第十話 日雇い提督と母の恩愛 ③
『明日に蟠を残さない方が良い』とクレアに諭されたさくらは、達也に連れられて喧嘩した男の子の家を訪れ丁寧に謝罪した。
幸い先方の親御さんも自分達の子供に非があったのは理解しており、そのお蔭で懸念していたトラブルもなく和解に至ったのである。
「ひどい事を言って、ごめん……ボクが悪かったよ。ごめんなさい」
「ううん。さくらが手を出したのが駄目だったの……ごめんなさい」
互いに謝罪して握手する事で嫌な記憶を水に流した子供達は、笑顔を交わし合うのだった。
すっかり日が暮れた中、街灯の光に照らされる歩道に影が一つ。
さくらを背負ってマンションへの帰り道を急ぐ達也は、背中に掛かる重さを実感しながらも、何処か不思議な感覚に戸惑っていた。
成り行きとはいえ柄にもない説教をした自分が気恥ずかしいやら、みっともないやらで、背中がむず痒くて仕方がないのだ。
(大切な人の想いを裏切った俺が父親の真似事をしているなんてな……)
あの別れの日に見た痛苦に満ちた院長先生の顔が脳裏に浮かび、心に微かな痛みが走る。
身寄りを失い天涯孤独の身になった自分に無私の愛情を注いでくれた、母親とも呼べる女性を傷つけた……。
今更取り戻せないと分かってはいても、心の片隅に諦め切れない未練があるのか、苦い想いばかりが蜷局を巻くように蟠ってしまう。
(よそう……俺らしくもない……)
そう嘆息して想い出を無理矢理に胸の奥へと追いやった時だ。
背負われているさくらが右肩に顎を乗せるや、耳元に唇を寄せて来て照れ臭そう礼を言ったのである。
「白銀のおじちゃん! 今日はありがとう……嬉しかったぁ~。さくらの気持ちをおじちゃんが分かってくれたから……本当に嬉しかったの」
「どういたしまして。でも、久しぶりに『おじちゃん』と呼んでくれているけど、まだ何か心配事があるのかい?」
その問いに暫し逡巡していた少女は、躊躇いがちに問い返した。
「そ、その……『お父さん』って呼ばれるのは嫌じゃないの? さくらはいっぱい甘えられて嬉しいけど……」
「なんだ、そんな心配をしていたのかい? ははは、嫌なら、ちゃんと駄目だって言うさ。僕は結婚してないから子供はいないけど、今は、君を自分の子供だと思って接しているつもりだよ。それじゃぁ、駄目かい?」
自分の口から出た言葉が細身の刃となって胸を貫く。
(この純粋な娘の想いを受け止める資格が、人殺しの俺にあるのだろうか?)
自分がやっている事が酷い偽善に思えてしまい、達也は笑顔の裏で己の心に疑問を投げ掛けざるを得なかった。
しかし、そんな彼の本心には気付くべくもないさくらは、弾けんばかりの笑顔で感謝の言葉を口にする。
「あ、ありがとう! 達也お父さんっ! さくらは、とっても幸せだよぉ」
「僕もだよ。さあ、早く帰ろうか。ママが夕食の用意をして待っているよ」
「うんっ! さくら、お腹、ペコペコぉぉ~~~」
少女の明るい声が背中に重く圧し掛かるような気がした達也は、得体の知れない不安を振り払ってアスファルトの歩道を駆けるのだった。
◇◆◇◆◇
「はぅぅ、あくふぅ……んふぅ……ふぅ……」
お気に入りのアニメキャラがプリントされたパジャマ姿のさくらが、可愛らしい寝顔でベッドに横たわっている。
隣には、然も当然と言った顔をしたティグルが潜り込んでており、ふたり仲良く夢の世界を楽しんでいるのか、その顔には柔らかい笑みに彩られていた。
そんな子供らの様子を見ていた達也とクレアは、顔を見合わせて微笑み合うや、静かにドアを閉めてリビングへと戻る。
「本当にすみませんでした……あんな騒動に巻き込んだ挙句に、さくらをお風呂にまで入れていただいて。お仕事でお疲れなのに申し訳ありません」
恐縮して詫びるクレアへ、達也は綻ばせた顔を左右に振って見せた。
「そんな大層な事ではないさ。俺の方こそ食事どころかお風呂まで頂いてしまって……自分の厚かましさに呆れているところだよ」
「まあ、そんな……でも、それならば厚かましいついでに、コーヒーの一杯ぐらいは飲んでいっていただけますわよね?」
「やれやれ、俺の食生活も豪華になったものだ。一流レストラン顔負けの御馳走を毎晩食べれる上に、美味しいコーヒーまで飲めるんだから。最近では晩酌なんかする気にもならなくて、ウワバミの異名が泣いているよ」
その大仰な物言いに、クレアは手で口元を押さえて笑みを零してしまう。
「御満足していただいているようですので深くは追及しませんが、どうも言葉の端々に悪意を感じてしまうのは、私の気のせいでしょうか?」
澄ました顔でそう詰問して来るクレアに、慌てて両手を振って自らの潔白を主張する達也。
しかし、それは彼女のジョークだったらしく、すぐに笑顔に戻って鈴が鳴る様な美声を発した。
「どうぞ座っていて下さい。すぐに用意しますから」
軽口を交わしあいながら必要以上に堅苦しい雰囲気になるのを避け、リラックスした時間を共有するふたり……。
達也もクレアも殊更に意識してはいないが、確実にふたりのの距離は縮まっているのだ。
もしも、志保やヒルデガルドがこの場にいれば、ふたりの様子に当てられて暴れ出すか、少なくとも嫌味の一つぐらいは言ったであろう……そんな場面だった。
キッチンに向うクレアの背中を見送った達也は、長椅子に腰を降ろして背凭れに身体を預ける。
疲労を感じていない訳ではないが、ローズバンク母娘と過ごす時間が、その疲れた身体と心を癒してくれると気付いてしまった。
それは、家族との縁に薄い自分にとっては掛け替えのないものであり、ふたりの存在にどれだけ助けられた事か……。
そんな事を考えながら、華やいだ表情でキッチンを動き回るエプロン姿のクレアを目で追っていたが、ふと他愛もない疑問を覚えてしまう。
時計は夜も更けた十時ジャストを示しており、常識的に判断するならば、他人の家に居座って良い時間ではないだろう。
(考えてみれば俺は男と認識されていないのではないか? いくら顔馴染みの同僚とはいえ、遅い時間に男女がリビングでコーヒーを飲んでいるなんてな……まあ、厚かましくも毎晩お邪魔しては、御馳走にありついている俺が言えた義理ではないのだろうが……)
クレアの最近の心情の変化に達也は気付いてはいなかった。
自分が異性には好まれない面相だという思い込みが強すぎて恋愛事には消極的だった所為もあり、女性の心情を慮るのには疎くなるし、だから、相手から向けられる好意にも全く気付けないのだ。
ラインハルトなどは常々。
『敵の思惑や目論見は寸分違わぬ正確さで看破してしまうのに……どうして自分に好意を懐いている女性の心情には無頓着なんだ?』
と、嘆く事しきりなのである。
そんな朴念仁であるが故に、クレアが淡い想いを懐いている事も、その想い人が自分であるのにも思い至らないのだ。
しかし、そんな達也の中にも、これまでとは違う感情が確かに芽生えていた。
さくらを慰める為の偽りの家族ごっこだった筈なのに、今ではふたりと時間を共にするのを楽しみにしている自分の気持ちを認めざるを得なくなっている。
クレアの事も最初は非の打ち所がない、完璧超人の様な女性だと浅はかにも決めつけていたが、日々何気ないふれあいを重ねる中で葛藤する様に気付けば、人並みに悩み苦しんでいる一人の女性なのだと知って驚かずにはいられなかった。
とは言え、彼女に対する評価が下がったのかといえば、そうではない。
頭脳明晰で容姿端麗、仕事は常に完璧で人当たりも柔らかく、非の打ちどころがない理想の女性。
これがクレアの表の顔だとするならば。
家庭に在っては細かい気遣いができて料理上手。
家事全般をそつなく熟し、たった一人の愛娘に惜しみない愛情を注ぐ良き母親。
温厚で優しい反面、筋の通らない事には敢然と意見する強さも持っている……。
こちらは裏の顔と言えるのだろう。
それらが表裏一体となって、クレア・ローズバンクという女性の魅力を形成しているのだ。
(本当に素敵な女性だ……おっと、俺らしくもない。所詮は高嶺の花でしかないのだから、彼女の厚意を勘違いしないようにしなければな)
特定の女性について真剣に考えるという、凡そ自分らしくない行為に呆れた達也は、思わず自虐的な笑みを零していた。
すると……。
「あら、何か楽しいことでも考えていらしたのですか? お顔がだらしなく緩んでいましたわよ?」
揶揄う様な口調でそう問うクレアが、長椅子で惚けていた達也の隣に腰を降ろし、透き通るような白い繊手で、豊潤な香りが立ち昇る瀟洒なカップを二つ並べてテーブルの上に設えた。
「ひどい言い種だなぁ。それに今夜は随分と意地が悪い。何か御不満があるのならば、真剣に拝聴させて貰うよ?」
「まあっ! そんな上から目線で説教をなさるなんて……私まで御自分の生徒扱いなさる御つもりですか?」
「あはははっ。そうか、そうだなぁ……これは悪かった。おお、折角のコーヒーが冷めてしまっては台無しだ。有難くいただきます……うん! 美味しいっ!」
「もうっ! 調子が良いのだから……」
そうボヤキながらも、彼女もカップの縁に唇をつけて、豊潤な香りを纏う液体を口に含む。
ふたりはほぼ同時にカップから唇から離し、ほうっと満足げな吐息を漏らした。
「でも、良かったよ。さくらちゃんが話を理解してくれて。正直なところ、あまり自信がなかったんだが……上手くいって本当に良かった」
心底ほっとした様子の達也の台詞に、クレアも優しい笑みを浮かべて応える。
「本当に吃驚しました。さくらの想いを簡単に見抜かれて。見事に諫めてしまうのですもの……私なんか母親の自信が無くなっちゃいそうですよ? これではどちらが本当の親なのか分かりませんわね?」
「おいおい。それは大袈裟すぎないか? そんなに褒められる程ではないさ。あの娘が言い淀んだ理由を当てられたのも、俺自身が同じ経験をしていたからだよ」
そう語る横顔が僅かに歪んだのにクレアは気付いたが、達也が独白を続けた為に黙っているしかなかった。
「あれは、たしか六~七歳の頃だったかな、学校で『親なし子の孤児院っ子』と揶揄われてね……それなりに鬱屈していたモノを子供心に抱えていたものだから、つい激昂する感情に任せて暴力を振るってしまったんだ。その挙句に相手に結構な怪我を負わせてしまい、十日間の謹慎処分を受けてしまったのさ」
今日のさくらと同じ経験を達也がしていたというのは、彼の生い立ちを考えれば不思議な事ではないだろう。
にも拘わらず、彼の顔に浮かんだ歪みが自虐的な笑みに変化していくのに気付いたクレアは、得体の知れない不安に胸を締め付けられてしまう。
「そ、そんな、一方的な……」
「仕方がないさ。俺が引き取られた養護施設は地方の更に田舎でね。偏見は根強く残っていたし、俺自身の評判も良いものではなかったから処分は仕方がなかったと思う……ただ、さくらちゃんに言って聞かせたのと同じ説教を院長先生からされてね……然も泣きながら諭されて、子供心に本当に悪い事をしたと反省したものさ」
その独白に気圧されしたクレアは、身動ぎもできずに息を呑むしかなかった。
「だから、さくらちゃんの気持ちは何となく分かったし、問題が解決できて本当に良かったと素直に思っている。しかし……」
クレアの胸の中に黒雲が渦を巻くような不安が拡がっていく。
「高潔で清廉潔白な院長先生ならばいざ知らず、俺のような薄汚れた軍人が口にして良い台詞ではなかったと途中で気付いてね……あの娘が成長して分別を覚えた時に『偽善者!』と詰られるのではないかと考えたら、柄にもなく身が竦んだよ」
「そ、そんな馬鹿な事は有り得ませんわっ! あの娘がどれほど貴方を慕っていると思っているのですか? 母親の私が嫉妬しそうなほどなのですよっ!? それなのに……」
堪りかねて反論するクレアの言葉を、微苦笑を浮かべる達也は小さく頭を左右に振って否定した。
「俺の本性をあの娘は知らない。知って欲しいとも思わないが、俺は大切な人達の想いより己の欲望を優先させる阿呆だ。それは言い逃れできない真実だよ」
片頬を歪めて自嘲する達也の瞳が此処ではない何処かを幻視しているかのように見えたクレアは、愕然として息を呑むしかなかった。
同時に蓮と詩織の面接時に聞いた彼の過去が脳裏に蘇る。
両親を亡くした失意のなかで、母親同然に接してくれた施設の院長先生や職員、そして同じ境遇の仲間達の温かい想いに包まれて過ごした日々……。
そんな中でも忘れられなかった復讐という妄執に駆られ、大切な人々が与えてくれた想いの全てを振り切り、養護施設を飛び出し軍人になった事を……。
「大恩ある院長先生の懸命の想いに後ろ足で砂を掛けた……果たしてそんな俺に、さくらちゃんにモノ言う資格があったのだろうか……なんてね」
全ての言葉を言い切る前に、らしくもない自分語りをしている事に気付いた達也は、慌てて続く言葉を呑み込んだ。
(何て馬鹿な話を彼女に聞かせているんだ俺はっ……最近良くして貰っているから甘えてしまったとでも言うのか……)
自省して最後は中途半端に笑って誤魔化そうとした達也だったが、彼の意に反してクレアはそれを許さなかった。
それは達也の台詞から、今更ながらにある疑念に思い至ったからだ。
「一つだけ聞かせて下さい。貴方は施設を飛び出されてから、院長先生の元に戻られた事があるのですか?」
そう……クレアは達也が地球に帰還して以降、一度ぐらいは里帰りしているものだと思っていたし、院長先生や他の仲間とも和解して、関係を修復しているものだと疑いもしなかったのだ。
それは彼の実直で優しい性格を間近に見ていたからであり、それ故に過去の過ちに向き合う勇気を持っていると信じていたからでもある。
しかし、クレアの質問に少し困った顔をした達也は、意外なほどあっさり彼女の信頼を否定するのだった。
「残念ながらないよ……今更どの面下げて帰ることができる? 施設を飛び出したときの院長先生の最後の忠告も、俺は蔑ろにして聞く耳を持たなかったんだ……きっと愛想を尽かされているさ。ノコノコ帰っても貰えるのは罵声が関の山だろうから……あそこには、もう俺の居場所はないと思っているよ」
耳朶を震わせるその言葉が、酷く不愉快で醜悪なものに聞こえ、両の瞳に写る眼前の男の横顔が、余りにも身勝手で軽薄なモノに見えてしまう。
そして何よりも、白銀達也という人間が大きな誤解をし、その過ちから目を逸らしているのに耐え難い憤りを覚えてしまったのだ。
だから、理性的な思考よりも先に感情が爆発し、その憤慨する心の儘にクレアは右の掌を振り上げていた。
振り下ろされたそれは、絶妙のタイミングで彼女に視線を向けようとした達也の左頬にクリーンヒットする!
ぱぁ~んっ! と乾いた音が深夜のリビングに響いた。
女の細腕で叩かれた位でどうにかなる達也ではないが、あまりにも突然の事に、そして、想定外の出来事に面食らってしまい狼狽せずにはいられない。
それでも気を取り直してクレアに真意を問い質そうとしたのだが、悲痛な表情の彼女から厳しい叱責の言葉を浴びせられてしまう。
「臆病者ッッ! なにを一人で分かった様な事を言っているのですかッ? そんな筈がないでしょう? 愛想を尽かされている? 罵倒される? 居場所がない? そんな事は絶対にありませんッ! 院長先生は貴方にとってお母さま同然の人ではありませんか。どんなに聞き分けのない子でも母親にとっては等しく我が子です! 別れてから今日までずっと! 今この瞬間もッ! 貴方の身を案じて無事を祈っているに決まっているじゃありませんか! 母親を、母親という存在を馬鹿にしないで下さいッ!」
その叱責の言葉は、確かに達也の心の奥底を貫いたのだ。
いつもの彼であったならば、クレアの言に耳を傾けて納得したに違いなかった。
しかし、この問題だけは、後ろ暗い負い目が邪魔をして簡単に割り切れるというものではないのだ。
後ろ髪を引かれる思いで地球を後にして以来、後悔しなかった日は一日たりとてなかった。
しかし、ガリュードに叱責され己の過ちに気付く事ができたとはいえ、敵味方を問わず、大勢の人間の血で自分の手を汚してしまったのは紛れもない事実だ。
それを否定できない以上、母親と慕う女性の前にそんな醜い自分を晒す勇気など持てる筈もなかった。
どんなに後悔しても元の自分は戻れないのだったら、こんな悪鬼の様な悍ましい姿を見せるのは止そう。
今の自分を見た彼女が更なる悲しみや苦しみで悲嘆に暮れないように、そして、こんな不出来な息子の事など一日でも早く忘れられるように……と。
せめてもの罪滅ぼしにと俸給や特別賞与の中から仕送りをしてきたのが、唯一の贖罪だったのかもしれない。
叶う事ならば土下座してでも謝罪したかった……。
だが、それでも許して貰えなかったら……。
お前など知らないと言われたら……。
考えれば考えるほど漆黒に塗り潰される未来しか想像できず、今日まで二の足を踏んで、ずるずると無為に時間を過ごして来たのだ。
それなのに……。
そんな葛藤には御構いなしに、触れられたくもない過去に土足で踏み込んで来たクレアに憤慨した達也は、珍しくも激昂し強い口調で罵声を浴びせていた。
「な、何を勝手な事をっ! 君には関係のない話だッ! 俺の問題にあれこれと嘴を挟むのは止めてくれッ! 迷惑だッ!」
「ええっ。確かに私にとっては他人事ですわっ! でも、さくらにとっては重大な話ですっ!」
毅然とした強い口調で反論をされた達也は、彼女の言葉に虚を衝かれて怯み、口籠ってしまう。
「な、何を馬鹿な事を……あの娘に何の関係が……」
「あるに決まっているじゃありませんか! あの娘が信じている《達也お父さん》は、人の情を踏み躙って平然としていられる人間ではありません! それなのに、貴方は自分を愛してくれている母親の心情にさえ気付こうともせず! その涙から目を背けて声にも耳を塞ぐ卑怯者ではありませんかっ! そんな、そんな無慈悲な人間を『お父さん』と呼ぶさくらが余りにも不憫ですッ!」
一気に捲し立てたクレアの手厳しい叱責に、激しい感情が胸の内に込み上げて、達也は冷静さを失ってしまう。
「そうでないと言うのならっ! さくらに対して恥ずかしい人間ではないと仰るのならばッッ! どうかっ、どうかッ! 帰省なさって院長先生ときちんと話をして来て下さい!」
だから、そのクレアの想いの丈を乗せた懇願を振り払らい、激情に任せて怒鳴り返してしまったのだ。
「五月蠅いッ! 迷惑だと言った筈だ! 俺の事は自分で決める! 何も知らない君に命令される謂われはない! 引っ込んでいてくれないかッ! 不愉快だッ!」
頭に血が昇って我を見失うなど久しぶりであったが、その分派手に怒鳴った所為もあり、幾分か冷静さを取り戻せた。
そして我に返ってみれば……。
クレアのブラウスの胸元を鷲掴みにしている自分の暴挙に驚き、呆然と立ち尽くすしかなかった。
慌てて手を放したが、余程強く掴んでしまったらしく、白いブラウスのボタンが一つ千切れ飛んでおり、双丘の谷間が白い柔肌と共に晒されている。
しかし、羞恥に端麗な顔を朱色に染めるクレアから気丈な瞳で見つめられれば、その視線に射竦められた達也は、心が冷めていくのを自覚せざるを得なかった。
「貴方の気が済むのならば……殴るなりなんなり好きにしてくれて構いませんわ。無礼な物言いをしているのは分かっています……だから、私は何をされても文句は言いませんっ! ですが、ですがっ、どうかっ! 院長先生の事だけは考え直してくださいっ! 一度だけっ! 一度だけでいいからっ! 勇気を出して下さいッ、白銀さんッ!」
既に彼女の顔にも怒りはない。
美しい顔は悲しみに歪み、澄み切った碧眼は溢れた涙でいっぱいになって、幾つもの雫が頬を伝い落ちている。
激しい慚愧の念に心を揺さ振られた達也は、己が犯した愚かな行為の全てを後悔せずにはいられなかった。
矮小な己を顧みもせず、卑劣にも目の前の女性に甘え、あまつさえ心から心配して気遣ってくれたクレアの厚意を踏み躙ったのだ。
激しい嫌悪感に苛まれ、堪えようのない吐き気に襲われた達也は、クレアの震える手を振り払うや、彼女に背を向けて部屋を飛び出すのだった。
「白銀さんっ! どうか! どうかぁッ! お願いっ! お願いだからぁッ!」
ドアが閉まるまで背中を打った切ない哀哭の悲鳴が途切れる……。
その途端周囲の風景がグニャっと音を立てて歪み、不確かな足取りで自宅玄関に辿り付いた達也は、ドアを閉めた瞬間にその場に崩れ落ちたのである。




