰えると嬉しいね……他はモノにならなかったが、これだけは自慢の一品なんだよ」
無邪気に微笑む達也を見ていると、やる瀬ない心の痛みが癒されるように思え、瞳に滲む涙を見られたくないと思ったクレアは、恋人の肩へ頭を乗せる。
「えぇ……今度、さくらにも振る舞ってあげてね。きっとあの娘も喜ぶわ」
暫しの間、互いに無言で甘味を堪能していたが、このまま全てを見なかった事にできる筈もない。
だから、クレアは自らの過去に向き合う覚悟を決めたのだが、唇から零れ落ちた言葉には遣る瀬ない無力感が滲んでいた。
「……結局、私のこの五年間はいったい何だったのでしょう? 最愛の夫を奪われた悲しみと憤りを糧にして生きて来たのに、それが全部虚構の幻だったなんて余りにも滑稽で、つくづく自分の馬鹿さ加減が嫌になるわ」
別に答えが欲しくて口にした訳ではなかったが、刹那の間も置かず達也に言葉を返され、クレアは驚いてしまう。
「俺に……白銀達也に出逢う為の時間だった………そう思えばいいじゃないか……と言うか、俺としては、その方が嬉しい」
思ってもみない奇襲攻撃に顔が朱に染まるのを自覚したクレアは、気恥ずかしさを我慢し、気障な台詞を口にした恋人へ優しげな視線を向けたのだが……。
自分で言ったにも拘わらず照れ臭くて仕方がないのか、達也は強面と評される顔の両頬辺りを赤くし、視線を漫ろに宙を彷徨わせるばかりだ。
「ぷっ……く、くくっ………」
その様子が可笑しくてクレアは吹きだしてしまった。
笑われた達也は憤慨するや、益々顔を赤くして不貞腐れたかの様に抗議する。
「なっ、なんだよ! 偶に真面目な事を言うとこれだ……どうせ俺には似合わない台詞だよ!」
「あははは。だ、だって、折角の素敵な台詞も、そんなに顔を真っ赤にして照れていたのでは台無しじゃありませんか。くっくっ、あはははは……」
憮然とする様子が更にツボに嵌ったのか、クレアは我慢できずに笑い続ける。
流石に居た堪れなくなった達也だったが、不意に左腕に細い腕が絡みついて来たのを感じて隣に目をやった。
「ありがとう……そうね。あなたに……達也さんに出逢うのに必要な時間だった……そう考えれば、とても幸せな気分でいられるわね」
そっと身体を密着させて再度肩に頭を乗せて来た恋人は、そう言って微笑むや、肝心の話をするべく、自ら辛い事実を問うたのである。
「こうなるのが分かっていたのですか? あのひとの事も……」
どう切り出そうかと悩んでいた達也も、彼女の方から問われて気が楽になり、表情を改めて口を開く。
「初めから気付いていた訳じゃないよ。ただ、さくらを襲撃したのが情報局の子飼いだと分かった時点で、もしかしたらと思ったのさ……銀河連邦大学の研究者という肩書は便利だからね……でも、思い過ごしであって欲しかったよ」
今の言葉をクレアがどの様に受け止めたかは分からない。
だが、ヒルデガルドに諭された様に、最後に決めるのは彼女自身なのだ。
だから客観的に事件の経緯を伝えよう……。
そう思い定めた達也はクレアの肩をそっと抱き寄せ、知る限りの事実を語って聞かせた。
「五年前の事件の背景と、そこに至るまでの各勢力の動向は理解しているかな?」
肩に触れる手の温もりに勇気づけられたクレアは、その問い掛けに小さく頷いて肯定する。
「あなた方三人の会話はドアの裏で聞いていました……余りに理不尽な内容に腹がたって……だから出て行くのを躊躇ってしまったの」
「そうか、それなら話が早い……あの男が任務の為に君を利用したのは許されないが、それを非難した所で何も元に戻りはしない……こんな言い方が酷だと言うのは分かってはいるが、早く忘れた方がいい……」
腕に絡む彼女の手に力が入り、身動ぎしたのが分かる。
胸を刺す痛みに堪えて達也は話を続けた。
「五年前の事件には様々な『想定外』の出来事が絡んでいたが、あの男にとっての『想定外』とは、君がさくらを身籠った事に他ならないんだ……」
クレアは眉間に皺を寄せ、痛苦に満ちた表情で涙声を漏らしてしまう。
「私一人が浮かれて燥いで……あの娘を望まれない子にしてしまいました……何と言ってさくらに詫びればいいのか……」
そう呟いて自分を責めるクレアの言葉を達也は強い口調で否定した。
「それは違うっ! 彼の言った『想定外』とはそんな意味じゃないんだ。さくらは『生まれる筈がない子供』だった……それが、あの男の真意なんだよ」
謎掛けのような達也の言葉を理解できず、クレアは怪訝な顔で訊ね返す。
「生まれる筈がない子供……とは、いったいどういう意味なのですか?」
「あの男はヒルデガルド殿下と同じファーレン人だ……長命種の彼と短命種の君との婚姻では、本来子供は生まれないんだよ。それは統計が残っている過去二千年に遡る生命学研究で証明されている」
知らなかったとはいえ、衝撃の事実を告げられたクレアは息を呑んだ。
「あの男にしてみれば、正しく青天の霹靂だったろう。結婚して間もない夫を事故で喪ったとしても、何れは時間が悲しみを癒し、君も立ち直る筈だと事態を楽観視していた筈だ」
クレアは双眸を閉じ、小刻みに震える顔を達也の肩口に伏せるしかなかった。
「しかし、君がさくらを身籠った事で全ての思惑が狂ってしまったんだ。あの男も慌てただろうね……まさか銀河人類史上最初の特異例が、偽りの夫婦を演じている自分に降り懸かるとは思ってもいなかっただろうから」
皮肉げにそう言う達也にクレアは悲痛な声で訴える。
「だからどうだと言うのですか? 結局あの男は事故に巻き込まれたかのように装って、私やさくらを捨てたじゃありませんか……それなのにあなたは、まるであの男を庇う様な言い方をして……」
クレアの抗弁に達也は敢えて反論しなかった。
「そうだね……勝手な言い分だと言われればその通りだよ。だが、俺には何となくあの男の心情が分かってしまってね……ここからは俺の推測だが、概ね間違ってはいないと思う。だから心して聞いてくれ」
胸の中から込み上げて来る憤懣は尽きないが、真剣な達也の顔を見れば、クレアはその想いを呑み込まざるを得ない。
「さくらは五体満足で生まれてこない。それどころか死産の確率が高いとあの男は確信していたのだと思う」
その推測に驚く恋人を尻目に言葉を重ねる。
「長命種と短命種の間に子が成せない理由は、長年の研究にも拘わらず、今も解明されてはいない。だが、その定説を覆して奇跡は起きた……」
確かに達也の言う通りだとクレアも納得せざるを得ない。
そして、聡明な彼女の脳裏にある懸念が浮かび、奇しくも達也の次の言葉がその思いと重なる。
「凄腕の情報員である彼が、この世に都合の良い奇跡など存在しないと気付かない訳がない……さくらが無事に生まれる可能性は極めて低いと直感で判断したあの男は、それを回避する手立てを模索したのだと思う」
「そ、それでは……その為にユリアちゃんが?」
「フォーリン・エンジェル・マリオネットの部品にされた脳には、本来は自我など残り得ない……しかし、ユリアの精神は魂魄として残っていたんだろうね。あの男は完全精神生命体だから、その魂魄を君の胎内に息づいていたさくらに宿らせて、生命体として不都合なさくらの、欠けている部分の修復をさせたんだ」
「そんな真似が本当にできるのですか? とても信じられませんわ」
自分の与り知らぬうちに勝手に胎内を弄られたと知ったクレアは不快感を露にするが、達也は苦笑いしながら諭す。
「ファーレン人には油断しない方が良い。ヒルデガルド殿下がいい見本だ。彼らの超常的な能力は他の種族の追随を許さない……科学者、医者、政治家に企業家など、多彩な方面で名を馳せて活躍している人材ばかりだが、総じて変人が多いのが玉に瑕でね……」
掛け値なしの称賛だったが、一旦途切れた弁は、そのトーンをやや落とした。
「ただ、生殖力が極めて弱くてね……千年以上もの寿命を持ちながら、残せる子孫は多くても二人が限界だそうだよ……だから生きていく事に倦んで、自ら隠棲する人も多いと聞く」
そこまで聞いたクレアはクラウスの真意に気付き、信じられないという顔をして掠れた呟きを漏らしていた。
「ま、まさかあの男が? さくらを愛していた……そう言うのですか?」
「あぁ……非情を旨とする情報員とはいえ、種族にとって宝同然の子供が可愛くないわけはあるまい。然も、夫を亡くした上に胎内に宿った命まで失ったとあっては、君にも深刻な影響が出かねない。任務との板挟みの中で、あの男は君達母娘を生かす道を選んだんだよ」
「そっ、そんなのは詭弁ですっ! 私は、いえ、さくらも……あの人が生きていてくれた方が良かったっ! それなのに……それなのにッ……」
自分が、そして最愛の愛娘が苦しんだ五年という月日を思い、慟哭にも似た哀惜の言葉が朱唇から零れる。
だが同時に、そんな都合の良い未来があったとは到底思えなかった。
最初から嘘で塗り固められた恋だったのだから……。
切なくて、哀しくて……クレアは達也に縋りついて咽び泣くしかない。
そんな恋人の震える背中を労わる様に撫で、暫し無言でいた達也は残酷な物言いだと承知の上で口を開いた。
「生きて君らの下に戻るという選択肢は有り得なかっただろう……あの男が生還すれば、さくらが君達の間にできた子供だと、所属している組織に知られてしまう。長命種と短命種カップルによる初めての生命の誕生。銀河中を席巻する大ニュースになっただろうね……」
「で、でも……それでも………」
「人類史の新たな一ページ……生命と医療の発展の為に……誰もが酔い痴れる様な大義名分を手に入れると、人間は平気な顔をして他人に残酷な仕打ちをする生き物なんだよ……だから、久藤悠也は死ぬしかなかったのさ……君達母娘をモルモット扱いする研究施設に送らせない為にね……」
真実の全てが詳らかになる……。
確かに達也の憶測に過ぎない話ではあったが、クレアはそれを疑う気にはなれなかった。
嘗て夫だった男との間に愛情は成立しなかったが、親愛の情は育めたのだ……。
そして、さくらは間違いなく祝福されてこの世に生を受けた……。
それだけで、もう充分だと納得できたのである。
(悠也さん……私達はもう大丈夫だから。明日に向かって生きていくわ……本当にありがとう……そして、さようなら……)
クレアは自分自身の未練と決別するべく、亡夫の面影に別れを告げたのだった。
◇◆◇◆◇
話を終えてクレアが落ち着いた頃、喫茶ルームの外窓に薄い明かりが滲む。
長ソファーに並んで座っているふたりの顔には、もう憂いはない。
「結局夜が明けたか……長い夜だったなぁ……」
達也がボヤくように呟くと、クレアが躊躇いがちに口を開いた。
「本当に要領の悪い人。何の得にもならないのに、あんな男まで庇って弁護して。もしも、私が情に流されて心変わりしたら……とは考えなかったのですか?」
達也は左右に首を振りながら苦笑いする。
「殿下に止められなければ殺す気だったよ……どんな経緯があったとしても、君やさくらを泣かせた人間を許す気にはなれなかった……でも、結局は憎み切れなかったな……その時点で俺の負けだ」
そして、妙に清々しい笑顔をクレアに向けて言葉を続けた。
「だが、君が去っていくと考えるだけで恐かった……君達のいない未来なんてもう俺には考えられないし……でも、俺の一番の願いはクレアとさくらが幸せでいる事なのだから……それが叶うのならば、誰が君達の傍にいるかなんてどうでもいい。そう思ったんだ」
(本当に不器用な人……少しぐらい自分に有利な事を言えばいいのに……)
じれったいくらいに朴訥な恋人を歯痒く思いながらも、それでもクレアは、達也を心の底から愛おしいと思う。
「やっぱり達也さんは意地悪だわ……私にはあなた以外に、心を許せる男性なんていないって知っているくせに……それとも、達也さんの隣に私の居場所はなくなってしまったのですか?」
「そう言う君も充分に意地悪だよ……俺の隣に居て欲しい女性は未来永劫……君だけだよクレア……君を愛している。誰よりもね」
クレアは破顔して頷くや、自ら唇を重ねてくちづけを交わす。
(……誰よりも達也さんを……あなたを愛しています)
曙の微かな光が艦内に差し込み、ふたりを優しく包み込む。
その陽光の暖かさと愛しい恋人の温もり……ふたりにとって間違いなく、今この時が始まりの時だった。
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