第六話 白銀達也とクレア・ローズバンク ③
偶然とはいえ、達也がその場を通り掛ったのは、クレアにとっては不幸中の幸いだった。
考課表を作成するのに必要な関連資料を教官室へ取りに戻る途中だったのだが、裏門から敷地内へ入った途端、小径の先にある雑木林で人が争うような気配を察知して足を止めた達也は、不審な人影を見咎めて強い声で誰何したのだ。
「そこにいるのは誰だっ!? 何をやっているかっ!?」
不意に叱声を浴びせられて驚いたのか、狼狽した様子の男が振り向く。
(格闘術講師のグスタフ・シャルフリヒター教官? こんな所で何を……)
明らかに挙動不審なグスタフの様子に違和感を覚えた達也だったが、歩を進めた先で目にした光景に一瞬で嚇怒するや、ゲスな暴漢を睨みつけていた。
彼の背後には草叢に倒れ伏すクレアの姿があり、この男が破廉恥な蛮行に及ぼうとしたのは容易に想像できる。
すると、露骨に舌打ちを漏らしたグスタフが、ギラギラとした敵意を滲ませた双眸を向けて来たが、今の達也には威嚇にすらならない。
これほどの怒りを懐いたのは何時以来だろうか……。
ひどく冷静な別の自分が心の中で問い掛けて来たお蔭で、辛うじて感情の暴発を抑えた達也は、淡々とした口調で忠告した。
「こんな真昼間から学内で不埒な行為に及ぶのはどうかと思うがね? 足元が明るいうちに退散したらどうだい?」
「素人がヒーロー気取りで良い格好してると痛い目をみるぜ。大人しく目を瞑って通り過ぎればいいものを! クックックッ」
話し合いは一瞬で決裂し、両者の間に張り詰めた空気が漂う。
グスタフは両腕を上げて、ボクシングで言う所のピーカーブースタイルの構えを採り、更に上半身を小さく左右に振りながらステップを踏む。
片や達也は身構えるでもなく無造作に立っているだけ……。
(やはり格闘術はド素人か! あの女をモノにする前祝いに半殺しにしてやる!)
己の勝利を確信したグスタフは、早々に敵を叩きのめすべく行動を開始した。
ピーカーブーのまま上半身を左右に振る事で、左右のパンチが来ると相手を警戒させ、その隙を衝いて持ち前の俊敏さを生かし敵の懐に踏み込む。
そして狙いすましたローキックを以て相手の足を粉砕し、動きを止めた上で嬲りものにする。
そのトリッキーな戦法が彼の必勝法だった。
制服のパンツに隠されて見えないが、薄い鉄板が仕込まれた長靴を履いており、これで足をへし折ってやった相手は数知れない。
(身動きできなくなれば、減らず口も叩けねえだろうがぁッ!)
グスタフは一気呵成に距離を詰めるや、渾身の右ローキックを放つ。
必殺の蹴りが難なく相手の膝辺りに炸裂し、その確かな感触に己の勝利を確信したグスタフは薄ら笑いを浮かべた。
(態勢が崩れたら一気に────つぅッッ!??)
しかし、奇襲が成功して更に追撃を浴びせようとした彼の耳が、ひどく無機質な声音を捉える。
「なんだ、そりゃあ?」
その冷然とした声に耳朶を打たれた瞬間、堅牢なブロックは脆くも弾き飛ばされてしまい、何が起こったのかを理解する前に、抉じ開けられた両腕の隙間目掛けて放たれた二の矢がグスタフの無防備な顔面に炸裂した。
「ぐふうぅッッ!? ぐわぁぁ──ッ!!」
達也の右拳で鼻骨を粉砕された上に、前歯も数本叩き折られたグスタフは、その場に崩れ落ちて悶絶するしかなく、然も潰された鼻を押さえて恐る恐る視線を上げた先には、濃密な殺気を纏った正真正銘の鬼人が立っていた。
「いいか? 二度は言わないからよく聞け。このまま辞表を出して、さっさと此処から消え失せろ……もし週明けにその不細工な面を見かけたら、今度は間違いなく殺してやるからそう思えっ!」
凶悪な達也の瞳に射竦められたグスタフは、真っ青な顔で何度も頷くや、這うようにして校舎の方へと逃げ出していく。
事実グスタフ・シャルフリヒター大尉は、医療室に駆け込んで応急治療を受けたその足で退職届を提出し、週明けを待つまでもなく、その日の内に伏龍を逃げ出したのである。
覚束ない足取りで逃げていくグスタフを見送った達也は、蹴られた方の膝の状態を確認したが、損傷した様子はなく軽く鼻を鳴らした。
(遠藤教官のアドバイスを聞いておいて良かったな)
先日絡まれた後に志保から、『用心の為に硬質樹脂製のプロテクターを常時装備しておくように』と念押しされ、その忠告に従ったのが功を奏したのだ。
今度、彼女に礼をしなければと思いつつも、横たわるクレアの傍に片膝をついた達也は、昏倒する彼女の様子を窺った。
(目立った外傷はないが、困ったな……学校に連れ帰れば騒ぎになるし)
考えた末にリブラの医療室に運ぶことに決め、意識を失っている彼女の身体をそっと抱き上げ、踵を返して来た道を引き返したのである。
◇◆◇◆◇
何かに急き立てられるような感覚に衝き動かされて目を覚ましたクレアは、混濁した意識が覚醒するや否や慌てて跳ね起きた。
丹念に身体をさわってみたが、着衣に乱れた様子はなく、乱暴された形跡も確認できない。
安堵した彼女は、漸く周囲の光景を観察する余裕を得て、自分が見知らぬ場所にいるのに気付いた。
治療用のカプセル型医療機器に横たわっていたことを考えると、此処が医務室であるのは容易に想像がついたし、周囲にもそれらしい機械が所狭しと並んでいる事実が彼女の推察の正しさを証明している。
白一色で統一された壁は味気ないものだが、装甲を兼ねた防御シャッターが開放されている為か、硬質ガラスの窓を通して夕陽に染まる海が一望できた。
(ここは……あぁ、銀河連邦宇宙軍から貸与されている航宙艦の中……だったら、救けてくれたのは……)
自分の危地を救ってくれた人物に思い至ったクレアは、忸怩たる想いに胸を衝かれて唇を噛み締めた。
壁に掛かった時計に目をやれば夕方の五時を少しばかり過ぎており、思ったよりも時間が経っているのだと驚いてしまう。
(あれから、六時間も眠っていたのね)
その原因になった出来事を思い出せば、愚痴めいた悲嘆が胸の中に零れた。
(どうして、こんなに辛い事ばかりなのかしら……)
舷側の窓から差し込む朱色の陽光が、傷ついた心を慰めるかのように彼女の手元を照らし、仄かな温もりを与えてくれる。
だが、今のクレアは、そんな些細な救いすら感じ取れない程に心が乱れていた。
亡夫との大切な想い出が日に日に色褪せていく事に悩み苦しんでいるのに、卑劣な暴漢にまで『死んだ亭主など忘れてしまえ』と嘲笑されたのが悔しくて仕方がなかったのだ。
(私がどんなに苦しんでいるのか、知りもしないくせにっ!)
何処にもぶつけ様のない苛立ちに、思いつく限りの罵詈雑言を胸の中へ吐き出すクレア。
そうしなければ、怒りと悲しみのあまり心が壊れてしまいそうだった。
と、その時だ。
入り口が開錠される警告音が響くやスライド式のドアが開き、そこには彼女が予想した通り、何処か安堵した表情で自分を見ている達也の姿があった。
しかし、その柔和な笑みすらもが癇に障ったクレアは、鬱積したドス黒い感情が胸の中に溢れるのを抑えられなくなってしまう。
そんな彼女の心情に気付く筈もない達也は、治療用のベッドへ歩み寄るや、当たり障りのない労いの言葉を口にする。
「左腕の捻挫と軽度の打撲だったが、治療は終ったようだね。顔色も少しは良くなったみたいだし……その……不愉快だとは思うが、間が悪かったと割り切って早く忘れた方がいい」
気休めに過ぎないと分かってはいても、他に気の利いた慰め方を知らない達也にはこれが精一杯だったし、『忘れた方がいい』という言葉がクレアの感情を逆撫でするとは知らない彼に、それを察しろと言うのは土台無理な話だろう。
しかし、その言葉は彼女を苛立たせ、自暴自棄にさせるのに充分な役割を果たしてしまう。
「ええ……そうですね。全部忘れてしまえば、きっと楽になれますわね。実は私、大切な夫の事も簡単に忘れてしまえる薄情な女なんですよ……笑ってしまうでしょう? 愛し合って結ばれて……さくらという子供まで授かったのに、夢の中では夫の顔すら思い出せなくなっていくんです……」
(駄目よっ! 白銀さんには関係ない話だわ。彼は暴漢から救けてくれたのよ! それなのに八つ当たりするなんて……)
皮肉めいた言葉で自らを詰るクレアが、いつもとは違う昏い怒りに震えているかの様に見えた達也は、戸惑いを露にして立ち尽くすしかなかった。
僅かに残された理性が自制を促そうとするが、急速に膨れ上がるどす黒い感情を抑えられず、狂奔する感情に翻弄される儘にクレアは言葉を吐き散らす。
「知人や両親までが『過去は早く忘れて、新しい人生を見つけなさい』と言うのです……『さくらちゃんの為にも、早く新しい伴侶を……』と、いとも容易く、私に言うのよッ!!」
己の不甲斐なさと周囲の無理解に苛まれ、歯痒さと口惜しさばかりが募り、自分を取り巻く全ての存在が煩わしく思えて仕方がなかった。
だからクレアは、自分の中で荒れ狂う黒い感情に煽られるままに医療ベッドから床に降り立つや、呆然として立ち尽くす達也の制服の胸元を両手で掻き毟るように掴んで睨みつけたのだ。
「そ、そんな事ぐらい言われなくても分かっているわっ! それなのに……あんな男にまで馬鹿にされてっ! 私だって、私だって、ずっと考えてるっ! 悩んで、苦しくて、寂しくて……何をしてやればあの娘の為になるのか? どうすれば良いのか、分からない……分からないのよぉぉッ!」
「ロ、ローズバンク教官。とにかく落ち着こう。君の苦しみは分かるが……」
初めて目の当たりにした興奮状態のクレアを落ち着かせようと、達也は声を掛けたのだが、それは全くの逆効果だった。
間髪入れずに叩き返された非難の言葉に打たれた達也は、愕然として立ち尽くすしかなかった。
「貴方に何が分かると言うのっ? 貴方だって、さくらに『お父さん』と呼ばせて親子ごっこを楽しんでいたくせにぃッ! 私はそんな事を頼んだ訳じゃないッ! 貴方なんかに家族顔して欲しい訳じゃないのッ! 赤の他人のくせに、私とさくらの邪魔をしないでっ! 貴方なんかに私の苦しみが分かって堪るものですかッ! 知った風な顔をして気安く関わらないでぇぇッ!」
荒ぶる感情に任せて、一気呵成に鬱積した想いを吐き出すクレア。
彼女はジャケットを掴んでいた両手を握りしめるや、弱々しく達也の胸を叩きながら嗚咽を漏らすのだった。
吐露した激しい憤りとは裏腹に、今の自分の醜態が見当外れの八つ当たりでしかないのは彼女自身が一番分かっている。
(白銀さんが悪い訳じゃないのに……母親なのに、あの娘に何もしてやれない私が悪いんじゃない……それなのに彼に当たり散らして、悪者にして……それで自分の愚かさから目を背けようとしている……最低だわ)
絶望に支配され、考える事さえも億劫だと、彼女の心に色濃い諦念が忍び寄る。
必死に頑張った挙句に、こんな苦しく辛い思いをするぐらいなら……。
(そうよ……みんなが言う通り全て忘れてしまえばいいのよ。あの人の事も、想い出も……何もかもッッ! 全部投げ捨ててしまえば、もう誰にも文句を言われずに済むわ……こんな、こんな辛い想いは、もう……)
黒い絵の具で塗り潰したような闇に心が蝕まれていく。
忘れてしまえばきっと楽になれる……。
疲れ果てたクレアが現実から目を背けようとした時だった。
それまで無言だった達也がやや語気を強め、憔悴した彼女を叱ったのだ。
「大切な人を忘れるなんて馬鹿げているよ。縁によって結ばれ、愛し合って夫婦になったんだろう? 譬え短い間でも幸せだったのならば、旦那さんを忘れるなんて悲しい事を言っては駄目だ」
何を言われたのか直ぐには理解できなかったが、それでも、涙で濡れた顔を上げたクレアは、縋るような視線で達也を見つめてしまう。
「死んでしまった人間は残された人々の心の中にしか存在を許されない……譬え、それが記憶という名の過去であっても、これからを生きる人間には、今を、そして未来を歩いて行くために絶対に必要なものなんだよ」
誰も彼もが、自分とさくらを気づかいながらも、忘れる事で新たな人生を紡ぐ様にと言う中、達也だけが想い出を忘れる必要はないのだと言ってくれた。
「他人から何を言われ様が気にする必要はないさ。君は旦那さんへの想いを懐いたまま、この先の人生を堂々と生きて行けばいい……それが重荷になって君やさくらちゃんが幸せになれないなんて、そんな馬鹿な話があるものか」
その言葉はこれまでの自分を肯定してくれたものに他ならず、クレアは漸く迷宮の出口を見つけたような気がしたのである。
(は、初めて……初めて『忘れなくていい』と言ってもらえた……あの人への想いを大切に抱えて生きて行けばいいのだと……あぁ、私は何を迷っていたのだろう。答えはこんなにも簡単だったのに……)
ずっと誰からも貰えなかった言葉……だが何時も誰かに与えて貰いたかった言葉を得たクレアは、暗闇に覆われていた心に一条の陽光が射したように思え、身体を震わせて咽び泣いてしまう。
「ううぅ、うっ……あぁ、ぐすっ……うあ、あぁ、あああぁぁぁぁぁ!」
次第に嗚咽が大きくなり、感情がごちゃ混ぜになった彼女は、込み上げる想いに衝き動かされて達也にしがみ付くや、その胸に顔を埋め声を上げて泣きじゃくるのだった。
◇◆◇◆◇
出逢ってから日が浅いとはいえ、こんなにも気まずい思いをしながら向かい合っているのは初めてであり、達也もクレアも真面に視線を合わせられずにいる。
己の浅慮から発した軽率な行為が彼女を傷つけたと悔恨の念を懐き、あまつさえ自暴自棄になった彼女を慰めるという、柄にもない行為に及んだ己の暴挙が信じられない達也は、まさに穴があったら入りたい心境だった。
また、一方のクレアも、私的な鬱憤を逆恨み同然にぶつけた愚行を後悔して、悄然と俯くしかなかったのである。
自分の未熟さが招いた事態にも拘わらず、侮蔑的な言葉で彼を詰った上に、誰にも打ち明けていない遣る瀬ない心情を洗いざらい吐露してしまったのだ。
然も、彼の言葉に救われ感極まって縋り付いた挙句に胸に顔を埋めて泣くという醜態まで晒したクレアは、込み上げて来る自責の念に苛まれて真面に達也の顔も見れない有り様だった。
とは言え、ふたりして黙っていても事態が解決するわけではない。
そう思った達也は意を決して口を開き、まずはさくらの事を気遣った。
「何を言っても言い訳にしかならないが、今回の件については俺の軽率さが原因だから、どうかあの娘を叱らないでやって欲しい」
愛娘の事で話し合いをするという本来の目的を思い出したクレアも、己の醜態は一旦棚上げして姿勢を正す。
「あの娘から『パパになって欲しい』と懇願された時、本当は断るべきだったし、最初はそうするつもりでいた……でも、さくらちゃんの姿に幼い頃の自分を重ねてしまってね……大人の理屈で正論を振りかざすのが本当に正しいのかどうか迷ってしまったんだ」
寂寥感を滲ませた微笑みを浮かべる達也の姿が、何処か物悲しいものに感じたクレアは、何と言葉を返せばいいのか分からなかった。
「とは言うものの、結果的に君に不快な思いをさせ、傷つけてしまったのは間違いない……弁解の余地はないが、全ては俺の責任だ。本当に申し訳なかった」
深々と頭を垂れて謝罪する達也の姿に狼狽したクレアは、悲痛な表情を浮かべて自らの葛藤を告白する。
「そんなっ! や、やめて下さい……貴方に謝られたりしたら私の立つ瀬がありません……本当はとっくに分かっていたんです。あの娘が寂しい想いを必死に我慢しているのを……私は母親として、あの娘に何をどうしてやればいいのか分からなくて、どうすればさくらの想いに応えてやれるのか……今でも闇の中にいる気分なのです……責められるのは情けない母親である私の方ですわ」
危地を救ってくれたばかりか、葛藤に苛まれていた自分に真摯な言葉で道を指し示してくれた達也。
そのお蔭で立ち直る切っ掛けを得たのは事実だ。
然も、幼いさくらの心情を慮って、已むに已まれず、その願いを甘受せざるを得なかったのだとしたら……文句を言うなど筋違いも甚だしいだろう。
我を張って、自分で自分を追い詰めた挙句の独り相撲……。
自分勝手な思い込みがどれほど達也に迷惑を掛けたのか……。
そう考えるだけでクレアは身が縮む心境だった。
だが、再度謝罪するよりも先に、呟く様な、それでいて温もりを感じさせる言葉を達也が零したのだ。
「そんな事はないさ……君は本当に良くやっているよ」
「えっ? し、白銀さん?」
「さくらちゃんに何をしてあげれば良いのか分からないと言っていたが、君は充分あの娘に寄り添っているじゃないか」
思い掛けない言葉に耳朶を打たれたクレアは困惑して問い返してしまう。
「そ、それはどういう意味でしょうか?」
「あの娘の事を真剣に考えて傍に居ようとする君の想いを、さくらちゃんは誰よりも分かっているよ……あの娘にとって、君がいてくれるというのがどれだけ大切な事か……死んでしまったパパにはもう逢えないけれど、大好きなママが傍に居てくれるならそれだけでいい……あの娘はそう言って笑っていたよ」
達也の口から語られる愛娘の真意を聞いたクレアは、胸に込み上げて来る万感の想いに思わず両手で顔を押えるしかなかった。
「何かをしなければと肩肘を張る必要なんかないさ……君があの娘の傍に寄り添って笑顔でいることこそが、大切なんじゃないのかい? それを一番望んでいるのは他でもない……さくらちゃんなのだから」
諭すような達也の言葉が胸に染みて、再び瞼が熱を持つ。
さくらと過ごして来た時間が間違いではなかったのだと言って貰えた事が何より嬉しくて、両の瞳からぽろぽろと涙を零しながら、それでも喜びに彩られた笑顔でクレアは心からの謝意を伝えた。
「あ、ありがとうございます。そんな風に言って貰えるなんて……私、貴方に随分ひどい事を言ってしまいました。どうか許して下さい……それから、暴漢に襲われて危ない所を救けていただいて、本当にありがとうございました」
彼女のやわらかい笑顔を見て安堵した達也は、口元を綻ばせて軽く頷きながら、この母娘に幸多からん様にと祈ったのである。
◇◆◇◆◇
翌日の休日。クレアは久しぶりに爽やかな気分で目覚めた。
ベッドを出てベランダに続くガラス戸を解放すると、早朝の柔らかな陽射しと、心地良い潮風に肌を撫でられ、身体中の細胞が一気に活性化するような爽快感に 包まれて思わず破顔する。
(こんなに気持ちの良い朝はいつ以来かしら……さあ! さくらが帰ってくる前に掃除をしておかなくっちゃ……お昼はパンケーキでも焼こうかしら)
身支度を整えてから、鼻歌交じりに軽快な所作で掃除洗濯などの家事を手際よく片付けているうちに時間は瞬く間に過ぎ、正午少し前に玄関の呼び鈴が鳴った。
リモコンでドアを開錠してやると制服姿のさくらが飛び込んで来るや、体当たりするかの様な勢いで抱きついて来て歓声を上げたのだ。
「ただいまぁッッ!! ママぁ!!」
何時にも増して満面の笑顔を浮かべる愛娘を抱擁し、クレアはワクワク顔の愛娘が望む質問を口にしてやる。
「あらあら、何か良い事でもあったのかしら? そんなに嬉しそうな顔をして?」
その問いにさくらは、《にいぃ~~ぱぁっ!》という効果音が聞こえてきそうなほどの明るい笑顔を弾けさせ自慢げに叫んだ。
「あのね、さくらねっ! お絵描きで一等賞をもらったんだよぉっ!」
肩から下げた鞄から丁寧に丸められた画用紙を取り出す間も終始御機嫌のさくらは、満面の笑みと共に自信作を母親に手渡した。
「まあ。それは凄いわね。いったい何を描いたのかしら?」
そう褒めながら画用紙を拡げたクレアは、そこに描かれている絵を見て息を呑んでしまう。
そこには、亡き夫と自分のウエディング写真を模したのだと一目で分かる男女の絵が画用紙いっぱいに描かれいたのだ。
それは、さくらが思う父母の姿であり、拙いながらも愛情溢れた絵だった。
「……さ、さくら……あなた、この絵をどうやって……」
「あのね! 白銀のおじちゃんがね。さくらが『お絵描き会でママの絵を描くの』って言ったら、ペンダントの写真を大きくしてくれたのっ! そして『これをよく見て、パパとママが並んでいる絵を描いてごらん』、って言ったから、がんばって描いたんだよっ!」
娘が描いてくれた絵の中に、幸せに満ち足りた笑みを浮かべる夫と自分がいる。
然も、絵の下部には【さくらのパパとママ】と直筆のサインが入っており、その偽りない想いが胸に染みていく。
愛娘の心が籠った絵を見て嬉しくて嬉しくて……クレアは堪えきれずにポロポロと両の瞳から涙を零してしまった。
(し、白銀さんッ……こ、こんなの狡い……これは反則ですっ!)
突然に涙を零して泣き出した母親の様子に驚いたさくらは、半泣きになって縋りつき悲痛な声を上げる。
「マ、ママっ!? どうしたの? さくらの絵が駄目だったの?」
「そうじゃないのよ、さくら。ありがとうね……パパとママをこんなに上手に描いてくれて……ママ、とっても嬉しくて、嬉しすぎて泣いちゃったのよ」
思いっきり愛娘を抱き締めたクレアが心から礼を言い頭を優しく撫でてやると、母親の笑顔を見て安心したのか、さくらも満面に笑みを浮かべクレアに抱きつくのだった。
その心底嬉しそうな愛娘の笑顔を見たクレアは、昨日達也に言われた事が正鵠を射ていたのだと改めて思い知らされ、想いを新たにしたのである。
(この娘を盗られたと嫉妬していたのが馬鹿みたい。ふふふっ。やはり白銀さんの言う通り、大人の理屈をこの娘に押し付けて否定するべきではないわ……さくらの思うままにさせて、万が一の時は私が護ればいい……それだけの事ですもの)
一頻りじゃれ合った後、クレアは愛娘が驚く提案を微笑みと共に告げてやる。
「さあ、さくら。制服を着替えてからお隣のお父さんに、その絵を見せてあげるといいわ。きっと『上手に描けたね』と褒めて下さるわよ」
一瞬ポカンとした表情を浮かべたさくらは、直ぐに萎れた顔を俯かせて不安げな声で訊ねた。
「い、いいの? 白銀のおじちゃんのこと……お父さんって呼んでも? さくらは嬉しいけど……でも、でもね、ママが悲しいのは嫌だよっ!?」
今にも泣きだしそうな顔で縋り付いて来る愛娘をクレアは抱きしめてやる。
「ママは大丈夫よ。白銀さんはさくらの本当のパパと同じくらい優しい人だもの。さくらが彼から学びたい事があるのならそうしなさい。ただし、あまり甘えて彼を困らせては駄目よ」
母親の許しを得たことで、これからは何時でも何処でも、大好きなおじちゃんをお父さんと呼べるのだ。
そう理解したさくらの顔から暗い影が吹き飛び、大きな歓声が室内に響く。
「うんッッ! ママありがとうっ! さくら、ママが大好きだよッ!」
さくらは破顔するや脱兎の如く自分の部屋に駆け込んでお気に入りのワンピースに着替え、画用紙を掴んで全力で玄関を飛び出していくのだった。
そんな愛娘の後姿を優しい視線で見送りながら、クレアは自分の胸の辺りにそっと手を添える。
そして、そこに在る大切なものを慈しむかのように掌で包み込んだ。
(あなた……これからも此処から私達を見守っていて下さいね。私も、もう大丈夫ですから……あなたの想いも願いも、ずっと一緒に抱えて生きて行きます。ありがとう、悠也さん)
もう自分を見失って嘆き悲しむ事はないだろう。
さくらのために、そして自分自身のためにも今を一生懸命生きて行こう……。
クレアはそう強く心に誓うのだった。
それにしても隣人の同僚教官殿にはやられっ放しである。
(まったく……本当にひどい人だわ……私にばかり恥ずかしい思いをさせて。然も泣かされるのは私だけだなんて……ふんだっ! いつか思い知らせてあげますからねっ!)
そう決意したクレアは隣人の住居の方へ向かって、可愛らしい仕種で小さく舌先を出すのだった。
◎◎◎




