第十話 日雇い提督と母の恩愛 ④
『一度だけ! 一度だけでいいから、勇気を出して下さいッ、白銀さんっ!』
哀切を帯びたクレアの懇願が繰り返し脳内で木霊する。
昨夜の醜態を思い出すだけで憂鬱になる達也は、出勤して早々にリブラへ引き籠ってしまい、教官室へも顔を出してはいなかった。
それもこれも、クレアに対して後ろめたい想いを懐いているからに他ならない。
如何に怒りで我を忘れたとはいえ、自分を犠牲にするのも厭わずに諫言してくれた彼女の気持ちを思えば、危うく暴力に及ぼうとした己の愚かしさを後悔するしかなかった。
だから、授業にも集中できず、後悔と自己嫌悪を引き摺った儘、虚しく時間だけが過ぎて行くのを甘受していたのだが……。
「……官?……銀教官?……白銀教官ッッ!?」
繰り返し名前を呼ばれた達也は、意識を覚醒させて思考の狭間から現実世界へと帰還した。
そして、眼前に整列した教え子達が怪訝な顔をして此方を見ているのに気付けば、己の不甲斐なさを思い知らされて益々気分が落ち込んでしまう。
(もう、四限目が終了したか……いかんな全く集中できないなんて。この子達にも申し訳ない事をしてしまった……)
「何処か御身体の具合でも悪いのではありませんか? お顔の色も優れないように見えますが」
心配そうに訊ねて来る詩織に微笑んで見せた達也は、努めて平静を装って素直に謝罪した。
「すまなかった。心配を掛けてしまって。大した事ではないよ。少々、気疲れしたのかもしれないな……さて、今週も無事に課題をクリアー出来たが、地道な努力の甲斐あって、お前達もそれなりに地力がついてきたと思う」
肯定的な評価を受けた教え子達は、表情を綻ばせて喜びを露にする。
「そこでだ、確認しておきたいのだが。お前達は専修コースをどうするのか希望はあるのかい?」
達也からの質問を受けた彼らは、どう答えたものかと困惑しながら互いを見やるが、直ぐには明確な返答ができなかった。
専修コースとは少尉任官後に進む専門分野のことで、例を上げるなら、航海課、砲雷撃課、電信電探課等の総称である。
基本的には士官学校卒業時の成績によって適性を精査されるのだが、本人の希望によって最初の配属先が確定する場合が多いのが実情だ。
勿論、通常任務の傍ら専門の教育機関に入学して学ぶのだが、些か時期尚早と思われる話でもあった。
それ故に、教官の意図を図りかねた教え子達は返答に窮したのだが……。
「戸惑うのは当然だが、訓練の意義というものは如何に効率良く学んで技量を伸ばすかという事に尽きる。その為には様々な専門知識が必要になるのだが、すべての高等教育を受ける時間がない以上、今の内から多様な分野の訓練を並行して行った方が良いと思うんだ」
その説明は的確に要点を衝いたものだったが、教え子達はよく理解できなかったらしく、皆を代表する形で詩織が問い返した。
「教官のプログラムは、充分にその要件を満たしているように思いますが?」
「君らが最終的に艦長や参謀職を目指すのであれば問題はない。しかし、幾つかのコースでは不十分だと言わざるを得ない。該当するのは空間機兵科と航宙戦闘機科だ。この二つの兵科は戦場の最前線で戦う事を第一に要求される為、専門的な技量に特化していなければ、とても務まらない過酷な部署だ。だから君らの中で、このコースを選択希望する者がいるのならば、近日中に申告して欲しいんだよ」
詳細の説明を終えてからその他の質問にも丁寧に答え、返答は来週中にと念押しして週末最後の授業は解散と相成った。
教え子達が退艦したのを確認した途端に激しい疲労感に見舞われた達也は、背中からシートへ倒れ込んでしまう。
普段なら教官室へ戻って残務を片付けるのだが、とてもではないが、そんな気分にはなれない。
然も、クレアと顔を会わせると想像しただけで罪悪感に苛まれて気分が滅入ってしまうのだから、我ながら情けない事だと臍を噛むしかなかった。
昨夜の自分の台詞ではないが、『どの面下げて会えばいいのか?』というのが偽らざる心境であり、考える程に益々気分が落ち込んでしまう。
当然だが彼女に非があった訳ではないし、それは達也も十分理解している。
寧ろ、彼女は心底案じて厳しい助言をしてくれたのだ。
それなのに一時の感情に任せて彼女を詰ってしまった……。
クレアが発した悲痛な台詞は今も胸の中に蟠っており、後悔の念が大きくなるばかりだ。
(泣かせてしまったな……だがこうなった以上、ケジメをつけなければならない。彼女を傷つけたまま逃げ出すわけにはいかないんだ……)
クレアへの罪悪感が、己が為すべき事を成そうと決心する後押しをしてくれたのだから、まさに怪我の功名という他はなかった。
(彼女に謝罪するにしても肝心の問題を片付けなければ意味がない。本艦に搭載している連絡機を使えば夕方前にはホームに着くだろう……どんな結果になっても、甘んじて受け入れるしかない……それが俺の贖罪だ)
気怠い身体にムチを入れて立ち上がった達也は、長きに亘って目を逸らし続けて来た問題に向き合うべく、行動を開始したのである。
◇◆◇◆◇
機体の準備に手間取ったがフライトプランは簡単に受諾された為、午後三時過ぎには、函館から北に六十㎞の位置にある地球統合軍の補給基地へ到着した。
養護施設はそこから車一時間ほどの山間地の町にあり、基地の車両を借り受けた達也は、自らハンドルを握って故郷へと車を走らせる。
間もなく五月になろうかというのに、山の木々には所々残雪が見られ、舗装された車道の路肩にも除雪された雪が小山の堤防を作っていた。
清涼な空気を肺いっぱいに吸い込めば、懐かしい感覚が身体の奥から蘇る様な気がして思わず声が弾んだ。
「あぁっ、この味だ。ふふ、空気に味は変か……でも、帰って来た……漸く帰って来たんだな」
相変わらず後ろめたい想いに苛まれてはいたが、懐かしい空気を肌で感じれば、心が浮き立つのも仕方がないだろう。
そして、集落を三つほど通過して小高い峠を越えた先に、育った町は変わらずにあった。
しかし、十四年前に飛び出して以来の故郷は往年の面影を色濃く残してはいたが、当時よりも活気が無くなっている様にも感じられる。
その理由が気にはなったが、達也は取り敢えず先を急いだ。
養護施設は町の西側の外れにあるのだが、流石に門前に乗り付ける勇気はなく、考え倦ねた末に、三百mほど手前で営業していたスーパーマーケットの駐車場に車を停めて歩く事にした。
(この店も昔はなかったな。それにしても……週末の夕方にこの程度の来客では、先行きが不安ではないのだろうか?)
結構な駐車スペースが確保されているにも拘わらず車の数は疎らであり、周囲の雰囲気までもが寒々しいものに感じられる。
それが、これから己が迎える末路を暗示しているかの様で、余計に足が竦んでしまう。
しかし、こんな所で立ち止まっていても仕方がないと思い直して養護施設の方へと足を踏み出したのだが、個人住宅が多少増えた所為か、記憶にはない風景に戸惑わざるを得ない。
その結果必要以上に周囲に視線を巡らせる羽目に陥ってしまい、苦笑いせずにはいられなかった。
(傍から見れば、不審者そのものだな……)
そんな馬鹿な事を考えながらも、身体は子供の頃に毎日通った通学路を忘れる筈もなく、懐かしい路地を足早に抜けた先……。
少しだけ幅の広い道路に出た達也は、視線の先にある古びた教会を目の当たりにして陶然と立ち尽くすのだった。
大人の背丈程度の外壁に囲まれた敷地内に、築百年は越えるだろう木造の教会と、職員の住居を兼ねた養護施設が並んで建っている。
教会は記憶の中にある儘だったが、達也も寝起きした施設の建物は、木造平屋から鉄筋コンクリート造りの三階建て家屋にグレードアップされていた。
見知った風景とは違っていても、胸に込み上げて来る郷愁の想いに自然と目頭が熱くなる。
暫し感傷に浸っていた達也は、周囲が淡いオレンジ色の夕陽に照らされるなか、教会前の敷地を熱心に掃除している女性職員の姿に目を止めた。
長袖のセーターにジーンズという軽装に、可愛らしい動物柄のプリントが入ったエプロン姿の二十代そこそこと思われる女性が、ポニーテールを揺らしながら箒で地面を掃いている。
(正念場だな……覚悟を決めて行くしかないッ!)
震える足を叱咤して一歩を踏み出した達也は、門柱に近づいた所でその女性職員へ声を掛けた。
「あのぉ……お忙しい所を申し訳ありませんが……」
「はいっ! 何でしょうか? 当ルミナス教会……に……えっ!?」
恐る恐る声を掛けた達也に対し、突然の来客にも慌てず笑顔で対応しようとしたその女性は、瞬時に言葉を失って硬直してしまう。
然も、愛嬌のある顔を驚きの色に染め上げ、双眸を大きく見開いたかと思えば、わなわなと可愛らしい唇を震わせているではないか。
女性職員の突然の変貌に戸惑った達也が、相手の体調を心配して一歩距離を縮めるよりも早く、箒を投げ捨てたポニテの女性が全力で抱きついて来た。
不意を衝かれたとはいえ回避するのは容易かったが、その結果起こり得る惨状を考慮すれば、甘んじて状況を受け入れるしかない。
すると、その女性は動揺を露にしながらも、驚くほど大きな声で施設の方へ叫び始め、達也を驚かせたのだ。
「正吾! しょ──ごぉ──ッ! 早く来てっ! 早くぅッ! お母さんをっ! お母さんを早く連れて来なさあぁぁいッ!!」
『離してなるものかッ!』という必死の気迫でしがみ付きながらも、至近距離で叫ぶ女性に既視感を覚えた達也は、躊躇いがちに懐かしい名前を口にした。
「き、君は、秋っぺ……秋江か!?」
菅井秋江。
達也と同じ様に両親を失ってこの施設に送られて来た少女で、いつも後ろを付いて回っていた妹分だった。
達也が施設を飛び出すまで、五年の月日を共に過ごした仲間の一人でもある。
おっかな吃驚といった体で問われた秋江は、涙でぐしょぐしょになった顔を上げて険しい双眸で達也を睨みつけるや、駄々っ子の様に遠慮会釈もない罵声を嘗ての兄貴分へ叩きつけた。
「当たり前じゃないのぉッ! 私を忘れたって言うのっ? 達兄いの馬鹿ぁッ! 薄情者っ! アンポンタンッ! わああぁぁぁ──ッ!」
怒鳴っている途中で感極まったのか、彼女は達也の胸に涙に濡れた顔を押し付けて盛大に泣き崩れてしまう。
すると、今度は……。
「どうした、秋? って……えっ? ええぇぇッ! た、達兄ぃっ! 大変だぁッ! あ、秋っ! 離すんじゃねぇぞ! 直ぐに母さん連れてくるからよぉっ! 逃げるなよッッ、達兄ぃぃ!」
教会から出て来た青年が達也を見るなり秋江同様に驚愕を露にしたかと思えば、素っ頓狂な声で一方的に怒鳴るなり施設に駆け込んで行く。
「正吾か……変わってないなぁ……転ばなきゃいいが」
達也が苦笑いして見送った青年は山崎正吾といい、秋江よりも一つ年上の弟分であり、そそっかしくてよく転んでは、ぴーぴー泣いていた少年だった。
しかし、意外にも年下の子供たちの面倒見が良く、仲間内のムードメーカーでもあったのを覚えている。
そんな懐かしいふたりに真っ先に再会したのが緊張を解す切っ掛けになり、恐れていた審判の時を平静な心持ちで迎えられたのは僥倖だったのかもしれない。
外の騒がしい様子に気付き、教会や施設から飛び出して来た職員らしき大人達や現在施設で生活している子供らは、見知らぬ人間に泣きながら抱きついている秋江の姿を目にして一体全体何事かと一様に驚いた顔をしている。
すると、突然その人垣が割れたかと思えば、涙で顔をグシャグシャにした正吾が息せき切って飛び出して来た。
そして、手を引いて連れて来た女性を達也の眼前まで導いたのだ。
その女性の姿を目にした達也は動揺を抑えられず、複雑な感傷と共に心臓が早鐘を打ち息苦しさが増すのが分かる。
地味だが手入れの行き届いた修道服を身に纏う女性……。
達也にとって育ての親同然である、佐久間由紀恵がそこに立っていた。
十四年前の苦い記憶に達也の胸は激しく軋み、逃げ出したいと悲鳴を上げる。
眼尻や口元に幾ばくかの皺が目に付く様になった彼女を見て、十四年という年月の長さを感じずにはいられなかったが、それでも健在でいてくれたと安堵し、再会できた喜びに胸が熱くなった。
だが、その反面、ずっと懐いて来た後ろ暗い葛藤に足が竦む達也は、その場から動けず、何を口にすれば良いのかも分からない程に懊悩してしまう。
自分の知らない年月の中で、この人は何を感じて、何を考えながら生きてきたのだろうか?
復讐という愚かな妄執に囚われ、彼女の静止を振り切って飛び出した自分を、今でも腹立たしく思っているのだろうか?
謝罪を受け入れてくれるのだろうか?
土下座して謝れば許して貰えるのだろうか?
考えれば考えるほどネガティブな方向に思考が突っ走ってしまい、呼吸も儘ならず息苦しさに身動ぎさえ出来なくなってしまう。
しかし、そんな蟠りが杞憂であるのを達也は直ぐに知るのだった。
胸を焼かれるような想いに委縮して動けない達也は、由紀恵の双眸から涙の雫が頬を伝い落ちるのを目の当たりにして思わず息をを呑んだ。
そんな由紀恵が拙い足取りで一歩一歩と達也に近付いていく。
その涙に濡れた顔に浮かぶのは紛れもない喜びに他ならない。
それを理解した達也も胸の奥から込み上げて来る思慕の情に震え、思わず目頭を熱くするのだった。
「あ、ああぁぁ……」
掠れた声を漏らしながら達也の前に立つや、喘ぐような感極まった声が由紀恵の口から零れ落ちる。
そして小柄な彼女は華奢な両手を伸ばすや、その掌で達也の両頬を包み込んで温もりを確かめるかのように優しく撫でた。
「あぁぁ! 主よ、感謝いたします……この子を御守り下さいましたことに、再会出来た喜びに心からの感謝をっ……感謝をいた……し、ますぅぅ」
神に対して祈りの言葉を繰り返し口にする由紀恵は、溢れる涙で濡れた顔を達也の胸に押し付け、崩れ落ちるように縋り付く。
「い、生きていてくれた……生きて帰って来てくれて本当に良かったわ……でも、どうして連絡の一つもくれなかったのっ? 私が、どれだけ、どれだけ心配したと……う、ううぅぅ~~ッ」
喜びに感極まって泣き伏す由紀恵と、幼い日両親を亡くして悲しみに沈んでいた自分をその温もりで包んでくれた彼女の記憶とが重なる。
胸に込み上げる熱い感情に矢も楯もたまらなくなって、気が付けば達也は彼女の華奢な身体を抱き締め、泣きながら謝罪の言葉を口にしていた。
「ゆ、許しては貰えないと思っていました。でも、それでも、もう一度院長先生に会って謝りたかったっ! ごめんなさい……ごめんなさいッ! か、母さんッ!」
秋江や正吾がわんわん声を上げて泣いているのも、周囲を取り囲む大人や子供達の温かい視線も、ましてや、いい歳をした自分がみっともなく泣いているのすらも気にはならない。
(許してて貰えた……いや、待っていてくれたんだ……こんな俺を)
その事実だけが嬉しくて、達也は懐かしい温もりに溺れて嗚咽を漏らし続けるのだった。
◇◆◇◆◇
「ママぁぁ……白銀のおじちゃん、まだ帰ってきてないよぉ……」
お隣の様子を確かめに行った愛娘が、しょぼくれて帰って来たのを見たクレアは落胆したものの、そんな胸の中はおくびにも出さずに微笑んだ。
「そう。きっと今日は急用ができてお出かけされたのよ。明日はお休みだから都合が良いしね。今夜は久しぶりにティグルちゃんと三人で食事ね……さあ! 用意はできているから席につきなさい」
母親の笑顔に促されて、さくらも不承不承ながらも席に着くが、その顔に滲んだ影は一向に晴れる気配はない。
達也が自分に一言もなく外出したのが不満なのだろうが、事情を知っているとはいえ、それを愛娘に説明する気にはなれなかった。
(私の言葉に耳を傾けてくれたのならば、もしかしたら……)
ひょっとしたら、思い直して故郷を訪ねてくれたのではないか……。
そんな淡い期待が胸を過るが、切なさだけが募ってしまう。
事実その通りなのだが、残念ながらクレアがそれを知る由はなかった。
それ故、彼の心情に立ち入り無責任な言葉をぶつけたがために、達也に嫌われて避けられているのではないか……。
そんな埒もない考えが浮かんでは、自己嫌悪に苛まれるクレアだった。
(もしかしたら、今までの様な関係を続けられないかもしれないわね……)
そう考えれば胸に微かな痛みを覚えずにはいられないし、今日は一度も顔を合わさなかった事を思えば、避けられているのは明らかだと考えざるを得ないだろう。
しかし、何よりも問題なのは、さくらに対する態度までもが変わってしまうのではないかという事に尽き、そんな最悪の事態が脳裏を過ぎったクレアは、その不安を懸命に振り払った。
(私が嫌われて相手にされなくなるのは仕方がない。でも、この娘までそんな目に遭うのだとしたら、あまりにも可哀そうだわ。せめて、さくらにだけは変わらない態度で接して貰えるようにお願いしないと……)
虫の良い願いだというのは充分に承知している。
それでも、屈託のない笑顔を取り戻した愛娘を守るのが、自分にとって一番大切だとクレアは決めたのだ。
譬え、胸に秘めた淡い想いに蓋をして、全てを無かった事にしなければならないとしても……。
物寂しい切なさを感じたクレアは、愛娘に悟られないように心の中でやる瀬ない溜息を零すのだった。




