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第六話 白銀達也とクレア・ローズバンク ②

 《銀河連邦宇宙軍総本部 アスピディスケ・ベース》


 航宙艦隊幕僚本部総長ユリウス・クルデーレ大将は、目の前に立つ眉目秀麗(びもくしゅうれい)な高級参謀から露骨(ろこつ)に視線を外し、革張りの肘掛け椅子に()()り返っている。

 苦虫を嚙み潰したような表情で腕組みをし、明後日の方向を向いている大将殿の子供じみた態度にラインハルトは内心呆れ果てていた。


(これが百万隻の戦力を誇る航宙艦隊のトップとはな……世も末だ)


 如何(いか)にも不本意な決定とはいえ、部下の前で体裁を取り(つくろ)う度量もないこの男が銀河連邦宇宙軍トップの一人だという現実が、ラインハルトには性質(たち)の悪い冗談に思えてならないのだ。

 今回彼が航宙艦隊本部に召致された背景には、先頃から各方面派遣部隊で先鋭化している《艦長職権限による弾劾権(だんがいけん)の行使》という問題があった。

 この騒動に対する連邦軍本部の最終決定を通達するという理由で、騒動を牽引(けんいん)していると目された彼が出頭を命じられたのだ。


 弾劾権(だんがいけん)行使(こうし)とは、派遣艦隊内部で艦隊司令官やその幕僚達に(いちじる)しく不都合な事案有りと麾下(きか)の艦長らが判断した場合に限り、上官の罷免(ひめん)や遂行中の作戦の中止並びに撤回を要求できる特別な権限の事を指す。

 (もっと)も、あまりにも特殊で稀有(けう)な事案であり、双方にリスクが大きい為、これまでに行使される事は(ほとん)どなかった。

 それが、ひと月前に本部参謀ラインハルト・ミュラー大佐宛てに五十件もの訴状が提訴されたものだから、幕僚本部が騒然となったのも当然だといえるだろう。


 この騒動は日雇い提督と揶揄(やゆ)される白銀中将に直卒の艦隊戦力を与え、その地位に相応(ふさわ)しい影響力を発揮できる環境を整える為に、ラインハルトが仕掛けた計画に他ならなかった。

 秘かに協力を確約してくれた五十名の艦長達は、全員がガリュード艦隊の猛者(もさ)として勇名を()せた強者ばかりで、各方面艦隊内でも古株として一目置かれる彼らの言い分を本部幕僚部も無視できなかったのだ。

 訴追された司令官や参謀らは全員が貴族閥に名を連ねている者達ばかりであり、彼らの身分保証と引き換えに、五十名の艦長達を達也の麾下(きか)に加えて新たな艦隊を編成させる……。

 それがラインハルトの目論見(もくろみ)だった。


 だが、想定外の出来事により、その計画は修正を余儀(よぎ)なくされてしまう。


 彼らの行動を知った他の方面艦隊に所属する多くの艦長達が、我も我もと弾劾権を行使して上層部批判を繰り広げたから(たま)らない。

 その数は最終的に千五百件を超えるという大騒動に発展し、その全案件の主たる行使者達が、銀河中を渡り歩いた達也と共に戦った部下達で()められていたのは僥倖(ぎょうこう)だったと言うべきか(いな)か……。

 その事実を知ったラインハルトは呆れ顔で『達也らしいよな』と苦笑いするしかなかったのである。


(実務型で天才肌。おまけに人情に厚い達也が、短期間で部下将兵の心を掴むのは不思議じゃないが……これは、(いく)ら何でも多過ぎやしないか?)


 ラインハルトにとっては嬉しい誤算だったが、銀河連邦宇宙軍指導部にとっては由々(ゆゆ)しき大問題であり、事態の収拾の目途は容易に立たなかった。

 反抗者が少数であったならば裏取引で懐柔するという手もあったのだが、問題がここまで大きくなってはそれも難しい。


 当初ユリウス大将と幕僚部は、弾劾権を行使した艦長達を、職権を乱用し不要な騒動を引き起こしたとして、騒乱扇動罪(そうらんせんどうざい)という名目で処罰しようと考えていた。

 だが、そんな稚拙(ちせつ)なやり方では、(かえ)って批判が噴出しかねないと判断した軍令部と軍政部の強制介入によって、ユリウスの暴挙は未然に阻止されてしまう。

 その結果、軍令部と軍政部に自身の職域に介入された挙句(あげく)に、頭越しに和解案を押し付けられたユリウス総長は、大いに不貞腐(ふてくさ)れているという次第だった。


 弾劾権を行使した士官達の処置(しょち)と今後の処遇(しょぐう)について、幕僚本部参謀が決定事項を読み上げる。

 その内容を脳内で精査したラインハルトは、当初の思惑は外れたとはいえ、決して悪い結果ではないと判断してほくそ笑んだ。

 何よりも弾劾権を行使した千五百八十名の艦長と、その艦船が全て達也の麾下(きか)に組み込まれ、新艦隊の編成が認められたのは嬉しい誤算だった。

 同時に艦隊司令官の達也は大将に昇進し、ラインハルト自身も少将に二階級昇進した上で艦隊副司令官に任命されたのには少々驚きはしたが、この望外の結果も、彼は好意的に受け入れたのである。

 まぁ、貰えるものは貰っておこうか、と言う程度の気安さではあるが……。


 しかし、当然ながら、全てが思惑通りという訳にはいかない。


 軍令部総長ゲルトハルト・エンペラドル元帥、軍政部総長カルロス・モナルキア元帥……連邦宇宙軍総本部に巣くう妖怪二匹はユリウスなど足元にも及ばない(したた)かな策謀家であり、今回の騒動に()いても表向きは寛容な態度を見せながらも、その裏では陰湿な対抗策を講じていたのだ。


(アクシデントがあったとはいえ、今回は痛み分けだな。一度、達也と話す必要があるか。ふふっ、勝手に神輿(みこし)にされたと知ったら怒るだろうなぁ、あいつ)


 そんな事を考えていたラインハルトは、参謀長の説明が終わったのと同時に慇懃(いんぎん)に頭を下げ礼を尽くす。


「今回の本部司令部の寛大な処置に心から感謝し。白銀艦隊司令官並びに麾下(きか)将兵に成り代わって御礼申し上げます」


 言葉遣いは丁寧(ていねい)だが、過分に嫌味を含んだ挨拶(あいさつ)にユリウスは露骨(ろこつ)に顔を(しか)めたが、それでも上から目線で相手を侮蔑(ぶべつ)するのを忘れなかった。


何処(どこ)の馬の骨とも知れぬ下賤(げせん)(やから)()えある銀河連邦軍大将だと? あの薄汚い成り上がりが、私と同じ階級だとは何の冗談なのか? ミュラー少将、君も我らと同じ銀河貴族だ……付き合う友人は慎重(しんちょう)に選んだ方がいいぞ。さもなくば家名に傷がつくのではないかね?」


 総長のその言葉に取り巻きの幕僚連中が含み笑いを漏らすや、(あざけ)るような視線を投げ掛けてくる。

 しかし、それらを痛痒(つうよう)にも感じないラインハルトは、自然体で微笑みを返す。


「御忠告は感謝いたしますが、家名などというカビ臭いモノに縛られる不自由さとは無縁な今の生活を気に入っておりますので、どうかお気遣いなく」


 そう嫌味で応えて形式的に敬礼をしたラインハルトは、(きびす)を返して退出しようとしたが、今一度立ち止まって振り向くや、不快げに顔を(ゆが)めるユリウスや幕僚達を底冷えする様な視線で射竦(いすく)めて言い放った。


「白銀達也大将閣下は、私にとって掛け替えのない上官であり親友でもあります。今後、()の提督を不当に(おとし)めたり(あざけ)った場合は私も寛容ではいられないでしょう。その御つもりで御発言なされよ」


 そして、再度(きびす)を返すや、今度こそ退出したのである。

 その後ろ姿を見送るしかなかったユリウスは、激昂して肘掛け椅子から立ち上がるや、机上に積み上げられた報告書の山を()ぎ払い、側近達に怒声を浴びせた。


「あの(けが)らわしい野良犬共をっ、これ以上我が物顔で振る舞わせてはならぬっ! 奴らが配される西部方面域司令部に早急に連絡を入れよっ!」


 慌ただしく動き出した幕僚達を見やりながら、ユリウスは暗い情念に魂を()がすのだった。


            ◇◆◇◆◇


 甘美な時間の流れの中、美しい桃源郷(とうげんきょう)何処(どこ)までも続く世界……。


 最愛の夫と語り合い、他愛もない冗談に顔を(ほころ)ばせ、誰よりも互いを理解しているのだと感じられる至福(しふく)の時間。

 一糸(まと)わぬ姿で抱擁(ほうよう)を重ね、心地良い温もりに包まれて()わす熱いくちづけ。

 だが、心の奥底から(あふ)れ出る熱い想いを求めて、最愛の夫に顔を近づけた刹那(せつな)、彼の顔は暗く(よど)んだ闇に覆われてしまう。

 どれだけ必死に目を()らしても、そこに在るのは何処(どこ)までも続く、深い深い漆黒(しっこく)の闇……。


 焦燥感(しょうそうかん)(とら)われて狼狽(ろうばい)し、胸を切り裂かれるような絶望を認識した途端、最愛の夫も、周囲を(いろど)っていた目映(まばゆ)い光景も、そして甘美な幸福感までもが、その闇に呑まれて消えてゆく。

 そして、上も下も判然としない狭間(はざま)に取り残されたクレアに、何者かが語り掛けるのだった。


『いつまで過去に縛られて、無為(むい)に時間を過ごしていくの?』

(違う、私は過去に縛られてなんかいないわ)

『思い出の中に逃げ込んでも、辛く苦しいだけなのに……』

(逃げたりしてない。私は辛くなんかない!)

『自分さえ良ければ、家族はどうなってもいいの?』

(そんな馬鹿な事を考える筈がないでしょう!)

『さくらが寂しい思いをしても、放ったらかしにするの?』

(そんなつもりはないわ! 私はあの娘を一番大切に想っている!)

『娘の為に為すべき事をしない貴女に、母親の資格なんかない……』

(ち、違う、違う、違うぅぅ──ッ!)


 胸を刺し貫く冷淡な言葉の(やいば)に絶叫を(もっ)(あらが)うが、足元が崩落するような感覚と共に果てしない闇に呑まれていくクレアは、無限の奈落へと()ちて行くしかない。

 その恐怖に(おのの)き、声にならない悲鳴を上げた瞬間……。

 悪夢から解放されたクレアは、覚醒して跳ね起きるのだった。


 呼吸は荒く、その息苦しさに眩暈(めまい)がし、汗で濡れたネグリジェが素肌に張り付く感触に不快感を覚えずにはいられない。

 恐る恐る周囲に視線をやれば、そこが自分の寝室だと知って、(ようや)安堵(あんど)の吐息が唇から(こぼ)れ落ちた。


(……また、あの夢……もう、何度目かしら……)


 乱れた呼吸を整えながら枕元のスタンドライトのスイッチを入れ、灯火に照らされた置時計に目をやる。


(まだ午前一時なのね……どうして、こんな……)


 暗澹(あんたん)たる気分で溜息を漏らすクレアは、額の汗を(ぬぐ)った。

 ふと気づけば亡き夫と一緒に撮ったウエディング写真が目に入り、どうしようもない切なさが胸の中に込み上げて来る。

 写真の中の夫は昔と変わらない笑顔を浮かべているのに、夢の中とはいえ、その顔が(かす)んでしまうようになった……。

 そんな自分がひどく酷薄(こくはく)な女に思え、自己嫌悪に(さいな)まれてしまう。


 亡夫に対する愛情が薄れた訳ではない。

 (むし)ろ、月日を重ねる(ごと)哀惜(あいせき)の念は膨らみ、幸せだった頃の情景ばかりが脳裏に描き出されるのだ。

 しかし、亡夫に対する未練を嘲笑(あざわら)うかの様な悪夢を見る(たび)に『過去は全て忘れた方がいいよ。そうすれば苦しまなくてすむんだよ』 と言われているように思え、益々気分が鬱屈(うっくつ)して苦悩の深淵(しんえん)へと突き落されてしまう。


(……全てを忘れた方が良いのかしら。悠也さんの事も何もかも……そうすれば、こんなに苦しくて辛い想いはしなくて済むのかもしれない)


 ネガティブな考えに支配されそうになったクレアは、両手で顔を(おお)って苦し気な(うめ)き声を漏らす。


 まだ二十代(なか)ばのクレアは充分に若く魅力的であり、交際や結婚を申し込んでくる男は後を絶たない。

 しかし、そんな気がないクレアにとっては、礼を失さないよう丁重にお断りするだけでも、精神的な苦痛を感じて憂鬱(ゆううつ)になってしまう。

 また、良縁だと声高に見合い話を持ち込んでくる傍迷惑(はためいわく)な人々が後を絶たないのも悩みの種だった。

 その上、実の両親までもが、『さくらの為にも、本気で再婚を考えてみてはどうか?』と再三再四見合い話を(すす)めて来るようになり、クレアの不快指数は上昇線を描きっぱなしなのだ。


 再婚を(すす)める人々が判で押したように口にする、『さくらちゃんの為にも……』という言葉がクレアの苦悩を深刻なものにしていた。


(私だってあの娘を幸せにしたいわ。でも、さくらの為って何をすればいいの? どうすればあの娘が幸せになれるの?)


 毎日、自分自身に問い掛けては必死に答えを探すのだが、明確な解答を得るには(いま)(いた)らず、焦燥(しょうそう)と苦悩ばかりが深くなる。

 それなのに、その肝心の愛娘ときたら……。

 隣に越して来た初対面の男性を『パパ』と呼んで抱き着く始末。

 父親という存在に()()がれるさくらの気持ちを目の当たりにしたクレアは、葛藤(かつとう)して激しく胸を締め付けられずにはいられなかった。

 そして『どうして、さくらにはパパがいないの?』と訊ねられた時の、涙を滲ませた愛娘の悲し気な瞳を思い出せば、更なる痛みに(さいな)まれてしまう。

 (いく)ら考えても良い方策は見つからず、このような悩みを相談できる人間もいないクレアは、身も心も憔悴(しょうすい)していた。

 そして今日、士官学校からの帰り道で見たくもない光景を目の当たりにした彼女は、その衝撃に茫然自失の体で(たたず)む他はなかったのである。


 達也に肩車をして貰い、嬉しそうに(はしゃ)ぐ愛娘の口から立て続けに飛び出す言葉。

 『お父さんっ!』というその言葉を耳にした時に心に芽生(めば)えた感情は、絶望的な喪失感と仄暗(ほのぐら)さが滲む激しい嫉妬(しっと)


 自分一人が何も知らされず、蚊帳(かや)の外に置かれていたのだと知った時の疎外感(そがいかん)に打ちのめされたクレアは、その場から逃げ出す様に立ち去るしかなかった。

 そして真っ直ぐ自宅に戻った彼女は、玄関のドアを後ろ手に閉めた途端、足腰から力が抜けて崩れ落ち、声を押し殺して(むせ)び泣いたのだ。


 顔を(おお)っていた両手を降ろし、何度目かの溜息を吐く。


(父親を知らないのですもの……あの娘ばかりを責める訳にはいかないわ)


 間もなく誕生日を迎えるといっても、母親ですら答えの出せない問題を、五歳の幼子(おさなご)に理解しろという方が理不尽だというのは分かっている。

 だから、持って行き場のない遣る瀬ない想いや怒りは、必然的に愛娘を篭絡(ろうらく)せしめた男に向けられるのだった。


(出しゃばらないと言ったくせにっ! さくらに『お父さん』と呼ばせて()い気になって……最低よ、最低だわ! 少しでも良い人だと思った私が馬鹿だったわ!)


 一旦、心の(せき)を切って(あふ)れた想いは留まる所を知らない。


(人の苦労も知らないで、あの娘を甘やかせるだけ甘やかせて……そんな事をして欲しいなんて私は頼んでないっ! 自己満足に(ひた)りたいなら他所(よそ)でやればいいじゃないッ! 馬鹿っ! 偽善者っ! 白銀達也のアンポンタン!)


 激昂(げきこう)する感情に(あお)られる儘に、声には出せない罵詈雑言(ばりぞうごん)を胸の中で叫び散らす。

 だが、鬱憤(うっぷん)を吐き出して少しだけ気持ちが落ち着くと、今度は別の自分が、そうではない……と心の奥底で訴え、それに対して悲鳴にも似た痛哭(つうこく)が投げ返されるのだった。


(彼がそんな軽薄な人間ではないと分かっているのでしょう? さくらの境遇を不憫(ふびん)に思われて、あの娘の我儘(わがまま)を受け入れてくれたに違いないわ……だから、彼に不満や怒りをぶつけるなんて筋違いじゃないかしら?)


(それじゃぁ、私が悪いというの? こんなに悲しいのに……辛くて、寂しくて、苦しくてっ! 頭がどうにかなってしまいそうなのにっ?)


 心の葛藤(かっとう)は望む答えを得ず、無限ループのように繰り返される。

 クレアは暗闇に沈む迷路を延々と彷徨(さまよ)うような感覚に疲れ果て、うつぶせに横たわると枕に顔を埋めて(むせ)び泣くのだった。


            ◇◆◇◆◇


 四月最初の週末は春の陽気も本番を迎え、島内の桜もほぼ満開というニュースが流れる中で(はな)やいだ雰囲気に包まれている。

 だが、そんな(ちまた)喧騒(けんそう)とは相反(あいはん)するかの様に、クレアの心情は暗雲が垂れ込めたまま一向に晴れる気配はなかった。


 結局、昨夜は一睡もできずに夜明けを迎えてしまい、寝不足と疲労で今朝の気分は最悪だったが、彼女は平静を装って登校するや、気丈にも週末最後の授業を全うしたのである。

 幸いにも今日は三限目で受け持ち枠が終了という事もあり、四限目の授業に出て行く同僚達を見送ってから、クレアは早々に帰宅の準備に取り掛かった。


(とにかく白銀さんと、きちんと話をしよう……)


 何がさくらにとって最良の道なのか(いま)だに答えは見つからない。

 それでも安易(あんい)な親子ごっこを容認する気にはなれず、達也と腹を割って話し合うべきだと決意したのだ。

 幸い今日は保育園の月に一度の《お泊り会》があるため、さくらは明日のお昼頃まで帰宅しないから好都合でもある。


(今日の午後にでも、白銀さんの部屋を訪ねてみよう)


 そう強く決意して教官室を後にしたクレアは、人目を避ける様に通用口から校舎を出て中庭から裏門に抜ける細い道を足早に歩いた。

 周囲を木立ちに囲まれたこの小径(こみち)は、普段でも人通りが少ない場所であるため、授業中ならば尚更(なおさら)、誰とも出会わずに退校できる筈だったのだが……。

 間の悪い事に間道の途中で、顔を会わせたくない人物と鉢合(はちあ)わせしてしまった。


 グスタフ・シャルフリヒター大尉。本校の軍事格闘技の教官を務めており、先日達也に因縁(いんねん)を付けて(から)んだ人物でもある。

 旧ドイツ出身でクレアよりも十歳年上の三十五歳。

 格闘技では統合軍内でも五本の指に数えられると評される猛者ではあるが、力に拘泥(こうでい)するあまり、弱者を見下す傲慢(ごうまん)な性格だとの評価が定着している。

 また、酒癖と女癖が悪いとの噂も聞こえて来ており、クレア自身も余り良い印象を持てない相手だった。


「おやぁ? こんな場所でお目に掛かれるとは今日はツイている。どうですか? これから上海(シャンハイ)の高級レストランで食事でも御一緒しませんか?」


 物言いは丁寧(ていねい)だが、その目つきが(ひど)く粘着質で、思わず顔を(しか)めそうになるのを(こら)えたクレアは、丁重(ていちょう)な仕種で(こうべ)を垂れて誘いを断った。


「折角のお誘いですが、片付けなければならない用事もありますので……申し訳ありませんが、また機会を改めて……」


 当たり(さわ)りのない断りを口にしたクレアは小さく一礼して立ち去ろうとしたが、いきなりグスタフに左手首を掴まれ、その痛みに顔を(しか)めてしまう。


「あうぅッ! な、何をなさるのですか? は、放して下さいっ!」

「毎度毎度俺の誘いを(そで)にするなんて、あまりにつれないじゃないか。君を本気で想っている俺の気持ちも察してほしいねぇ、ローズバンク教官?」


 耳元でそう(ささや)かれゾッとするのと同時に、(かす)かだがアルコール臭が鼻をついて、クレアは目を()いて怒りを(あら)わにした。


「お酒を飲んでいるのですか? ここは学校ですよ、不謹慎(ふきんしん)じゃありませんか! あっ、くうぅぅ、や、止めて下さいッッ!」


 叱責を鼻で笑い、お得意の格闘術でクレアの抵抗を軽くあしらうや、彼女の左手を後ろ手に(ひね)るグスタフ。

 その激痛に(うめ)いて動きが止まったクレアを背後から抱きしめた彼は、下卑た笑みを浮かべ態度を一変させた。


「いつまで御高くとまっている気か知らないが、俺にだって我慢の限界があるんだ……何度も(そで)にされて傷ついた俺の心を(なぐ)めて欲しいなぁぁ」

「私などを誘わなくても、他に付き合ってくれる女性はいらっしゃるでしょう! それに、私には主人が……」

「御主人~~? これは滑稽(こっけい)だ。五年以上も昔に死んだ亭主に義理立てするなんて馬鹿げていると思わないのかい? この世にいない役立たずより、俺の方が万倍は好い目を見させてやれるんだぜ!?」


 最愛の夫を侮辱されたクレアは、激しい怒りに身体を震わせてしまう。

 大切な思い出に(つば)を吐かれた不快感に怒鳴り返そうとしたが、事態は彼女の想像を超えて悪い方へと転がり始める。


 グスタフの空いた手が乱暴にジャケットの胸の膨らみに伸びて来たのだ。

 全身に悪寒が走り、激しい嫌悪感に()き動かされたクレアは必死に抵抗した。


「いっ、いやあぁ──っ! な、何をなさるのですかッッ! や、止めて、止めて下さいッッ!」

「こんなに素敵な身体を独り寝させているなんて勿体(もったい)ない。死んだ亭主に何が出きると言うんだよ……忘れてしまえばいい、死んだ奴などきれいさっぱり忘れて俺のモノになれよっ!」


 懸命に暴れるクレアに(ごう)を煮やしたグスタフは、力任せに彼女を(そば)草叢(くさむら)に引き()り倒したが、彼女の平手打ちを頬に受けバランスを崩して尻もちをついてしまう。

 その隙に逃げようとしたクレアだったが、後頭部に手刀の一撃を受けて昏倒(こんとう)し、絶体絶命の危地に(おちい)ったのである。


手古摺(てこず)らせやがってぇっ! まあいい……既成事実さえ作ってしまえばこっちのもんだ……たっぷりと楽しませて貰うぜぇぇッ!」


 己の(よこしま)な欲望を隠そうともしないグスタフは、無防備に倒れ伏すクレアに(おお)(かぶ)さるのだった。

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