第十四話 忌み子 ③
常識の範疇を逸脱した話を聞かされた人間は、凡そ冷静でいられなくなるか、馬鹿々々しいと笑い飛ばすか、騙されているのではないかと訝るか……その反応は人によって様々だろう。
しかし、幸か不幸か達也とクレアは成熟した感性の持ち主であり、ユリアの告白を聞いても取り乱しはしなかった。
【私がさくらちゃんの自我と一つになった時、あの娘の身体は異常な状態でした。内臓器官は辛うじてまともでしたが、神経や血管が断絶したり存在していなかったりで……生きているのが不思議な状態だったのです】
流石にショックで蒼白になったクレアは、達也に縋る手に力をいれ、震える唇で呟いてしまう。
「そ、それは、あの事件で体調を崩した私の所為なのね……」
「そんな馬鹿な。幾ら何でも異常すぎる。他に原因があると考えるのが妥当だよ」
そう弁護したものの、摩訶不思議な現象に達也自身も困惑せずにはいられない。
「で、でも……」
自虐的な推論を否定されても、些かも心は軽くならなかったが、そんなクレアの不安を払うかのように、ユリアは頭を左右に振った。
【達也さんの言う通りですよ。さくらちゃんの異常は母体であるクレアさんの所為ではありません……その原因を知っているのは、恐らく私に取引を持ち掛けて来たあの男だけでしょう】
(……謎の男か……プロジェクト関係者として潜入した、銀河連邦情報部のスパイだろうな)
その程度は容易に想像できるが、事件から五年以上も経過した現在では、真実を確かめる術はないし、まして、今更情報部がこの件を蒸し返す理由が分からない。
そんな事を考えていた達也は、柔らかいユリアの声によって我に返った。
【ですが、安心してください……出産前の数か月で神経系統と血管の再生は無事に終えましたし、生まれてからの五年間で他の不具合も処置し、今では安定しています……もう何の心配もいりません】
「ああぁっ! あ、ありがとうっ! 本当に、ありがとうッッ!」
愛娘の深刻な問題が回避されたのを知ったクレアは涙を流して感謝し、達也も 胸を撫で下ろして安堵した。
ユリアとクレアとの間では尚も会話が続いていたが、達也は新たに判明した事実に考えを巡らせる。
(帝国の暗躍以外にも、評議会にとって看過できない何かがあったのか?)
朧げな疑念に懊悩していると、唐突に耳に飛び込んで来たクレアの叱声によって現実に引き戻された達也は、何事かと彼女へ視線を向けた。
「そんな馬鹿な事を言うものではありませんっ! 冗談でもそんな悲しい事を言わないで!」
先程までの喜色はすっかり消え失せ、涙交じりの沈痛な表情でユリアを正視しているクレア。
一方のユリアは相変わらず表情に乏しいものの、それでも何処か困惑しているようにも見える。
なぜ叱責されているのか分からない、それ以上に、なぜクレアが怒っているのか理解できない……。
そんな戸惑いにも似た感情を持て余す様子が窺えたのだ。
「お、おいおい。いきなり声を荒げるなんて君らしくない。いったい……」
「今の彼女の言葉を聞いていなかったのですかっ!?」
その叱責に反射的に首肯する達也の態度が歯痒くて、思わず視線が険しさを増すのが自分でも分かった。
『なぜこんな大事な話を聞いていないの?』と、非難の言葉が喉まで出かかったが、それよりもユリアが口走った台詞の方が問題だと思い直して話を続けた。
「この娘はもう直ぐ死ぬと言うのです……然も、これで漸く楽になれますだなんて……そ、そんな馬鹿な話がっ、うっ、うぅぅ~」
悲しみを堪えきれなかったのだろう……口元を手で押さえ咽ぶクレアの閉じられた双眸からは、涙が雫になって零れ落ちている。
彼女が何に憤り悲しんでいるのか達也には理解できたが、だからと言って都合の良い解決方法がないのも事実だ。
(ユリアは元々は生身の人間だ……それを、脳だけを取り出されて《フォーリン・エンジェル・マリオネット》のコアユニットにされた以上、精神体としてさくらの意識下に寄生したとはいえ、五年も生き永らえたのが奇跡だと言わざるを得ない。可哀そうだとは思うが、こればかりは……)
残酷で無慈悲な仕打ちを受けたユリアには、既に魂の拠り所となる肉体がない。
痛ましい話だが、彼女の命を救う術を達也は持っておらず、それ故に嘆き悲しむ恋人に慰めの言葉一つ掛けてやれないのだ。
そんな己の不甲斐なさが怨めしくて、達也は臍を嚙むしかなかった。
その一方で、戸惑いながらも自分の身を案じてくれるクレアの気づかいに感激したユリアは、心からの謝意を返したのである。
【心配してくれて本当に嬉しいです……私の人生には何もなかったけれど、さくらちゃんやクレアさん、そして達也さんに出逢えました……他人から向けられる冷たい感情しか知らなかった私が、人の心の温もりと優しさ知る事ができたのです……それは私へ向けられたものではなかったけれど、それでも充分嬉しかった。あとは母の元へ……それだけが今の私の望みなのです】
それは彼女にとって偽らざる本心であり、また最上級の謝意に他ならない。
しかし、クレアはそれを甘受できなかった。
一人の母親として、目の前で消え逝こうとしている幼い命を、断じて見殺しにはできなかったのである。
今の彼女と同じ台詞をさくらが口にしたら、きっと平静ではいられないだろう。
どんな手段に訴えてでも自分の過ちに気付かせ、安易に『死ぬ』などと言わせはしない……。
その想いはユリアに対しても、些かも変わりはしなかった。
だから、クレアはひとりの母親として、厳しい口調で我が子を叱責したのだ。
「全てを分かった様な顔をして巫山戯ないでッ! 貴女のお母様が、どんな想いで十年という月日の延命を願ったのか分からないのですか!? 貴女は自分で言ったのよ……私達に出逢えて嬉しかったと……そう思えるのならば分かる筈です。この出逢いは他の誰でもない、貴女のお母さまが導いてくれたものなのだと」
クレアが言わんとしている意味を理解したユリアは、狼狽して返す言葉を失ってしまう。
(お母さまが私を生かしてくれたのは、この人達に出逢うため?)
「私だって貴女に出逢えて本当に嬉しい。お蔭でさくらは命を繋いで無事に生まれたんですもの……ならば貴女だってさくらと共に私の胎内から生まれたのに変わりはないじゃない! だったらユリアは私の娘よ! たとえ詭弁だ、滑稽な言い種だと笑われても構わないっ! 私は今は亡きお母さまから貴女を託されたのだと思っているわ……だから死ぬなんて言わないでっ! たった十年の人生に満足しないでっ! 私達と一緒に生きて頂戴ッッ!」
それは心の奥底から吐き出された、切ないまでの渇望に他ならない。
その熱いクレアの想いに触れたユリアの戸惑いは、更に大きなものへと変化していく。
(……この気持ちは一体なんだろう……心がざわついてひどく騒がしい……でも、決して不快な感情ではないわ)
この世に生を受けて以来、初めて自分へ向けられた温もりを持て余しながらも、クレアの視線から目を逸らせないでいる。
涙が滲んだその両の瞳に宿るのは、安っぽい共感や憐憫の情ではなく、心の底から自分を慈しんでいる情に他ならないのだと、ユリアは察してしまう。
そして、まだ自分が生身の身体を持っていた頃の記憶を思い出していた。
軟禁と呼ぶに相応しい十年の生活の中で、出会った人々から向けられた、侮蔑の情を隠そうともしない冷淡な視線の刃。
(周囲にいた人間の視線が恐ろしかった。人外を見下す様な冷たい視線……それが私の心を冷たくし、いつしか諦めと共に人間らしい感情を失っていった……でも、でも……この方は……)
触れる事は叶わないと分かっていても、クレアはその繊手を伸ばすや、投影体のユリアを包み込むようにして哀切の呟きを零した。
「あぁ悔しいわ……こんなにも傍にいるのに……貴方を抱き締める事も、私の想いを温もりで伝える事もできない……本当に歯痒いわ」
その言葉に心打たれたユリアは、嫌でも自分に起きた変調に気付いてしまう。
(なっ、なんなのこれは? 熱い……胸が早鐘を打つように熱くなっていく。身体中が歓喜に震えている? そ、そんな馬鹿な……今の私には肉体なんかありはしないのに?)
これほど動揺した事など記憶にないユリアは、それでも無様な真似は晒すまいと懸命に正気を保とうとした。
しかし、クレアから伝わって来る温もりが、そんな虚勢を無意味なものに変えてしまうのだ。
それは幻想だと断ずるにはとても刺激的であり、これまでの人生で一度たりとて味わっていない心地よさだった。
手足が小刻みに震え、素肌をピリピリとした刺激が駆け抜けていく様な錯覚さえ覚えてしまう。
ありもしない身体に温もりが拡がっていくのを感じたユリアは、その熱に浮かされたかの様に、まやかしの映像にすぎない己の両手を目の前の女性に向けて差し出していた。
そんな幸せな夢が本当になったのならば、どんなに幸せだろうか……。
ほんの刹那の間、尊い幸福に浸ったユリアだったが、それが永遠に手に入らないものであるのを、彼女は誰よりもよく分かっていた。
(でも、私には……詮無い夢物語に過ぎない……)
だから、精一杯の微笑みを浮かべたユリアは、差し出されたクレアの手に幻影の手を重ねるや、心からの感謝を伝えるしかなかったのである。
【ありがとうございますクレアさん。私は本当に救われた思いです……言葉でしか知らない愛情というものを与えて戴いて嬉しかった……貴方が私の母になって下されるのなら……さくらちゃんやティグルちゃん、そして達也さんの家族にして戴けるのならば……どんなに幸せでしょう】
「だ、だったらっ!」
【私に残された力はもう僅かしかありません……私は生まれついての精神生命体ではありませんから……作られた命に未来はないのです。ごめんなさい……本当に、ごめんなさい】
喜色に綻んだクレアの表情は、ユリアの言葉で落胆の色に覆われてしまう。
「そ、そんな、そんな無慈悲な……」
ガックリと肩を落とすクレアに寄り添い、ユリアは幻影の身体を重ねる。
そうすることで、本当に母親の温もりを感じられるのではないか……。
そんな、やる瀬ない想いに心を委ねた時だった。
「諦めるのはまだ早いかもしれないよ。安請け合いはできないが、希望が絶たれた訳ではない筈だ」
力強くそう言い切った達也に、クレアとユリアの縋るような視線が突き刺さる。
「た、達也さんっ、それは本当ですか?」
「この手の問題ならば得意中の得意。銀河系最高の頭脳を誇る変人がいるじゃないか。君だって会っただろう? ヒルデガルド殿下だよ」
「あ、あの御方が? でも一体どういう事なのですか?」
ヒルデガルドに会ったとはいっても、彼女の人となりしか知らないクレアは不安げに小首を傾げてしまう。
そんな恋人と事情を呑み込めず戸惑うユリアに、達也は丁寧に説明した。
「あの御方はファーレン王国の次期女王候補の筆頭なんだが、ファーレン人は完全精神生命体でね、長命種として軽く千年以上を生きるんだ。連邦の歴史よりも長生きしている人もいるそうだよ。そんな彼らは自分の意志を様々な物体に憑依させて人生を楽しんでいる……ヒルデガルド殿下のあの容姿も殿下自慢のアバターだ……あの方なら何か良い解決法を御存じかも知れない。我儘で変人だが情には厚い御方だから、きっと力になってくれるさ」
本人が聞いていれば憤慨しそうな台詞をサラリと口にした達也が微笑んだ。
「あ、ああぁぁ、まだ諦める必要はないのね! よかったわね、ユリアさん!」
クレアがポロポロ涙を零すのを見たユリアは、半ば信じられない気持ちで達也へ視線を移す。
「道は閉ざされた訳じゃない。最後の最後まで諦めない、それは人間にとって大切な資質の一つだ。君の未来を信じて十年の時間を与えてくれたお母さんは正しかった……それを証明するのも、娘である君の役目ではないのかい?」
【ほっ、本当にそんな夢みたいな話が……然も私のような忌み子が……】
「クレアが君の二人目の母親だと主張するのなら僕は父親だ。忌み子などと自分で自分を卑下するのは止しなさい。それは、君の亡くなった母上様やクレアに対して失礼だし、僕も可愛い娘からそんな卑屈な言葉は聞きたくはないよ」
「し、白銀さま……」
今この瞬間に自分を包む熱で焼き尽くされても本望だ……。
ユリアは心の底からそう思った。
深い諦念の中で渇望し続けた喜びという名の感情。
それを得たのだと知った少女は、その想いを与えてくれたふたりに心から感謝せずにはいられなかった。
しかし、新しい家族との団欒は、悪意ある来訪者によって邪魔されてしまう。
「おっと……? 折角いい所なのに、無粋なお客様のお出ましらしい」
明確な殺気を感じ取った達也は、小さな吐息を吐いて立ち上がった。
「どうやら歓迎したくはない客のようだ。君はユリアを連れてさくらの部屋に……いざという時はティグルを叩き起こせばいい。警察は呼んでも無駄だろうから連絡は必要ない」
「た、達也さん……」
不安げなクレアの髪の毛を優しく撫でてから微笑む達也。
「大丈夫だよ。家族を護る為なら、父親は何時でもスーパーマンになれるものさ。おっと、まだ僕らは夫婦ではなかったな……父親顔は少々早かったかな?」
「も、もうっ、達也さんったら……」
こんな緊迫した状況であるにも拘わらず、ジョークを口にする恋人に呆れながらも、クレアは微笑んで頷いた。
そして精一杯の想いを込めて愛しい恋人にエールを贈ろうとしたのだが……。
その刹那に何の前触れもなく、達也とクレアを異変が襲ったのである。
「どうか御無事で。お帰りをお待ちしてい……あ、あれ……?」
身体のバランスを崩したクレアが蹈鞴を踏んだかと思うと、その場に崩れ落ちてしまう。
そして、同じく眩暈に襲われて片膝をついた達也は、急速に混濁していく視界の片隅に、悲しげに微笑むユリアの投影体を捉えるのだった。




