第十二話 日雇い提督は決断す ⑤
クレアが遊技場に辿り着いたのは、恐怖に駆られたさくらがメリーゴーランドを跳び出す直前だった。
ロープが張られているゲートを潜り抜け、百mほど先にある大きな傘状の遊具を目指して遮二無二駆け出す。
激しい風雨の中、思うように走れない苛立ちに歯噛みしながら、それでも必死に腕を振って駆けに駆けた。
(無事でいてちょうだい! さくらっ! お願いだからぁっ!)
愛娘の身を案じながら目的の場所まで半ばを走り抜けた時、闇の中にシルエットのように浮かび上がるメリーゴーランドから走り出た小さな影と、それを追う大きな影を視界に捉えたクレアは目を凝らす。
その小さな影がさくらに違いない、そう母親の直感が告げる。
「さくらぁッッ! さくらぁぁ──っ!!」
懸命に娘の名を叫びながら二つの影を追いかけるクレアは、その影が向かう先に何があるのかを思い出して息を呑んだ。
(いけない! あの先は海釣り用の堤防だったはず!? だ、駄目っ!)
猛烈に荒れ狂う風雨の中、荒波が打ち寄せる場所に近づくなど自殺行為に他ならず、脳裏を過ぎった最悪の未来に恐怖し、矢も楯もたまらずに声を張り上げた。
「駄目ェェッ、さくらぁぁ──っ! そっちは危ないッ! 行っては駄目よッ! 止まりなさぁ──いぃッ!」
懸命に駆けながら叫ぶクレアの声が聞こえたのか、後続の男が立ち止まって振り返るのが分かる。
襲い掛かって来る可能性もあったが、愛娘の安否以外は全てが些事であり、警戒に使う余力さえ惜しい。
だから、見知らぬ男の存在など無視し、声の限りに叫びながら走り続けた。
(間に合ってっ! お願いッッ、間に合ってぇぇ──ッ!)
しかし、クレアの必死の願いは最悪の形で打ち砕かれてしまう。
突如として吹き付けた横殴りの暴風が、彼女の哀願を嘲笑うかのように、地上にある全てのモノに獰猛な牙を剥いたのだ。
「うわぁぁぁッ!」
男が強風に煽られ、蹈鞴を踏んで転倒する傍で、クレアもバランスを崩してしまい、危うく転びそうになるのを堪えるのが精一杯だった。
大人ですらこの有り様なのだから、小さなさくらに自然の猛威に抗う術などある筈もないだろう。
幼い身体は荒れ狂う暴風に容易く絡め捕られて宙に舞うや、あっという間に波が逆巻く漆黒の海へと叩き落されてしまった。
「いやあぁぁぁ──っ! さ、さくらあぁぁ──ッッ!」
半狂乱になったクレアは再度地を蹴り、さくらが落水した辺りを目掛けて必死に走る。
「お、俺は知らねぇ~~。何もしちゃいねえよぉぉっ!」
何かを喚きながら逃げだした男には目もくれず、クレアは一心不乱に駆けた。
(嫌、嫌よッ! さくらっ! 死んでは駄目ッ! ママをひとりにして先に逝かないでぇッ!)
愛娘が落水した地点に辿り着いたものの、闇一色の海面は激しく波打つばかりで既に娘の姿は何処にもない。
躊躇せずレインコートを脱ぎ棄てたクレアは、荒れ狂う海へ跳び込もうとしたが、その寸前で背後から駆けて来た達也に肩を掴まれて、強引に波打ち際から引き戻されてしまった。
「俺に任せろッ! 急いで救急車を頼むッッ!!」
そう叫んだ達也は荒れ狂う海面目掛けて身を躍らせて、あっという間に水中へとその姿を消す。
後を追おうとしたクレアだったが、非力な自分が海に跳び込んでも、娘を助けるどころか溺れるのが関の山だ。
だったら、達也を信じて事後の手配をした方がさくらの為になる……。
冷静さを取り戻した彼女はそう判断し、言われた通り救急車を手配するや、その場に跪いてふたりの無事を祈るのだった。
(白銀さんっ、お願いします! どうかっ、さくらを救けてッ! お願い、お願いしますぅッ!)
◇◆◇◆◇
ティベソウス王国は七聖国筆頭として、ここ二百年ほどの間、五代に亘って最高評議会議長を輩出している名門中の名門である。
権力の中枢に長く君臨しているだけの事はあり、歴代の王は野心家よりも穏健派が多く、政治的にも中立で安定していた。
現国王のグスタウス王が七十五歳と高齢の為、いつ次代の王太子に王位を譲るのか……国民の関心は専らその一点に集中している。
その王都には明日から開催される最高評議会緊急会議に出席するために、七聖国の代表者達が従者を伴なって参集していた。
特に今回はランズベルグ皇国の伝説的宰相と名高いアナスタシア・ランズベルグと、ファーレン王国次期女王候補筆頭のヒルデガルド・ファーレンが最高評議会のメンバーに復帰しているとあって、王都は時ならぬお祭り騒ぎに湧いている。
このふたりの女傑に関しては、若い頃からの逸話には事欠かず、女だてらに……という文言で形容される活躍で名を馳せ、貴族社会だけではなく平民層にも圧倒的な支持を得ている人気者だった。
「シア!? 君はそんな事を考えていたのかいっ? いやはや呆れたねぇ~~君は銀河連邦をぶっ壊す気なのかな?」
王都中心街に聳え立つ六十階建てのホテル。
その四十階より上のフロアーは全てが貸し切りになっており、最上階の貴賓室にアナスタシアは宿泊していた。
その部屋に招かれたヒルデガルドは、彼女の心中に秘めていた秘策を聞かされ、驚くと同時に大いに呆れてしまったのだ。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の顔は何処か楽しそうで好奇心に満ちた笑みを浮かべていたのだが……。
肘掛がついたソファーに背中を預けているアナスタシアは、口元に笑みを浮かべて冷然とした為政者の顔で嘯いた。
「旦那様もラインハルトも所詮は軍人です……狭い世界のお山の大将を勝ち取れば事態を打開できると考えているのでしょうが……甘すぎますわ」
「確かにねぇ~~貴族社会の闇は深い……同じ世界で他者を蹴落としても、直ぐに対抗馬は現れるからねぇ。しかし、仮に達也がシアの目論見通りに事を成し遂げたとしても、結局のところ組織は腐敗していくものだよ?」
アナスタシアは自嘲気味に笑ってから、ヒルデガルドを見据える。
「それでもですわ。親が子にその子が自分の子供に……連綿と伝えていく事の尊さを世に示す必要があるのです。結果を見届けられるのは殿下ぐらいでありましょう……私は元より達也が存命中にさえ叶わないかもしれません。ですが私達短命種の人間は自らの想いを後進に託せますわ。我らが蒔いた種がいつか大輪の花を咲かせれば、それで満足です」
ヒルデガルドは暫し親友を見つめていたが、小動もしないその覚悟の前に、両手を上げてお手上げのポーズをせざるを得なかった。
「言いだしたら自説を曲げない君らしいよ……残り少ない余生を孫たちに囲まれて静かに過ごすという選択だってあるだろうにねぇ~~本当に君も僕も馬鹿だとしか言いようがないね! どうしてあんな朴念仁の達也なんかに肩入れしているのか、まるで手の掛かる悪ガキだよ彼は!?」
「そうですねぇ~~主人に『新しい従卒だ!』と引き合わされたのが運の尽き……放っておけないというか……妙に爺と婆の気を引くのが上手な子なんですよ」
アナスタシアが溜息交じりにそう言うと、ヒルデガルドは不満げに頬を膨らませて抗議する。
「むむっ! ボクまで婆さん扱いしないで欲しいものだね。見給え! この美貌と愛くるしさをッッ!!」
「三百歳をとっくにオーバーした婆さんの若作りでしょう?」
「があ~~んッ! ショックだよ! 傷ついたよ! 立ち直れないよん!」
見苦しくも長ソファーの上を転げ回るヒルデガルドと、その様子を無視して紅茶を楽しむアナスタシア。
暫し駄々を捏ねていたヒルデガルドは直ぐに飽きたのか、ソファー座り直すや、澄まし顔の親友に問うた。
「まあ、冗談はこれぐらいにして……つまり君はボクにも力を貸せと言いたいのかい?」
「ふふっ、殿下らしくもない。本当は好きに暴れられる舞台を見つけて喜んでいるのではありませんの?」
その意地の悪い指摘にヒルデガルドは顔を顰めて見せたが、それはポーズに過ぎなかったようで、実にあっさりと親友の言葉を肯定したのである。
「まあ、いいさ。ボクにとってはどんな事でも泡沫の夢だ……惚れた男の為に頑張ってみるのも悪くはなかろうさ。それに色々と頼まれている案件に目途がつきそうだしね……」
親友であるマッドサイエンティストの了承を取り付けたアナスタシアは、表情を和らげて安堵の吐息を漏らす。
ヒルデガルドの常識外れの科学力は、彼女の秘策を完成させるには必要不可欠な切り札だったからである。
「計画の第一歩は最高評議会を掌握し、達也に彼の称号を与えるよう承認させなければなりませんが……これは難しくはない筈です」
「クックックッ……この二年間に達也が積み上げた、驚異の実績だけでも問題はないさ。厄介なのは七聖国の代表たちの大貴族としてのプライドだが……万年議長のグスタウス王以外にボクと君に面と向かってモノを言える輩なんかいやしないよ。確かに簡単な儀式に過ぎないね」
肩を竦めて嘆息するヒルデガルドに、アナスタシアが訊ねる。
「そんな些事より重要なのは、白銀艦隊と想定される敵との戦力差ですわ」
やや不安げな顔をするアナスタシアに、ヒルデガルドは意味深に口角を吊り上げ薄ら笑いを浮かべた。
「達也は優秀な戦略家だからねぇ。既に何かしらの対処方は練っているだろうが、戦いは一戦で終わる訳じゃない。常識的に考えて強大な戦力を誇る相手が目白押しだろう。ならば、多少は《神様からの御褒美》があっても良いんじゃないかい? んっ? そうだろう、シア?」
「それでは殿下。御助力いただけますか?」
「勿論さっ! 趣味で開発したスーパー技術は全て提供しようじゃないかぁっ! ただし……供与するのは達也個人にだよ。銀河連邦やその他の勢力とは一切取引はしない……だから、分かっているよね、シア?」
「はい。開発と製造に関わる技術者と作業員は、ランズベルグ皇国が身元が確かな者を派遣いたしましょう……連邦評議会が何か言ってくるならば……叩きのめして黙らせるだけですわ。政争でも戦争でも受けて立つ覚悟はできております」
満足できる力強い返答を聞いて、ヒルデガルドの顔が喜色に歪んだ。
「それを聞いて安心したよん。戦争の常識が変わるよ……シア。白銀無敵艦隊! う~ん、良い響きだよぉッ! ゾクゾクするねぇっ! まあ、達也は喜びもしないだろうがね」
白銀達也という人間の性格を誰よりも良く知っているふたりは、顔を見合わせて笑い合うのだった。
その後は幾つかの案件を話し合い、互いに意思疎通を果たしたと確認して密談はお開きになったのである。
弛緩した空気が室内を支配するなか、数名のメイドが料理や飲み物をテーブルに並べていく。
ここからは気心知れた友人同士の会話を楽しむ時間だったのだが、ヒルデガルドから衝撃的な情報を知らされたアナスタシアは、思わず表情を硬くして問い返してしまった。
「えっ? 達也に憎からず想っている女性ができたと?」
「あぁ……とは言っても、お互いに意識していますといった程度の可愛い恋だけどねぇ~~これからどうなるにせよ、自堕落で野暮天の達也には勿体ない女性だよん……どうしたんだいシア? 急に険しい顔をして?」
アナスタシアは暫し黙考し、小さく溜め息を漏らして口を開いた。
「いえ……実は今回の昇進に合わせて、達也に嫁を娶らせようと考えていたのですが……」
「ほうっ? それは初耳だが、少しばかり遅かったねぇ~~まあ、このまま無事にあのふたりが結ばれれば、何も心配する必要はないさ。因みに君が薦めようとした女性は何処の誰なんだい? どこぞの御令嬢かな?」
「……うちのサクヤを……と考えていたのですが」
『ぷうぅーーッッ!!』
ヒルデガルドはその返答に仰天し、口に含んでいたワインを盛大に噴き出してしまった。
「サ、サクヤって……君の所の第一皇女じゃないか! 先日代替わりして新皇王が即位したばかりなのに選りにも選って……新王は、いや、何より皇女殿下は納得しているのかい?」
サクヤ・ランズベルグは今年十八歳になる正真正銘の皇国皇女である。
【朝露の妖精】の愛称で広く国民に慕われる美しい姫君で、七聖国の王族をはじめ、連邦所属国家の大貴族や大富豪からの求婚が後を絶たないのでも有名だった。
ヒルデガルドの問いに、アナスタシアは眉間を押さえて事情を説明する。
「成人して二年……並み居る求婚者を片っ端から断り倒しているので、何か理由があるのかと訊ねてみれば、達也が好きだと言うのですわ……あの娘は九歳の折に、外遊の途上で一部暴徒による襲撃を受けて拘禁されたのですが……」
「あ、あぁ、聞いた覚えがあるよ……確か連邦の……いやガリュードの配下が単身で救出したんじゃなかったかなぁ……ま、まさか?」
「そのまさかですわ……並み居る賊徒を薙ぎ倒して、サクヤを救い出したのは達也なのです。あの日以来、他の男は眼中にもなく……それなのに気弱な性格が災いしてか、偶に会っても陸に言葉も交わせないという為体で……でも、達也にお相手ができたと知ったら、あの娘がどれほど落胆するか……」
肩を落として悄然と溜息をつくアナスタシアとは対照的に……。
「シア、諦める必要はないじゃないか……クフフフ……」
ひどく悪い顔をしたヒルデガルドは、悪戯を思いついた悪ガキの様にほくそ笑むのだった。




