第十五話 想定外 ①
昨夜の中に必要な日用品と着替え一式を準備していた所為もあり、僅かな時間と労力のみでリブラへの引っ越しは無事に終わった。
だが、一応の安全は確保できたものの、全ての不安が解消した訳ではない。
根本的な問題が何ひとつ解決していない以上、手放しで喜べる状況には程遠いとクレアは思わざるを得なかった。
胎児のさくらが機能不全状態だった原因と、ユリアがシグナス教団から命を狙われている事実には、何かしらの因果関係があるのではないかという達也の推測に、クレアは憂いを禁じ得ない。
然も、頼みの綱だったヒルデガルド・ファーレンが、爆破テロに捲き込まれ行方不明というショッキングな情報まで重なったのだから、不安に圧し潰されそうになるのは仕方がない事だった。
『心配ないさ。殿下は正統なファーレン人だからね。完全精神体の彼女に爆発物なんか効果がある筈もない。寧ろ、そんな馬鹿な真似をした相手に俺は同情するよ』
達也はそう言って笑っていたが、ユリアに残された時間が少ないという事実を鑑みれば、忸怩たる思いに焦燥感は募るばかりだ。
【お母さま……あまり思い詰めないで下さい。どの様な結果になったとしても私には悔いも未練もありません。寧ろ、母と呼ばせて戴く貴女が沈んでいる方が辛いです……さくらちゃんも私と同じ気持ちだと思いますよ】
ついさっきユリアからそう慰められたのを嬉しいと思いながらも、母と呼ばれるのが面映ゆいやら気恥ずかしいやらで、クレアはすっかり照れてしまった。
だが、彼女を自分の娘同然だと思うからこそ、死別という最悪の形で引き裂かれたくはない、そう強く思わずにはいられないのだ。
(あの子達に心配を掛けないように振る舞わなくてはならないわ……私がしっかりしていないと達也さんに負担ばかりかけてしまうもの)
気持ちを切り替えたクレアは、ご機嫌な愛娘へ念押しするかの様に注意する。
「いいこと、さくら。達也さんと一緒にいられて嬉しいのは分かるけれど、お仕事の邪魔をしてはいけませんよ?」
「はあ~~い! ママ! さくら良い子にしているよ。だって、ユリアお姉ちゃんも、ティグルもいるから大丈夫だよぉ~~」
物分かりが良すぎる愛娘の返事に却って不安を煽られるクレアだったが……。
「心配しなくても大丈夫だよ。それよりもほら、始業時間まで間がないんじゃないかい?」
苦笑いする達也に忠告されて時計に目をやれば、確かに時間に余裕はなかった。
「うぅぅ~~もうっ! 達也さんは子供たちに激甘だから心配なんですものっ……兎に角、お昼は食堂のランチパックを買って来ますから、勝手に外出しないでくださいね! 約束ですよっ!?」
そう早口で捲くし立てるのが精一杯のクレアは、そのまま制服の上着を掴んで 部屋を飛び出したのである。
黎明の光を浴びながら息を弾ませ、本校舎へ続く小径を駆け抜けた。
心配事さえなければ早朝の澄んだ空気を満喫できて、爽快な気分で教鞭を執れるのにと残念で仕方がない。
だが、これが彼女にとって不愉快極まる一日のスタートになろうとは、この時は思いもしないクレアだった。
◇◆◇◆◇
普段よりやや遅れて出勤したクレアは、同僚への挨拶もそこそこに自分の席へと向かう。
今日は突き刺さるような男性教官達からの視線もなく、彼らからの挨拶も何処か遠慮がちだった。
(達也さんと交際しているのをオープンにして良かったわ。これで煩わしいお誘いからも解放されるわね)
プライベートな恋愛や交際を殊更に隠し立てする必要はないとクレアは考えているし、達也に至っては、その手の問題には全く無頓着だ。
それ故、コソコソせずに交際をオープンにする事で、他の男性諸氏からの求愛や傍迷惑な御見合い話を根絶したいというクレアの目論見は、一応の成果を上げたかに思えたのだが……。
「ハァ~イ! クレア。『おはよう』がいいかしらん? それとも『おめでとう』かしらねぇ~~? ぐふふふふっ……それにしても、悠也の時といい今回といい、本当に《チョロい女》だわ……まったく脱帽よ」
自分の教務席に着いた途端、隣の席の志保が揶揄う気満々で話し掛けて来た。
「ハイハイ。何とでも言うが良いわ。《チョロい女》で結構。でも、私にかまけて自分の将来を疎かにしていると、《勿体ぶった女》だと思われて男性に敬遠されますわよ? 志・保・様?」
「うわぁぁっ! なによその余裕の発言!? 男共の憧憬を一身に集めていた伏龍のマドンナも、恋人をゲットした途端《近所の世話好きおばちゃん》に大変身しちゃうのね! 志保びっくりぃ~~!」
「あらぁ~~? 私達同い年の悪友ですものね~~自覚はあったんだぁ~~自分がもう《おばちゃん》の仲間入りをしているという事実に。ほっほっほっ。いつまでも若くはないのよ? 志保さま?」
「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ! 私は永遠の二十五歳なのよ! 男なんか旦那様候補も恋人も星の数ほどキープしているんだから、余計なお世話ってもんよ! し、然もぉぉっ! クレアの癖にぃっ! 生意気よ、あんた!」
揶揄うつもりが反対に上から目線で見下され、珍しく地団駄を踏みながら強がりを言う志保に、クレアは急に声を潜めて申し訳なさそうに礼を言った。
「あっ、あの……ありがとうね志保。あの時の……いえ、悠也さんの事件。ずっと調べていてくれたのでしょう?」
死んだ夫の名が絡む事件と言えば、二人の間では五年前の惨劇以外にはない。
それでもクレアは、訓令違反を犯してまで事件を調べていた志保の身を案じて、周囲の人間には分かりにくい言い回しで謝意を伝えたのだ。
勿論、親友が前触れもなく殊勝な態度で礼を口にした背景に気づかない志保ではない。
だから、照れ臭さ半分、忌々しさ半分といった風情で悪態をついたのだ。
「ふ、ふんっ。白銀の奴め! あれほど口止めしておいたのに……クレア、あんた今からでも交際を考え直した方がいいんじゃないの? 口の軽い男なんか陸なもんじゃないわよ」
そんな腐れ縁の物言いに口元を綻ばせたクレアは、再度小さく頭を下げて無言の謝意を示す。
「も、もうやめなさいよっ! 私が勝手にした事で礼なんか言われたら、ますます立つ瀬がないじゃない……結局のところ大して役には立たなかったみたいだし」
気恥ずかしくて仕方がないのか、顔を赤くして自虐的に文句を言いだす悪友の手に、クレアはマイクロチップを握らせた。
勿論、周囲の人間には気付かれないように……。
「こ、これは? 何かあったのね……あの資料絡みで?」
「ええ。達也さんが調べてくれて判明した事実を記してあるわ……くれぐれも他人には知られない様にして頂戴ね。どうやら、さくらが事件に深く関係しているらしくて……二回も命を狙われているのよ」
殊更に声を潜めてそう告げると、志保の顔にありありと驚愕の色が浮かんだが、彼女も空間機兵の一員として実戦経験済みの猛者であり、迂闊にも声を上げる様な醜態は晒さなかった。
「狙われたって……襲撃されたって事!? いいわ……後で目を通しておくから。どうせ午後はリブラに顔を出すんでしょう? そこで詳しく話を聞かせて貰うわ」
達也の教え子達以外の全候補生に対し、幕僚本部からヴァーチャルシステムでの訓練禁止が通達されている。
そのトバッチリを受ける格好で、二年生の授業にシステムを導入して訓練を行っていたクレアと志保は、担任講師の権限を剥奪されてしまったのだ。
その結果、基礎科目以外に教鞭をとる授業がなくなり、大いに暇を持て余す羽目に陥っていた。
「そうして貰えると助かるわ……実は今日からあの船に居を移したのよ。短期間の避難措置だけど、さくらの安全を考えれば仕方がないと思うの……本当にごめんね……いつも私の都合に巻き込んで迷惑ばかりかけて……」
「ふん。なにを今更……私とあんたの間で野暮は言いっこなしよ。腐れ縁の親友でしょう私達は? どうせ白銀さんが私の身にも危害が及ばないようにと気を遣ってくれたんでしょう?」
さすがに長い付き合いの志保には全てお見通しだった様で、彼女の慧眼には舌を巻かざるを得なかったが、用件を伝えて安堵するクレアに、今度は端正な顔を曇らせた志保が話を振った。
「その落ち着きようでは、まだ知らないんでしょうけどね……」
彼女にしては酷く歯切れが悪いなとクレアが小首を傾げるや、志保は机上の情報端末を操作して学校が管理しているホームページを開く。
そして、その中にある《意見交換の広場》と銘打たれた候補生同士の交流ツールにアクセスした。
「こ、これはっ!? いったい……」
その画面を見たクレアは、息を呑んで絶句してしまう。
基本的に学校が管理しているホームページであり、普段は積極的に意見を投稿したり、掲示板などを利用する候補生は極々少数なのだが……。
眼前の画面は投稿されたメッセージで埋め尽くされ、今この瞬間も主題に沿った議論が熱く交わされているのが有り有りと見て取れた。
当然ながら、この様な場で交わされる健全で活発な意見交換は歓迎するべきなのだが……。
「な、何よ、これはっ!」
呻き声を漏らして固まるクレアの視線が追う画面には、端から端まで達也と自分の交際に対する意見交換の場が立ち並んでおり、画面をスクロールさせれば、白銀達也という個人に対する胡散臭い怪情報が掲載されていたのだ。
そこにはそれらをネタにした、ふたりの交際に対する憤懣や非難が溢れかえっており、然も、匿名での投稿であるが為に、その内容には見るに堪えない誹謗中傷も多く含まれていた。
「中身を見る必要はないわよ……アンタ達の交際が全校に知れ渡って以降、あっという間にこうなってしまってね……クレアに対しては専ら同情的な擁護論が多数を占めているけれど……」
さすがにその先を口にするのは躊躇われたのか、志保は曖昧に言葉を濁そうとしたが、彼女の言葉を引き取る様にクレアの唇が動く。
「達也さんだけが悪しざまに非難されているのね?」
冷淡な声音だったが、痛々しい悲哀の念は隠しようもない。
男女を問わず年齢の差も関係なく絶大な人気を誇るクレアと、何処か風采の上がらない達也のカップリングは、教官や関係者そして候補生達に至るまで、大多数の人間にとって青天の霹靂だと言っても過言ではなかった。
それ故に祝福しようという寛容な者は極々少数であり、大半の者は達也に対して嫉妬と怨嗟の感情を爆発させているのだ。
志保はクレアとは長い付き合いだからこそ、彼女の辛い心情が手に取る様に分かってしまう。
謂れなき誹謗中傷を弄し、愛しい恋人を弄ぶ者達に怒りを向けるのではなく。そんな陰惨な場に達也を追いやってしまった己の浅慮を嘆いて自分を責めてしまう……それが、クレア・ローズバンクという女性なのだ。
「学校側は『生徒達の自発的な意見交換の場だから』と黙認するつもりらしいわ。学校長に権限がない今、煽るだけ煽って白銀さんの面子を潰して憂さ晴らしをするつもりなんでしょう……本当に性根の腐った連中よっ!」
志保はジェフリー・グラスの一派が裏で糸を引いていると確信していたし、事実その通りなのだから、彼女の怒りを否定できる理由は存在しないだろう。
「どうする? 怒鳴り込むつもりならば、私もつき合うわよ?」
敢えて明るい口調で訊ねてみたのだが、クレアは小さく吐息を吐いて頭を左右に振った。
「気遣ってくれて本当にありがとう……でも、止めておくわ」
肩透かしを喰らった志保が不思議そうな顔をすると、気丈にも微笑みを浮かべたクレアは、この場に居ない恋人を慮った。
「だって、達也さんはこんな誹謗中傷など歯牙にもかけないわ……でも私が取り乱したりしたら、要らぬ気を使って申し訳なさそうにするに決まっているもの……そんな彼の顔は見たくないから」
最後に見惚れる様な笑顔を浮かべる腐れ縁に、志保は感心せざるを得ない。
(しっかりしているように見えて意外に甘ったれなクレアが、こんなにも強い決意を口にするなんてね……やるじゃん、白銀達也殿)
「な、なによ? 急にニヤニヤして……なにか言いたいのなら、はっきり言ったらいいじゃない!?」
警戒しながらも非難交じりの言葉を投げつけて来る腐れ縁が妙に愛おしく思えた志保は、言われるままに己の心情を吐露するのだった。
「アンタがこんなにも強い子に育ってくれて私は嬉しくて、嬉しくてね……これも白銀さんのベッドの中での教育の賜物なのでしょうねぇ~~。ならばっ! 後学の為にも、あ~~~んな事や、こ~~~んな事を、根掘り葉掘り聞いておかなければ一生の不覚っ! そう思っているわけなのよッ! さあっ! 嬉し恥ずかし体験を洗いざらい白状しなさいッ!」
勿論、揶揄われたクレアが顔を真っ赤に染めて大騒ぎし、その要求を断固拒絶したのは言うまでもなかった。




