第十二話 日雇い提督は決断す ④
土曜日早朝、青龍アイランドを目指して北上中だった大型で強い台風は、何の前触れもなくその脚を速めた。
早ければ昼過ぎには暴風圏に入るという注意報が島内全域に発令され、このまま進路が変わらなければ、深夜には直撃する可能性が高いとの見方が強まっている。
伏龍も予定を早めて正午前には訓練を中止しており、上海シティーに居を構えている教員や職員達は、既に帰路に就いた後だ。
練習艦リブラと小型航宙母艦ニンガルは、銀河連邦軍士官が当直で詰める手筈になっており、達也が留守中の折衝役を託されているクレアは、その報告を受けて胸を撫で下ろした。
また、留学名目でやって来たアイラとは既に打ち解けて良い関係を築いており、達也が不在の中、訓練のサポート役として活躍してくれる彼女は非常にありがたい存在だった。
然も、アイラはグラス教官嫌いの志保とも意気投合してしまったらしく、今日は北部港湾区にある腐れ縁の自宅へお泊りするのだと、先だって燥ぎながら帰宅するふたりをクレアは見送ったばかりだ。
達也から頼まれていた案件を全て片付け、帰宅しようと校舎を出た時にはかなり強い風が吹き始めていて小雨もぱらついていた。
時計を見れば午後一時を少し過ぎており、冷蔵庫の中身がやや寂しい状態になっていたのを思い出す。
(さくらのお昼ご飯は用意しておいたけれど……もし白銀さんが無理をして御戻りになられたら……食材が少し足らないかしら)
昨日の内に保育園は休園が決まっていたので、外に遊びに行かないようにと愛娘には釘を刺したので、安心してスーパーマーケットに立ち寄ったのだが……。
いざ帰宅して見れば自宅にさくらの姿はなく、隣の達也の部屋にも姿が見当たらない。
必然的に残された選択肢は一つしかなく、クレアは娘の安否に胸を衝かれてしまい、顔色を失って狼狽するしかなかったのである。
「そ、そんな……まさか、こんな嵐の中を外に出掛けたというの?」
時間は午後二時を過ぎていて、雨風は次第に、そして確実にその激しさを増しており、胸中に拡がる嫌な予感を懸命に振り払ったクレアは、弾かれるように自宅を飛び出して雨中の街へと駆けだすのだった。
◇◆◇◆◇
宇宙港の混雑で月基地からの出立が多少遅れはしたものの、足の速い高速護衛艦を用意して貰ったお陰で、何とか午後五時過ぎには地球の大気圏に突入できた。
「予定より少し遅れてしまい申し訳ありません。閣下」
ベテランの艦長が詫びるが達也は意に介した風もなく、笑顔で艦長以下乗員を労う。
「そんな事はないさ。諸君らこそ急な航海に駆り出してしまってすまなかったな。どうやら今日中には家に戻れそうもないし……今夜は乗員全員でシンガポール港の繁華街で憂さ晴らしでもするか? ハイヤー代わりにした御詫びに奢るからさ」
メインブリッジの乗員達がガッツポーズをして歓声をあげれば、艦長もニヤニヤと口角を吊り上げて礼を言う。
「ありがたい御申出ですが、大丈夫ですか? 往復の航海だけでしたから最低人員しか乗せていませんが、それでも二十人はいますよ?」
「下士官や兵も入れてだろう? 構わないさ」
口元を綻ばせて胸を張り、強気の発言をした時である。
胸ポケットの携帯端末が激しく振動を繰り返し、何事かとモニターを見た達也は、そこに愛しい女性の名前を見つけて怪訝な顔をした。
クレアが私的な用件で任務中の人間に連絡をするなど考え難く、得体の知れない不安に襲われた達也は、艦長に断りを入れてブリッジを出る。
そして、その不安が的中していたのを直ぐに知るのだった。
『さ、さくらが、さくらが外出したまま、まだ帰って来ていないのですっ!』
嗚咽混じりのくぐもった声……。
その悲痛な彼女の声音から強い切迫感が伝わって来る。
「そっちは台風の暴風圏に入っているのだろうっ!? そんな中をいったい何処に出掛けたというんだい?」
『わ、分からないのですっ! 帰宅してあの娘がいないのに気付いて……直ぐに方々を捜して廻ったのですが、保育園や公園の周辺、商店街にもいないのです! 貴方が今日帰るかもしれない……昨夜あの子にそう伝えたから……わ、私の所為で……私のっ!』
愛娘が見つからず、不安と自責の念に苛まれて泣き伏すクレアに、達也は努めて優しい口調で語り掛けた。
「北部の港湾区の旅客船発着ターミナルか空港は? もしかしたら俺の帰りを待つつもりで……?」
『いいえっ! 港も空港も正午前に閉鎖されていて既に無人でした。居残っていた警備の方にも尋ねましたが、子供など見てはいないと……もう、どうしたらいいのか、もしも、さくらの身に何かあったら……』
脳内の記憶をフル稼働させて少女が行きそうな場所をリストアップした達也は、少ない選択肢の中から一つの心当たりに辿り着いた。
「……ベイサイド・エリアは? 離島向けの定期便ターミナル周辺っ!?」
『い、いえ、あそこにもいませんでした。然も、北部港湾区とは違って、離島便は早朝から全便欠航が決まっていましたから……』
クレアの言葉を遮って叩きつけるように言葉を返す。
「違うっ! 客船のターミナルじゃなく、マリゾンに併設されている子供用の屋外遊戯施設だ! あそこのメリーゴーランドがあの娘のお気に入りで、何度も連れて行って遊んであげた! あそこならば、少なくも風雨は凌げるはずだ!」
『あっ! は、はいっ! ありがとうっ!……』
「ちょ、お、おいっ! もしもし、もしもしっ! くそっ、切りやがった!」
気持ちばかりが急いて切羽詰まっているらしく、リダイヤルしても一向に繋がらない。
(嫌な予感がする……くそっ! やるしかないかっ!)
達也は足音も荒々しくブリッジに戻るや、大声で航海士を詰問した。
「現在位置と高度、それと本艦の進行方向はどうなっている?」
「は、はい? げ、現在はアフリカ東岸マダガスカル島上空二万m。シンガポールへ向けて北東寄りに進路をとっておりますっ!」
「分かった、感謝するっ! 艦長っ!」
必要な情報を得た達也は、何事かと面食らっている艦長に、懐から取り出した財布を乱暴に投げ渡す。
「すまないが野暮用が出来た! こいつで部下を慰労してやってくれ。ケチケチするんじゃないぞ! 俺の奢りなんだからなッ!」
そう言い捨てた達也は再びブリッジを飛び出した。
背後で艦長が何やら叫んでいるが気にしている暇はなく、達也は左手の銀の腕輪に挑発的な言葉を投げかける。
「事情は分かっているよな? 直ぐにあの娘の所へ戻らなきゃならない。おまえさん達のお気に入りのさくらの為だ。出来ないとは言わせんぞっ! 失敗しても俺が道連れになってやるから、安心して跳べッ!」
ブリッジから後を追って来た艦長が目にしたのは、姿が揺らいだと思った途端、一瞬で掻き消えた司令官の残像だった。
◇◆◇◆◇
さくらは荒れ狂う風雨を避けて、お気に入りのメリーゴーランドの中心に立つ、回転支柱の根元に蹲って震えていた。
接近する台風の為に保育園は休みになり、危険だから外出しないようにとママにきつく言われていたが、達也が帰って来るのだと思えば居ても立っても居られなくて、港まで迎えに行こうと自宅を出たのである。
だが、さくらが向かった先は北部の港湾ターミナルではなく、達也に連れられて何度となく訪れた遊園地傍の客船ターミナルだった。
幼いが故の勘違いに他ならないが、無人のターミナルには入れないと知って落胆したさくらは、諦めて自宅に帰ろうとしたのだが……。
突然大粒の雨が降り始めたかと思えば直ぐにその激しさを増し、あっという間にずぶ濡れになったさくらは、大きな傘の形をしたお気に入りのメリーゴーランドへと逃げ込んだのだ。
何時もならば華やかな音楽と煌びやかな七色の照明に彩られ、優雅に回転している馬車や動物を模した台座も、今は死んだように沈黙して動かない。
此処なら巨大な傘状の屋根のお蔭で、叩きつけるように降り注ぐ激しい雨飛沫だけは避ける事ができた。
しかし、激しく荒れ狂う暴風の猛威と、忍び寄って来る闇の恐怖は防ぎようもなく、幼いさくらは恐怖と不安に苛まれながら蹲って耐えるしかない。
(……こわいよぉぉ、さむいよぉぉ……助けてよぉぉ、白銀のおじちゃん……)
雨に濡れた身体は吹き付ける風によって次第に体温を奪われていく。
膝を抱え顔を埋めるようにして身体を小さくし、少しでも熱を逃がすまいとする少女。
脳裏に思い浮かべるのは、優しいママと大好きな達也お父さんの顔だった。
知り合ってまだ二ケ月にもならない、お隣に越して来たおじちゃん……。
出会った時から他人のように思えなくて、すぐに好きになった人……。
一緒に夕御飯を食べるようになり、毎日のように遊んで貰って……。
唯一『お父さん』と呼べる大切な人……。
此処に留まっているのも、もしかしたら達也ならば迎えに来てくれるのではないか……そう思ったからに他ならない。
それは儚い願いではあったが、少女にとっては唯一の希望だったのだ。
(白銀のおじちゃん、早くさくらを見つけてよぉ~迎えに来てよぉ~さむいよぉ、こわいよぉ……さびしいよぉぉぉ)
心の中で哀哭の叫びを上げた時だった。
黒い影がメリーゴーランドに転がり込んで来たのである。
まるで闇を掻き分けて現れたかのようなその人物を見て、さくらは思わず歓声を上げてしまう。
「お、お父さんっ!? 達也お父さぁ~んッッ!?」
達也が迎えに来てくれたのだと思ったさくらは、弾かれたかのように立ち上がったのだが……。
「あぁ~~ん? 何だい、お嬢ちゃん? こんな所でパパと待ち合わせかい?」
末枯れた声を吐き出し、濁った瞳でさくらを見ているのは、汚れた作業着を纏った見知らぬ中年の男だった。
その手にはウイスキーの瓶が握られており、ずぶ濡れのぼさぼさの長髪から雨水を滴らせる男は、昏く淀んだ不気味な目で、少女を値踏みするかのように見つめている。
達也とは似ても似つかない風貌の男に睨め付けられたさくらは、寒さとは異なる感情に苛まれて身体を震わせるしかなかった。
「お嬢ちゃぁ~ん。オジサンと一緒に暖めっこしようかぁ~~ほら、こっちにおいでぇ~~ぐへへぇ」
醜く歪んだ口から薄気味悪い声を漏らし、狂気を孕んだ形相で手を伸ばして来る男の異様さに耐えかねたさくらは、震える足で床を蹴っていた。
そして、無我夢中で荒れ狂う嵐の闇間に飛び出したのである。
(た、たすけてっ! たすけてよぉっ! 達也お父さんたすけてぇ──っ!)
全身を激しい雨で叩かれるさくらは、ずぶ濡れになるのも構わず懸命に闇の中を駆けるのだった。




