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第七話 日雇い提督は大いに戸惑う ②

 飛び石連休の後半。

この日は地球統合政府樹立記念日であり、各地で盛大な式典や(はな)やかなイベントが(もよお)されており、太陽系全体が祝賀ムードに包まれていた。

 天を見上げれば突き抜けるような青空が拡がり、暖かい春陽が降り注ぐ青龍アイランドでも祝賀パレードが開催され、その様子を伝える報道に触発された親子連れやカップルで街はかなりの(にぎ)わいを見せている。


 しかし、そんな喧騒(けんそう)何処(どこ)吹く風といわんばかりに平常運転のクレアは、今日も休日恒例の家事祭りに(いそ)しんでいた。

 愛娘のさくらと、すっかり家族の一員になった幼竜ティグルに朝食を食べさせ、掃除や洗濯などを手際よく片付けていく。

 とは言え、一昨日(おととい)の日曜日に一通りは済ませていたので、今日は随分と早く片付いてしまった。

 それならば、さくらのリクエストに(こた)えて、昼食はサンドイッチにしようと思い立ったクレアは、近所のスーパーマーケットへ買い物に行く事にしたのである。


 さくらとティグルは、お気に入りのTVアニメ鑑賞の為にお留守番。

 それでも、おみやげ(お気に入りのお菓子)を要求するのは忘れないのだから、本当にちゃっかりしていると感心せざるを得なかった。


 頬を撫でていく四月の爽快(そうかい)な春風を堪能(たんのう)しながら、(はず)むような足取りで歩く。

 周囲に人がいなければ、軽くスキップ位は踏んでいたかもしれない程にクレアは浮かれていた。

 いい歳をして……と思わなくもないのだが、それ以上に心が(はず)んでいるのだから仕方がないと自己弁護すれば、自然と笑みが(こぼ)れてしまう。

 精神的な苦痛と葛藤(かっとう)から解放されたお蔭で、周囲の風景までが輝いて見えるのが心地良く、だからこそ、そこから抜け出す切っ掛けを与えてくれたお隣の同僚教官には、深く感謝する他はなかった。


(何かお礼をしなければいけないわね……とは言え、(かしこ)まって大袈裟(おおげさ)にされるのは御嫌いでしょうし……そうだわ! 今日の昼食に招待して御馳走しようかしら……うん! 良い考えだわ、さくらも喜ぶし一石二鳥ね)


 我ながら名案だと心(はず)ませたクレアは、食材を大量に買い付けるや、早々に帰宅し、すぐさま《お手製スペシャルサンドイッチ》作りに取り掛かる。

 手際よく各素材を下拵(したごしら)えするや、様々な具材を使ったサンドイッチを流れる様な手捌(てさば)きで完成させてゆく。

 その合間にドリンクとコンソメスープの準備していると、何時(いつ)の間にかティグルを抱っこしたさくらが(そば)に寄って来た。


「ママぁ……今日は、とっても嬉しそうだねっ!」


 下から見上げて来る愛娘に笑顔でそう指摘されたクレアは、『さすがは我が娘』と感心しながらも、素知らぬ顔をして(とぼ)けておく。


「えぇ~? そう? ママは何時(いつ)もと一緒よ。さくらの勘違いじゃないかしら?」


 すると、納得できないとばかりに(うめ)き声を漏らす愛娘は、可愛らしい唇を尖らせて上目遣いに抗議してくる。

 その様子が微笑ましくて、クレアはさくらの頭を優しく()でてやった。


 だからと言って、達也の助言に助けられて浮かれているのだとは断じて知られる訳にはいかない。

 うっかり口を(すべ)らして彼を()めようものならば、それに便乗するさくらの《白銀のおじちゃん自慢》を延々(えんえん)と聞かされる羽目に(おちい)るからだ。

 決して嫌というわけではないが、愛娘が彼に傾倒して熱を上げれば上げるほど、母親の立場がなくなる様な気がして(くや)しいのである。


(子供っぽいと笑われてもいいわ! 白銀達也! 簡単にさくらをヨメに出来ると思ったら大間違いですからねっ!)


 昨日の屋上でのやり取りが尾を引いているのか、生真面目(きまじめ)なクレアらしからぬ妄想(もうそう)が脳内劇場で放映され、母親としての使命感に決意を新たにするのだった。

 (もっと)も、正気に返った彼女が、赤面して恥じ入るのは確定しているのだが……。

 ぶつぶつと聞き取れない何かを(つぶや)きながら百面相を繰り広げる母親を、さくらはニコニコ微笑みながら見続けたのである。


            ◇◆◇◆◇


 その後、なんとか我に返ったクレアは、さくらと仲良く(はしゃ)ぎながらも調理に精を出し、お昼前には自慢のサンドイッチを完成させた。

 ハム、タマゴ、トンカツ、ポテトサラダ、野菜と旬の果実。

 さくらからのリクエストであるハンバーグ等々の食材を使用したサンドイッチが大皿に盛り付けられ、その会心の仕上がりにクレアは秘かに心の中でガッツポーズを決める。


「さあ、さくら。今日はお天気が良いから、屋上で日向ぼっこしながら食事にしましょう。お隣のお父さんの御都合を聞いて、誘っていらっしゃい。みんなで一緒にお昼を食べましょうってね」


 母親の提案に、さくらは喜びを(あらわ)にして歓声を上げた。


「うんっ! 直ぐに呼んで来るぅぅ──っ!」


 言うが早いか脱兎(だっと)(ごと)く駆けだすや、そのまま玄関を飛び出していく愛娘。

 しかし、その時になって、昨日達也が晩酌(ばんしゃく)をすると言っていたのを思い出したクレアは、ある懸念に思い(いた)った。


(そう言えば帰宅してお酒を飲まれると言っておられたわね……今日は休日だし、ひょっとしたら……)


 まさか正午に近い今、まだ寝ているとは思えなかったが、万が一がある。


「こ、こら。さくら! 騒がしくしてはいけませんよっ!」


 慌てて注意したが時すでに遅く、さくらの姿は見えなくなっている。

 後を追いかけて玄関を飛び出たクレアが目にしたのは、お気に入りのワンピースの胸元から一枚のカードを取り出す愛娘の姿だった。

 そして、いとも簡単に隣室のドアロックを解除したさくらは、クレアが声を掛ける間もなく部屋に駆け込んでいく。


(あ、あの娘ったら……何時(いつ)の間にスペアキーなんか?)


 おそらくは達也が与えたのだろうが、まるで宝物のように肌身離さず大切にしている娘には呆れるしかなかった。

 だが、事前の約束もないのに休日に押しかけて騒いでは申し訳ないという思いに()かされたクレアは、鍵の疑問は棚上(たなあ)げして後を追ったのだが、息せき切って隣人の部屋の玄関を(くぐ)った瞬間に生理的に不快な感覚に襲われてしまい、怪訝に思って周囲を(うかが)ったのだ。

 (かす)かな異臭が鼻をつき、室内の空気が(よど)んでいる様にも感じられるのだが、その原因が分からずに眉を(ひそ)めてしまう。


(なにかしら、これ……なんだか変だわ……)


 お昼前であるにも(かか)わらず室内は全体的に薄暗く、廊下を奥に進むにつれ違和感が強くなり困惑は深まるばかりだ。

 しかし、奥の寝室の方からさくらの快活な声と、それに反して『まだ寝ていたいですぅ~~』という達也の覇気のない(うめ)き声が耳に飛び込んで来て、その詮索(せんさく)放棄(ほうき)せざるを得なかった。


「達也お父さぁ~ん! 起きなさぁ~~い! ママがお昼ご飯を一緒に食べるって言っているのぉ! 早く、起きてぇぇぇ──っ!」

「う、う~~ん……ご、ごめん、さくらぁ……昨夜、遅くってさぁ……」


 億劫(おっくう)そうな達也の(うめ)き声を耳にしたクレアは無理強(むりじ)いは良くないと思い、さくらを連れ帰ろうと室内に飛び込んだのだが……。  

 そこは(まさ)に魔界と形容するに相応(ふさわ)しい様相(ようそう)(てい)しており、その非常識極まる光景を目の当たりにした彼女は、絶句して立ち尽くすしかなかった。


 カーテンの隙間から差し込む(かす)かな陽光が照らす室内は、彼女の常識の範疇(はんちゅう)を大きく逸脱(いつだつ)した惨状を(てい)しており、その混沌ぶりにクレアは眩暈(めまい)を覚えてしまう。

 キッチンのテーブルの上には、数本の空になったボトルとグラスが並んでおり、オツマミの包装紙やパッケージが残骸(ざんがい)となって小山を形成している。

 汚れた食器が山積みにされて放置されているシンクなどはまだかわいいもので、キッチンの(すみ)には、持ち帰り弁当の空容器が詰め込まれたゴミ袋が山積みされているではないか。


 台所の惨状だけでも信じられないのに、リビングにある応接セットの三人掛けのソファーと単座ソファーの背凭(せもた)れには、脱ぎ散らかしたシャツやズボンが、何枚も折り重なって無造作(むぞうさ)に放置され、あろう事か教官用の制服までもが同様の仕打ちを受けている。

 どの部屋もざっと見渡しただけで、(ろく)に掃除機もかけていないのは一目瞭然で、部屋の(すみ)鎮座(ちんざ)している大きめのゴミ(かご)は、丸められた紙屑(かみくず)などが山盛りになっており、そこから(こぼ)れ落ちた物が周囲の床にまで散乱していた。


 その終末世界に立ち尽くすクレアは、腹の底から込み上げて来た(いきどお)りが、身体の中で一気に(はじ)けるのを何処(どこ)か他人事の様に感じてしまう。


 《ぷっつ~~~~~~んッッ!!》


 そして、彼女の中で激しい感情が爆発し、何かがキレたのである。


             ◇◆◇◆◇


【銀河連邦宇宙軍アスピディスケ・ベース】


 ラインハルトは、日々西部方面派遣艦隊の編成に追われていた。

 千五百八十隻の戦闘艦艇に加え、補助艦艇二百五十隻、哨戒艦(しょうかいかん)クラスの小艦艇五百隻で編成される大艦隊である。

 とは言え、現状の西部方面域派遣艦隊の規模は二万隻を超えおり、担当方面域の秩序の安寧(あんねい)を維持するには、それだけの戦力が必要と評議会や連邦宇宙軍指導部は判断しているのだ。


 それにも(かか)わらず、西部方面域駐留艦隊の全部隊を撤収させ、(わず)か十分の一程度の新艦隊を(もっ)て代行せよと言うに至っては、まさに狂気の沙汰(さた)だと断ぜざるを得なかった。

 連邦評議会はもとより、七聖国の代表者で構成される最高評議会からも懸念の声は多数上がったが、銀河連邦軍指導部は短期的な処置だと説明し、強引に押し通したのである。


(地球の統合政府との折衝(せっしょう)は、イェーガー閣下にお任せしておけば問題はないだろう……艦隊編成と配備計画は達也と話すしかないが、その前に全艦艇の練度を、(かつ)てのガリュード艦隊並みに引き上げなければな)


 絶対的物量の有無が戦況の優劣を分ける現代の戦場に()いて、数の不利を質で(おぎな)うという非論理的な発想は成立しない。

 しかし、それが、必ずしも正解だとは言えないのが戦略の妙なのだ。

 少なくともラインハルトはそう信じているし、この艦隊を率いる新提督に(いた)っては、『所詮(しょせん)戦争なんて代物(しろもの)は、今も昔も人間がやるモノだからな。やり様は色々とあるものさ』と常々豪語して(はばか)らない。


 だからこそ、艦隊と各艦乗員の練度を極限まで(みが)き高めるのは喫緊の課題であり、(すで)に、艦長以下全士官には困難な現状に対する打開策を伝えてあった。

 それは、一見無謀な要求にも思えるが、全員が優秀な軍人であり彼等の意気込みを(かんが)みれば、短期間での成長を期待できると、ラインハルトは確信している。


 そんなことを考えながら事務仕事を決済していると、ドアがノックされて快活(かいかつ)な女性の声がした。


「アイラ・ビンセント少尉。出頭いたしました」

「うん。入ってくれ」


 入室を許されるや(いな)や、肩の辺りで綺麗に切り揃えられた赤髪と、その真紅の瞳に強い意志を宿した若い女性士官が入って来た。

 まだ少女と言っても差し(つか)えないこのアイラ・ビンセント少尉は十八歳。

 元は父親が(ひき)いていた航空傭兵団ヴォルフ・ファングの一員で、五歳の時には独力で飛行機を操縦して飛ばしていたという、信じ難い経歴の持ち主でもある。

 十五歳で正式に傭兵団の一員になり、(またた)く間に撃墜王の座を奪って見せた時には、『女だてらに……死んだ母さんが泣くぞ』と、父親を(なげ)かせた逸話も広く周知されていた。


 その《ヴォルフ・ファング》を率いていた父親のラルフ・ビンセントが、北東部方面域のとある戦場で、日雇い(よろ)しく派遣されてきた達也と知り合い、()の提督の天才的な戦闘指揮と情に厚い人柄にすっかり()れ込んでしまったのだ。

 そして、今回の騒動の最中(さなか)に傭兵団を解散し、希望者を引き連れ正式に銀河連邦軍の軍属になったという次第だった。


「よく来てくれたね。楽にしてくれていいよ、少尉」

「はっ! 失礼します。閣下」


 生真面目(きまじめ)な表情で背筋を伸ばしたアイラは、やや両脚を開いてから上官に対する礼をとったが、その様子を見たラインハルトは、微苦笑を浮かべながらリラックスする様にと(うなが)す。


「誰もいない所では(かしこ)まる必要はないよ、アイラ。元々そういう約束で軍属になるのを承知して貰ったんだから、気を遣わなくても構わないぞ」


 そう言われたアイラはそれまでの生真面目な表情を一変させるや、肩が()ったと言わんばかりに首を廻しながら嫌味を口にする。


「そうは言ってもさ、アンタも昇進して少将様じゃないか。恐れ多くて(した)()士官は口を()くのも大変でございますよ」

「こいつめ。何時(いつ)の間に大人を揶揄(からか)う様になったんだ?」


 悪戯(いたずら)っぽい微笑みを浮かべて憎まれ口を叩くアイラに、ラインハルトは苦笑いするしかない。


「それで、何の任務で呼ばれたのかしら? 航空隊の訓練なら親父達が掛かりっきりだから、充分な結果が期待できると思うけれど?」

「あぁ、その件ではなくてね。君には一足先に西部方面域にある太陽系第三惑星・地球に赴任して貰いたいんだ……まあ、任務は達也の護衛というところかな」

「えっ!? た、達也って、白銀司令長官……」


 アイラの顔に朱が差し途端に挙動不審になるが、ラインハルトは完全にスルーを決め込んで説明を続ける。

 そして五分後……。

 呆れ要素を多分に含んだ天才パイロットの叫びが執務室に響いたのだ。


「派遣先の国軍の士官学校の教官をしているって、一体全体なんの冗談なのさ? いくら指揮する艦がなくて暇だといってもさぁ……身分を(いつわ)っての教官ゴッコなんて、()えある銀河連邦軍将官のやる事じゃないでしょうにっ!?」

「まあ、まあ……落ち着いてくれ。イェーガー閣下の発案らしいから、なんらかの思惑もあったのだろうし、そこには我々が関与する余地はないよ」


 (たしな)められて不満顔のアイラには構わず、ラインハルトは話を続ける。


「達也への詳細な説明は来月に僕が行う。君にはその時に地球に同行して貰って、あいつが教官を務めている士官学校に留学名目で編入し、達也をサポートしてやって欲しいんだ。期間は艦隊が正式に配備される百日後ぐらいまでだ」

「そ、それはいいけどさぁ……私、学校なんかまともに行ってないから役に立つかどうか分からないよ? 白銀司令長官に恥を掻かせたら悪いし……」


 煮え切らない態度で尻込みしているアイラを、彼女以外にも護衛人員を増やすからと言い含めて説得して何とか了承を得た。


(万全とは言えないが、当面は航宙艦隊司令部を牽制(けんせい)できるだろう。その間に艦隊の編成を急がなければ……)


 ラインハルトは直ぐに次の手を打つべく行動に移る。

 ユリウス艦隊幕僚本部総長がどの様な策謀を講じるか分からない以上、警戒しすぎるという事はないのだから……。


             ◇◆◇◆◇


 頭上から何かを()かすような愛らしい声が降って来るのだが、昨夜お気に入りの美酒を心ゆくまで堪能(たんのう)した所為(せい)か、ぬくぬくの布団と睡魔の誘惑が勝って起き上がる気になれない。

 だから、ベッドの中で背を丸める達也は、その天使の声に抵抗するしかなかったのである。

 本来二日酔いには縁のない体質だが、惰眠(だみん)(むさぼ)るには最適の季節と環境も相俟(あいま)って、この(あらが)い難い微睡(まどろみ)を手放す気にはなれなかったのだ。


「うぅぅ~~ん、さくらぁぁ……ごめん、あと五分だけ──つぅっ!?」


 寝言なのか、言い訳なのかも不明な台詞を口にした瞬間だった。

 強烈な怒気を(はら)んだ何者かの意志で弛緩(しかん)している身体を(つらぬ)かれた達也は、一瞬で覚醒(かくせい)して双眸を見開く。


 それは背筋が凍るほどの殺気であり、今にも襲い掛からんとする獰猛(どうもう)な肉食獣のものに他ならず、戦場暮らしが長い達也にとっては、この手の殺気に鋭敏に反応し対処するのは当然であり、そのスキルが他人より(すぐ)れていたからこそ、生き残ってこれたとの自負もある。

 だからこそ、訓練された身体は迫りくる脅威を敏感に察知し、瞬時に掛け布団を()退()けて上半身を起こせたのだ。


(い、いったい何が起こったんだ?)


 だが、周囲を(うかが)えば、太腿辺りに(またが)っているさくらと視線が重なり、達也は自分が寝惚(ねぼ)けただけだったのかとさえ思ってしまう。

 不思議そうな顔をして小首を(かし)げている少女の仕種(しぐさ)が可愛らしい……。  

 そんな馬鹿な事を考えた達也だったが……平穏な時間はそこで終わりを告げた。


 少女の背後には、綺麗に(くび)れた細腰に両手を当て、こちらを睥睨(へいげい)している美貌の同僚教官が仁王立ちしているではないか。

 (しか)も、この時期には相応(ふさわ)しくない極寒の負のオーラを(まと)っており、些細(ささい)な感情すら(うかが)えない表情の中で、唯一その朱唇(くちびる)のみが薄い笑みを型どっているさまは、正に夜叉を彷彿(ほうふつ)させるに充分だった。

 自身の警戒装置が正常に作動していたにも(かか)わらず、反応が遅れた達也は、己の未熟さを(なげ)くしかなかったのである。


『ごくり……』


 生唾を呑み込んだ時の音がやけに大きく耳の奥に響く。


 クレアの瞳には鋭利な氷の刃かと見紛(みまが)うほどの冷厳とした光のみが宿っており、まるで薄汚い野良犬を睥睨(へいげい)するかの(ごと)き視線に射貫かれた達也は、金縛りになって身動(みじろ)ぎすらできない。

 目の前にある達也の顔が引き()る様子に驚いたさくらだったが、その視線に釣られて振り返った瞬間、大好きなおじちゃんと同じく顔を強張(こわば)らせてしまう。

 そこには実の娘だからこそ分かり得る、怒り心頭の母親の姿があり、それを見て過去のトラウマが蘇ったさくらは、脱兎(だっと)(ごと)く達也の上から逃げ出した。


「あっ、あぁ~! ま、待って……」


 一縷(いちる)の希望を(たく)して伸ばされた達也の右手は、残念ながら遠ざかる少女の背には届かず、(むな)しくも宙を彷徨(さまよ)うばかり。

 結果としてふたりを(さえ)るものはなくなり、クレアは距離を詰めるべく静かに歩を踏み出した。

 その全身から立ち昇る剣呑(けんのん)なオーラに気圧(けお)され、ベッドの上を後退(あとずさ)ったのだが、直ぐに背後の壁に(はば)まれて逃げ場を失ってしまう。

 まさしく絶体絶命だと意味もなく自覚する達也は、それでも辛うじて笑顔を作ろうとしたのだが、それも()えなく失敗するのだった。


「や、やあ……ローズバンクさん。お、お、おはよう……」


 圧倒的に不利な防衛戦を覚悟した日雇い提督だったが、クレアのプレッシャーには(こう)し切れず、震える声で挨拶するのが精一杯。

 この状況で彼女が激怒している理由は一つしかない……。

 如何(いか)に達也が鈍感だとはいえ、人並みの常識ぐらいは持ち合わせており、自分の何が至らなかったのかは辛うじて察せられた。

 そして、愚かなる男の推測(すいそく)は、見事に正鵠(せいこく)()ていたのである。


「えぇ……おはようございます。(もっと)も、そろそろお昼になりますが……ずいぶんと御ゆっくりなのですね。それは()(かく)として……お住まいをゴミ屋敷になさる趣味でもお持ちですの? それともこれは、オブジェとして何処(どこ)かの美術展に出品する作品のつもりなのでしょうか? そうなのだとしたら落選間違いなしの駄作(ださく)ですから、お止めになった方がよろしいかと……」


 抑揚(よくよう)のない平坦な声で慇懃(いんぎん)に語られる台詞(せりふ)、そして感情が抜け落ちた白い顔。

 なまじ美人なだけに、下手なホラー映画よりも恐怖心を(あお)られてしまう。

 (しか)も、痛烈な皮肉で追い打ちされれば、達也は己の不利を(さと)らざるをえない。


 自身が駄men'sであるのに何の疑問も持たない達也は、軍人としての高い評価とは裏腹に、私生活では《駄目人間》という評価を知人全員から頂戴している。

 親しい人々から叱責交じりの忠告を受けるたびに、一念発起(いちねんほっき)して自己改革に取り組むのだが……。


『まあ、三日も頑張ったし今回はこれで充分だよな。次は五日を目指せばいいさ。OK、OK!!』


 ……と自堕落(じだらく)なお気楽オヤジ気質全開で早々にリタイヤするのが常だった。


 だが、美貌の同僚教官の冷たい視線に責め立てられている今、それが間違いだと骨の(ずい)まで思い知らされ、後悔という言葉の意味を()み締めるしかない。

 それでも不利な状況を好転させようと思考をフル回転させ、何とかクレアの怒りを(しず)めようと最善を尽くす達也。


「い、いやぁ~~ち、違うんだよ。少し散らかっているけど、昨夜(ゆうべ)は眠くてさ……きょ、今日の休暇を利用して、部屋の掃除をする気だったんだよ……あは、あは、あははははは」

「少し? これが? へえぇぇ……それは知りませんでしたわ……つまり『これから片付けるのだから、出しゃばらずに引っ込んでいろ』と(おっしゃ)りたいのですね?」


 クレアの顔に不快感が色濃く滲み、突き放すような冷淡な声に恐怖が倍増する。

 室内の温度が一気に下がった気がした達也は、懸命に顔を左右に振り廻し、そうではないとアピールするしかなかった。

 もはや(がけ)っぷちに追い詰められた心境の達也は、(わら)にも(すが)る思いで、世間一般で広く使われているテンプレートな()()を口にしたのだが……。


「いや、いやっ! そっ、そうじゃなくてさぁ……あっ! ほ、ほら、あれだ! 俺は男の一人暮らしだしぃ~~。ねっ? これぐらいは……」


 耳障(みみざわ)りで陳腐(ちんぷ)台詞(せりふ)は相手の神経を逆なでし、燃え盛る高炉に怒りという最悪の燃料を投下するに等しい効果を(もたら)す。

 それは、往生際の悪い達也の態度と相俟(あいま)って、辛うじて蜘蛛(くも)の糸が(ごと)き細い糸で(つな)がっていたクレアの堪忍袋を、ものの見事にぶった切ってしまったのだ。


「言い訳にもなっていませんわッ! 後でたっぷり戯言(ざれごと)は聞いてあげますからッ、とっとと起きて! さくらを連れて外に出て行きなさあぁ──いッッ!!」


 激怒するクレアの剣幕に震え上がった達也は、転げ落ちるようにベッドから()い出て手早く衣服を身に着け、これまた母親の剣幕に脅えるさくらを小脇に抱えるや、一目散に玄関を飛び出すのだった。 

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― 新着の感想 ―
[一言] ここから艦隊と、達也先生の部屋の 劇的なビフォーでアフターなのですね!!(ぇ ベクター発生するかもだから早くせんとね!! 下手をするとさくらちゃんの身が危険水域!!
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