第十一話 ハッピーバースデーと希少石 ③
「現状では辛うじて離着陸と飛行中の安定姿勢を維持できる程度か……」
火曜と水曜の両日に行ったシミュレーション訓練で、蓮と詩織の操縦技量を見た達也の地味に渋い感想がこれだったが、落胆している本人達とは裏腹に、教官としては不本意な結果だとは思っていなかった。
(教官が同乗する実機を使用した飛行訓練が十時間だ……それで、この結果ならば上々だ。あとはヴァーチャル訓練で量をこなして技量を磨き、実機を使って現実の感覚を身体に叩き込む……それで行くしかあるまい)
達也は小さく頷いてから、整列する教え子達に視線を向けた。
「俺が連邦軍の所属であるために時間外の指導を禁じられ、お前達に充分な訓練をさせてやれなくて本当に申し訳なく思っている。だが、学ぶべき事が多岐にわたる君達にはそれで済む問題でもないだろう……そこで、明日の休日から自主的な補習を解禁しようと考えている」
その言葉を受けた教え子達の顔に喜色が浮かぶ。
「お前達の識別カードを、遠藤教官やローズバンク教官にお渡ししてある物と同じ仕様に書き換えてやるから、休日や放課後に納得いくまで自主練に励むといい」
願ってもないその提案に蓮達は互いに顔を見合わせて喜びを露にしたが、そんな彼らの反応を片手を上げて制した達也は、念押しするかのように訓示を続ける。
「但し、この機械が精神や神経器官に多大な負荷を掛けるのは承知の通りだ。君らもこの一ヶ月間の訓練で数字的には随分と安定したが、それでも無理は禁物だ……分かっているな?」
「「「「はいっ! 承知しております!」」」」
「うんっ! 放課後の自主練は二時間まで。休日は午前と午後に各二時間づつとする。但し、インターバルは最低二時間は取ること。訓練の記録は残るから報告書で誤魔化しても無駄だ。だから、必ず厳守するように」
「「「「はいっ! 了解であります!」」」」
「それから、同級生や下級生でヴァーチャルシステムに興味のある生徒がいたら、積極的に体験させてやって良い。艦内の警備システムはダウンさせておくが、このフロアーより上層には入れないよう隔壁をロックしておく。だから気軽に友人らを連れて来て構わないぞ。後部のドリンクバーは俺の奢りだ。自由に使って良し!」
その計らいに歓喜した教え子達は、身体中から熱気を発散させているかの様で、彼らの向上心とヤル気を肌で感じた達也は思わず笑み崩れてしまう。
「あぁ~。最後になるが、真宮寺と如月は戦闘機の訓練は基本的に補習時間でやるように。当分は仮想空間での訓練で技術や機体の機動を体感しなさい。学校長から軍に掛け合って戴き、実機での訓練ができるよう手配をして貰うつもりだから」
他に幾つかの注意を与えてから連休前の授業は終了したが、自分の目論見が順調に推移しているのを達也は確信して嬉しく思った。
しかし、その状況が引っ繰り返る事態が発生するとは、この時の彼には思いもよらなかったのである。
◇◆◇◆◇
光量が絞られて薄暗くなったリビングを、幻想的な灯火の揺らめきが彩り、目の前のテーブルには、多彩な季節の果物をふんだんに使ったフルーツケーキが主役の如く鎮座し、その周囲にはクレアお手製の料理が所狭しと並んでいる。
すぐ横に座っているクレアと正面の達也お父さんが歌うバースデーソングに合わせて、ケーキの上の五本のローソクの炎が揺れ踊っているように見えるさくらは、心から嬉しいと思わずにはいられなかった。
世界中の全てが祝福してくれているように思え、嬉しくて、嬉しくて……自分は最高に幸せなのだと強く感じていたのだ。
(おめでとうっ! さくらちゃん。よかったね……)
そして、その幸せを与えてくれたのが、頭の中に語り掛けて来る声の主なのを、さくらは知っている。
(うん、うんっ! ありがとうっ! 本当にありがとう!)
声にしなくても想いが伝わる相手であり、同じ身体を共有するふたつの魂。
切っ掛けは達也との出逢いだった。
ママに連れられて来た見知らぬオジサン。
だけど、その人の顔を見た途端……。
(この人がパパだよ……さくらちゃんのパパだよ)
そんな声が頭の中に響くや、同時に強く背中を押された気がしたのだ。
そして、気付いた時には『パパ!』と叫んで達也に抱きついていた。
その日以来《白銀のおじちゃん》との絆を大切に育み、今では本当の父親の様に慈しんでくれる存在になっている。
今日の幸せを齎してくれた謎の声の主との交流は、あの日以降少しづつではあるが、その機会を増やしていた。
意識下の交流では明確な意思を伝えるのにも苦労し、歯痒い思いばかりが募るが、それでもさくらは忌避する所か、声の主に積極的に呼び掛け、理解し合おうと努力し続けたのだ。
その想いが通じたのか、今では短い時間なら会話を交わせるまでに意志の疎通を果たしている。
(ほら。さくらちゃん。お歌が終わるよ。お誕生日おめでとう!)
(ありがとうっ! ありがとうねっ! ユリアお姉ちゃん!)
ユリアと名乗った同じ魂を持つ少女からの祝福に、さくらは満面の微笑みで応えるのだった。
◇◆◇◆◇
「「ハッピーバースデーッッ!! お誕生日おめでとうっ! さくら!」」
達也とクレアが喜色に満ちた顔で声高らかに祝福すると、大好きな二人の想いを胸いっぱいに吸い込んだ本日の主役は、その声を合図に母親お手製のケーキの上で揺れる五つの炎を一気に吹き消して見せた。
そして『どうだぁっ!』と言わんばかりに精一杯胸をそらすや、弾けんばかりの笑みを披露したのである。
すると、御褒美とばかりにクラッカーが立て続けに鳴らされ、達也とクレアから盛大な拍手と口笛の祝福を受けた少女は、歓喜に無垢な笑みを深くするのだった。
パーティーの準備に朝から孤軍奮闘を余儀なくされたクレアは、それらの邪魔にしかならない達也とさくら、そしてつまみ食い常習犯のティグルを早々に追い出して料理の仕込みに専念した。
それならばと転移してリブラに移乗した達也は、搭載されている連絡シャトルにさくらとティグルを乗せ、空の散歩へと洒落込んだのである。
公私混同だと責められそうなものだが、燃料代さえ払えば装備を無断使用しても五月蠅くは言われないのが、連邦宇宙軍の良い所(?)だ。
何処までも突き抜けるような蒼穹と白い雲のコントラスト。
そして眼下に拡がる大地と大海の雄大な迫力を生まれて初めて目の当たりにしたさくらは、目を見開いて歓声を上げ大いに喜ぶのだった。
「ありがとうっ、達也お父さん! さくら嬉しいよっ! 最高に嬉しいプレゼントだよぉッ!」
これがプレゼントだと思っている少女の勘違いを、敢えて達也は正さなかった。
そうすれば、あの宝飾品がサプライズプレゼントとして喜んで貰えるのではないかと考えたからだ。
そんな事を思い出していると、微笑むクレアが綺麗な布袋を取り出した。
「それじゃぁ、五歳になったさくらにママからのプレゼントよ。お誕生日おめでとう。元気で良い子に育ってくれて本当にありがとうね」
褒められて嬉しいのか両の頬を赤く染めて破顔するさくらは、綺麗にラッピングされた絵柄入りの布袋を受け取るや、それを抱き締めて満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうッ、ママ! ねえ、開けてもいい? いいでしょう?」
クレアが微笑みながら頷くと、さくらは歓声を上げ器用な手つきで外装のリボンを解き、布袋に入っていた贈り物を取り出した。
これから迎える夏にお誂え向きの薄地のワンピースが二着。
白をベースにしてお洒落なフリルをあしらった物と、ピンク地に花柄のプリントが目に鮮やかな可愛らしい物。
そして、それぞれの着衣に合わせた鍔付きの帽子が二つ。
さくらはそれらを大層気に入ったようで、瞳をキラキラさせて喜び、母親に抱きついて礼を言うのだった。
(さすがに母親なだけはあるなぁ。二着ともさくらちゃんに良く似合いそうだ)
母娘の仲睦まじい様子に羨望の眼差しを向けると、その視線に気付いたさくらがぱたぱたと駆け寄って来るや、ワンピースを身体に当て、自慢げな顔でポーズらしき体勢を取るではないか。
どうやら感想を求めているらしいと気付いた達也は、幼くてもこういう所は立派な女性なんだなと、妙に可笑しくなってしまう。
だから、少々意地の悪い褒め言葉を口にしてみたのだが……。
「本当に良く似合っているよ。これはぁ~ママのセンスを褒めるべきか、さくらの可愛らしさを褒めるべきか迷ってしまうね。ふふふ」
すると少女はその言葉が御不満だったらしく、ぷくぅ~~と頬を膨らませて文句を言いだした。
「うぅ~~っ! 達也お父さんは意地悪だぁッ! そこは絶対に『さくらのビボウにはかなわないね』って言ってくれなきゃ駄目なのぉッ!」
何処で覚えて来たのかは知らないが、五歳の少女の口から出た想定外の台詞に、達也とクレアは同時に噴き出してしまう。
だが、そのお陰で肩から力が抜けたからか、随分と気持ちが楽になった達也は、ふたりに気付かれない様に苦笑いせざるを得なかった。
こんな幼い少女に誕生日プレゼントを贈るなど滅多にあるものではないし、せいぜいラインハルトの長女キャサリンに数回贈り物をした位だ。
だから、知らず知らずのうちに酷く緊張していたらしいと気付き、そんな自分がおかしくて仕方がなかったのである。
だが、プレゼントを渡すなら今しかないと思った達也は、何故笑われているのか分からないさくらの御機嫌が斜めに傾く前に、その小さな身体を抱き上げて太腿の上に座らせてやり、先程宝飾店で受け取ったばかりの品物を次元ポケットから取り出した。
赤を黒を基調にした小さな手提げの紙袋がふたつ……。
その中の一つである白いリボンが結ばれている方の紙袋を、キョトンとしているさくらに手渡す。
「えっ? こ、これって……」
一緒に誕生日を祝ってくれるだけで良いと思っていたさくらは、プレゼントまで用意してくれたのだと知って戸惑い、上目遣いな視線で遠慮がちに訴えた。
「さくらはたくさんプレゼントを貰っているよぉ~~お空の散歩にも連れていって貰ったもん。だから、これ以上は……」
「こんな素敵な誕生パーティーに招待して貰ったのに、手ぶらでは寂しいじゃないか……僕もさくらには喜んで貰いたいからね。だから遠慮なく受け取ってくれると嬉しいな」
そう言ってさくらの頭をひと撫でしてやると、少女はパッと弾けんばかりの笑みを浮かべて瀟洒な手提げ袋を受け取ったのである。
そんな愛娘の喜ぶ様子を見てクレアも嬉しく思ったのだが、達也には必要以上に散財させてしまったようで申し訳なく思ってしまう。
それ故に改めて礼を言おうとしたのだが、それよりも先にもう一つの紙袋を目の前に差し出されたクレアは、困惑した視線を達也へと向けた。
「これは君に……こういう物を独身女性に贈るのは無粋な行為だと分かってはいるんだが……どうか受け取って貰えないかな? さくらちゃんと御揃いの品を選んでみたんだが……」
まさか自分にまでプレゼントを用意してくれていたとは思いもしなかったクレアは、どんな顔すれば良いのか分からずに戸惑いを露にする。
「わ、私にですかっ!? そんなお気遣いなど……」
差し出されたプレゼントを前にどうするべきか逡巡するクレアだったが、何時もとは違う達也の様子に気付いて、おやっ? と思った。
酷く照れているのが一目瞭然で、取り繕った顔をしていても、額には薄く汗が滲んでおり、頬には微かに朱がさしているのが見て取れる。
だからクレアは気付いてしまったのだ。
(女性に贈り物をするなんて、あまり慣れていらっしゃらないのね)
何処か決まりが悪そうな彼の様子が可笑しくて、思わず口元を綻ばせてしまうと、ふっと肩から力が抜けて気持ちが軽くなった。
すると、胸の中にじわじわと温かい感情……喜びが込み上げて来るのが分かり、クレアはそんな自分に少しだけ呆れてしまう。
(夫以外の男性からの贈り物なんて、煩わしいとしか思えなかったのに……)
彼女の気を引こうとする多くの男性からの贈り物をクレアは全て断っていた。
謂れなき物を受け取る気にはなれなかったし、亡夫以外の男性に恋心を懐くなど二度とない……。
そう頑なに彼女自身が思い込んでいたからだ。
にも拘わらず、目の前の白銀達也という男性から贈り物をされたという事実に、心をときめかせている自分がいる。
だが、それも仕方がないとクレアには分かっていた。
胸に秘めた想いとはいえ、好意を懐き、想い魅かれている相手からのプレゼントなのだから。
(御揃いの品物だと仰るのなら、受け取らないわけにはいかないわよ……ね?)
暫し逡巡した末に心の中でそう言い訳をしたクレアは、差し出された瀟洒な手提げ袋を震える手で受け取り、柔らかい微笑みを浮かべて感謝の言葉を返した。
「あ、ありがとうございます……娘だけではなく、私なんかにも気を遣っていただいて……」
「いや、君には心から感謝しているんだ……今こうして笑っていられるのは間違いなく貴女のお蔭だから……こんな物でその厚意に報えるとは思えないが……」
しどろもどろになりながらもそう言って頭を掻いた達也が、プレゼントを手渡せて安堵したからか満足げに微笑んでいる。
しかし、如何にも責任は果たしたと言わんばかりに自己完結するその様子を見たクレアは、そんな達也が憎らしく思えて仕方がなかった。
(私の心臓は早鐘を打ち、その音がやけに五月蠅く耳朶に響いているというのに……自分だけ平気な顔をしているなんて……本当にずるい人)
言葉にできない想いを持て余して心の中で悪態をつくのだが、上気して朱を帯びているであろう顔を見られるのが恥ずかしくて、達也から視線を外して俯いてしまうのだった。
だが、そんな大人のやり取りなど眼中にない少女はと言えば……。
「うわあぁ──っ! すっごくきれいだよぉ!」
手渡されたプレゼントに興味津々のさくらは、好奇心に急かされ手提げ袋から小箱を取り出すや、手早くラッピングを解く。
そして最後に瀟洒な銀ケースの蓋を開け、桜を模した煌びやかな髪留めを目にした途端に歓声を上げたのだ。
五歳の少女であっても、宝石の輝きに魅了される女性であるのに変わりはないらしく、逆に達也の方が面食らうほどだった。
そして、喜びを露にするさくらは母親に駆け寄るや、重ね合わせた掌に乗せた銀製のケースをクレアの眼前に突きだして燥ぐ。
「ママ、ママぁ! 見て、見てぇぇ! キラキラで凄いのぉ!」
愛娘の手にある宝飾品を一目見ただけで、クレアは息を呑んでしまう。
高級なプラチナが惜しげもなく使われた台座と、その上に拡がる桜の枝。
そして桜の花弁を模した無数のピンクサファイアの輝きが、その枝を見事に彩っている一品。
「こ、こんな高価なものを……」
一驚したクレアが困惑した眼差しを向けると、少しだけ口元を綻ばせた達也が、照れ臭そうにはにかみながらも素直な想いを吐露した。
「この娘も五歳だ……母親と御揃いのアクセサリーぐらい持っていてもおかしくはない年齢だと思ってね。アーケード街の宝飾店のショーウィンドウに展示してあった品なんだが……桜のデザインが上品でお洒落だったから、君達に似合うだろうと思ったんだ」
「で、でも、こんな高価な物をいただくわけには……」
さすがに躊躇って声を震わせるクレアに、達也は表情を改めてから少しだけ頭を下げて懇願する。
「金に飽かせて君たちの歓心を買おうと思ったわけじゃない……仕事しか能がない俺にはこんな野暮な恩返しが精一杯だ。だが、君さえ不快でないのなら……なにも言わずに受け取ってはくれないだろうか?」
クレアは散々迷ったものの、結局のところ達也の懇願を断れなかった。
折角喜んでいる愛娘を落胆させたくはなかったし、なによりも彼女自身がそれを望む気持ちを否定できなかったから……。
「そ、そんな風に仰らないで下さい……こんな素敵なプレゼントをいただいて、私も嬉しいですわ……ありがとうございます、白銀さん」
束の間の逡巡の後、クレアは丁寧な謝意の言葉と共に達也の好意を受け入れたのである。
その母親の言葉を誰より喜んだのは他でもないさくらだった。
今度こそ遠慮なく残ったもう一つのプレゼントの封を解き、真紅のネックレスに瞳を輝かせて更に歓喜する。
さすがに呆れた視線で達也を見るクレアだったが、当の本人は素知らぬ顔で燥ぐさくらに石の由来を説明しており、自制する気は微塵もない様だった。
クレアは微苦笑を浮かべながらも、大喜びする愛娘を促す。
「さあ、さくら。ママが付けてあげるから……こっちにいらっしゃい」
歓喜に笑顔を弾けさせる愛娘を抱きとめて隣に座らせ、流麗な黒髪を櫛で梳いてやり、項の辺りで髪を束ねて桜の髪留めで整え、仕上げに真紅のペンダントをつけて完成。
装飾品を纏った自分の姿を鏡で見たさくらは始終ご満悦だった。
おまけに『ママの御飾りはさくらがやってあげるぅ!』と言って、恥ずかしがる母親を自分と同じ様に飾り付けて歓声を上げた。
「わあぁ~~! ママ、とってもきれいだよっ! ねっ、お父さんっ! お父さんもそう思うよねっ?」
「ああ。とても良く似合っている。本当に綺麗だね」
達也からの素直な賛辞に思いっきり照れたクレアは耳まで赤くして抗議する。
「し、白銀さんっ! む、娘の前で揶揄わないでくださいっ! は、恥ずかしいのですからぁっ!」
だが、その抗議は軽く受け流された挙句、至極真面目な顔をした達也からの返答に、羞恥心を煽られたクレアは取り乱して益々顔を赤らめる始末。
「揶揄うなんて心外だ。普段の質素な装いも素敵だが、今の君は凄く綺麗で輝いている……俺はそう思うよ」
無自覚ジゴロの明け透けな称賛にクレアは半ばパニックになってしまう。
「う、美しいってっ? み、見え透いたお世辞を言わないでください!」
「うわぁぁ~~~ママ、お顔が真っ赤だよぉ? 大丈夫ぅ?」
おまけに愛娘までもが心配する素振りとは裏腹に、顔を覗き込んではニマニマと笑っているではないか。
その仕打ちに、クレアは赤くなった顔を険しくしてふたりを睨むしかない。
「うぅぅ~~! さくらの意地悪! 白銀さんの馬鹿っ! もう知りませんッ!」
最後には羞恥に耐え切れず、そっぽを向いてしまうクレアだった。
◇◆◇◆◇
「んぁ、むにゃ……はぁぅぅ~~すぅ……すぅ……」
お腹いっぱいになるまで美味しい料理とケーキを堪能したさくらは、相棒の幼竜が食べ過ぎでリタイアした後も、ゲームだお絵描きだと燥いで達也から離れようとはしなかった。
しかし、昼間の遊覧飛行からパーティーに至るまで一日中興奮しっぱなしだった所為か、時計の針が午後九時を過ぎる頃には、達也にしがみ付いたまま可愛らしい寝息を奏で始めてしまう。
「もう、この娘ったら……いくら連休中だからといって、女の子なのにお風呂にも入らないで……」
キッチンの後片付けを終えてリビングに戻って来たクレアは、呑気な愛娘の姿を見て呆れたように溜息を漏らしたが、さくらの額に掛かった前髪をなおす達也は、その寝顔に優しい眼差しを向けて擁護してやる。
「着慣れない対Gスーツを装備したから疲れたんだよ……寝入りばなを起こすのも可哀そうだし。後で着替えさせればいいさ」
「本当に貴方はさくらに甘々です。もう少し厳しく接して貰わないと、母親としては、この子の将来が不安になりますわ……はいっ、これで大丈夫ですからベッドに寝かせてやって下さい。頃合いを見て私が着替えさせますから……」
愛娘から髪留めとペンダントを外して銀ケースに仕舞ったクレアは、軽く小言を口にしながらも笑顔でそう懇願した。
お安い御用だと引き受けた達也は、さくらとカーペットの上で大の字で寝ている駄目幼竜を子供部屋まで運び、ベッドにそっと横たえてやる。
「おやすみ……いい夢をみるんだよ」
そして、そう言葉を掛けて静かにドアを閉めた。
リビングに戻るとコーヒーの芳醇な香りに出迎えられ、並んでソファーに腰を降ろした達也とクレアは、カップを片手にホッと一息つく。
暫し心地良い空間に身を任せていたふたりだが、クレアが姿勢を正して軽く頭を垂れた事で会話が復活する。
「本当にありがとうございました……何から何までお気遣いいただいて。さくらも本当に喜んでいました……あの子にとって今までで最高に素敵な誕生日だった筈です。全て白銀さんのお蔭ですわ」
「そんな事はないさ……実は、御揃いのプレゼントも一目で気に入って勢いで購入したは良いが、断られる可能性もあると後で気付いてね。いやぁ~焦った焦った。だから、君には受け取って貰えないんじゃないかと思ってドキドキしていたんだ」
自分を茶化す達也の表情から、彼が心から安堵しているのを見て取ったクレアは、知らず知らずのうちに優しげな視線を向けていた。
虚勢などには無縁であり、殊更に自分を良く見せようともしない……。
そんな謙虚な達也の姿勢が心地良く感じられ、気が付けば彼女自身も、大らかな気持ちで自分の過去と今を見つめられる様になった。
(本当に不思議な人だわ……他人の視線や想いには鈍感なくせに、肝心な時には正しく相手の気持ちを汲んでくれる方……傍にいてくれるだけでこんなにも穏やかな気持ちになれるなんて……)
そんな敬慕の情に心を委ねたクレアだったが、自分でも気付かないうちに、その心地良い空気に酔っていたらしく、迂闊にも、胸の奥に秘めていた本心を吐露してしまったのである。
「他の男性からならば断っていましたよ……あなたからのプレゼントでしたから、私──っ! あっ!」
自分が何を口走ったのか瞬時に察したクレアは、慌てて両手で口を覆ったが既に手遅れだった。
カッと血液の温度が上昇したような感覚に、彼女は自分が赤面しているのを自覚し、大いに狼狽してしまう。
恐る恐る顔を上げて隣を見れば、その視線の先にいる達也は驚愕と戸惑いが入り混じった顔で自分を見つめており、その視線に射竦められたクレアは不自然な程に取り乱してしまい、慌てて先の言葉をなかったものにしようとしたのだが……。
「あ、あの! その……ち、違うんですっ! さ、さくらのお誕生日だったし……そ、その、お断りするのは悪い気が……い、いえ、そうじゃなくて……」
完全に動揺してしどろもどろになり、羞恥に顔を朱に染めて弁解する彼女からは、いつもの凛然とした雰囲気は微塵も感じられず、寧ろ、必死に言い募る様子は可愛らしくさえもある。
そんなクレアの姿を見せられて平常心を保てる男はいないだろうし、それは達也も同じだった。
一人前の男として常識的な範疇で女性に対する興味も欲望も持っている。
軍人として階級が上がった昨今は兎も角としても、数多の艦種の艦長職を拝命していた頃までは、部下達とのコミュニケーションを円滑にする為に、酒類と同時に女性と楽しめる店にも頻繁に出入りしたものだ。
強面と評される顔の所為で華やかな恋愛経験こそないが、秘かに憧れた女性ぐらいはいたし、異性が苦手という訳でもない。
それなのに、選りにも選って高嶺の花だと思っていた相手が、自分に好意を懐いてくれているのではないか?
そう気付いてしまった瞬間に、抑えていた感情が胸の奥から溢れ出し、クレアの事情も自分自身が置かれている立場さえもが頭の中から消し飛んでしまった。
そして、自分でも驚くほどごく自然に大胆な行動をとっていたのである。
片や陳腐な弁明を繰り返すクレアは、何の前触れもなく唐突に細腰を抱かれたのに驚き、その碧眼を見開いて達也を見つめるしかなかった。
「えっ!? し、白銀さん、な、何を!? あっ!」
狼狽し、くぐもった声で抗議した時には既に遅く、強く抱き寄せられて縋りつく様な格好になってしまう。
眼前……ほんの数センチの距離にひどく緊張した達也の顔がある。
これから何をされるのか分からないほど鈍感ではないが……。
心臓は早鐘を打ち、その音が五月蠅いほどに耳朶に響いて心を搔き乱される。
そして、その一瞬に在りし日の夫の面影が脳裏に浮かんでは直ぐに消えた。
「だ、駄目です……わ、私……」
反射的にそう呟いて顔を僅かに逸らしたクレアだったが、真剣な声で耳朶を揺さ振られれば、視線を戻さざるを得なかった。
「君が本当に嫌なのなら……これ以上はしない……でも、俺は君を……」
不器用なその言葉が胸に染み入るや、温かい何かで心を満たされる不思議な感覚に陶然となる。
それを手放すのが惜しくなってしまい、クレアは切ない想いと共に恋心を寄せている男の瞳を見つめ返す。
そして、そこに何時もと変わらない彼の清廉さを見つければ、自然と心が凪いでいくのが分かった。
だから、そっと両の瞳を閉じて、愛しい男の想いを受け入れたのだ。
ふたりの唇が重なる……。
互いに躊躇うような軽く触れ合うだけのライトキス。
たったそれだけで背筋に痺れが走り、クレアは腰から脚にかけて力が抜けてしまいそうな感覚に震えてしまう。
何時しか彼女の細腕が達也の背中に廻され、自ら積極的にキスを求めようとした時だった。
「ママぁぁ……あぅぅぅ、ママぁぁぁ……」
不意打ち同然に耳に飛び込んで来たさくらの声にふたりは激しく動揺し、大袈裟なほどに飛び跳ねて身体を離した。
慌てて振り返れば寝ぼけ眼のさくらが、不思議そうな顔でこちらを見ているではないか。
「あっ、あらあら。お洋服では寝づらかったのね。直ぐにパジャマを出してあげるから……さあ、こっちにいらっしゃい」
立ち上がって愛娘に歩み寄ったクレアが抱き上げてやると、少女は《こてん》と母親の肩に顔を埋めて再び寝息をたて始めてしまう。
その母娘の様子を見て自分の行為に吃驚した達也は狼狽えるしかなかった。
想いが暴走したからとはいえ、迂闊な行為に及んでしまった自分の蛮行が信じられない。
「あ、あの……俺はっ……」
謝罪と弁解を口にしようとしたが、背を向けた儘のクレアが漏らした言葉にその全てを遮られてしまった。
「今夜はもう……でも、私は嫌ではありませんでした……ううん。嬉しかった……です……」
気恥ずかしげで途切れ途切れのその言葉は抑えきれない彼女の喜色をも滲ませており、それを理解した達也は喜びに顔を綻ばせて小さな吐息を漏らす。
「ありがとう……今夜はこれで失礼するよ。許されるならば近いうちに時間を貰えないだろうか? ちゃんと話がしたいんだ……」
その申し出にクレアは恥じらいつつもはっきりと頷いた。
「は、はい……それでは、さくらを寝かしつけますので……」
「うん……おやすみ。今日は、本当にありがとう」
「はい。私の方こそ、ありがとうございました。おやすみなさい……」
パタパタと小走りに駆けてさくらの部屋に姿を消すクレア。
その後ろ姿を見送ってから達也は玄関を出た。
ふわふわと覚束ない足取りで帰宅しドアを閉めたところで、思わずガッツポーズをしてしまう。
子供じみているという自覚はあったが、その自戒を喜びが上回ったのだから仕方がないと自分に言い訳して再度ガッツポーズ。
それだけの価値がある大金星には違いないのだが、友人知人を含めて部下達には絶対に見せられない浮かれっぷりなのは確かだろう。
兎にも角にも達也とクレア……ふたりの新しい関係が幕を開けたのである。
※※※
一方、同時刻イェーガー邸ではこの家の主が苦い顔をしていた。
リビングのソファーに並んで腰を降ろす妻のアルエットも、溜息交じりに浮かない顔をしている。
「本気で言っているのかね? ラインハルト……いや、ミュラー閣下と呼ぶべきかな?」
「御冗談を。今まで通り呼び捨てで構いません。それからご説明したプランは今回同調した全ての人間の総意であります……間違いありません」
「その総意という名の渦が達也を……彼の人生ごと奈落の底に叩き落とすかもしれないとしてもかね?」
イェーガーの氷のような視線を真っ向から受け止めたラインハルトは、小動もせず大きく頷くのだった。
「本人には私から説明して何としても納得して貰います。達也が地獄に堕ちる時には必ず私が供をする覚悟です……ですからどうか御力を御貸し下さい、イェーガー閣下っ!」
敬愛するガリュードからの口添えもあり、深々と頭を下げるラインハルの要請を断れないイェーガーは、窓から見える新月に向って深々と溜息を吐くしかなかったのである。
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