第六話 白銀達也とクレア・ローズバンク ①
「ふん、ふん、ふう~ん。きゅっ、きゅっと拭いたら……えへへ、きれいになったよぉ~! お父さんっ!」
膝の上にチョコンと座っているさくらが、小さな手で包む様に持った銀色の腕輪をハンドタオルで丁寧に磨き上げるや、満面の笑みと共に差し出して来た。
「おっ、ありがとう、さくら。腕輪君も『気持ち良かった』と礼を言っているよ」
それを受け取った達也は大袈裟に喜んでみせるのだが、お父さんと呼ばれる事が何処か他人事の様に感じられてしまい、未だに慣れずにいる。
因みに、ふたりっきりの時は名前で呼ぶようにとお願いされており、うっかり、さくらちゃん等と口にしようものならば悲しい顔をして拗ねてしまうため、細心の注意を払わなければならない。
だから、笑顔で礼を伝えた達也は、喜ぶさくらの頭を優しく撫でてやったのだが、少女の手にあった銀の腕輪は何時の間にか主の左手首に戻っているものだから呆れるしかなかった。
然も、何の断りもなく勝手にというのだから始末に悪い。
(精霊石を使った王家の秘宝と言っていたが、まさかファーレン人の意識の集合体だったとは……)
相変わらずトンデモ発明品を人に押し付けては、実験台に利用して悪びれもしないヒルデガルドへ、思いっきり罵倒を叩きつけたい心境だった。
全ては、この銀の腕輪を気に入ったさくらが、『磨いてあげるから貸してぇ』と言い出したのが始まりだ。
自在に転移できる優れモノではあるが、外す事も儘ならず、手首に嵌めっ放しにするしかない迷惑な代物に達也は正直困り果てていた。
とはいえ、自分の意思で取り外せない以上、さくらには諦めて貰うしかない。
そう思って説得しようとしたのだが……。
この腕輪が自分勝手に転移するや、図々しくもさくらの懐に収まったものだから、達也は大いに驚き呆れる他はなかったのである。
それ以来『お父さんの腕輪さぁ~ん』とさくらが呼ぶと、いそいそと転移しては、ピカピカに磨き上げて貰うまで本体を預けて寛ぐ始末。
その様子が何故か気持ち良さげに見えて、達也は妙に腹立たしくて仕方がない。
終いには、この腕輪が金属の塊ではなく謎の小動物に見える有り様で、何処か胡散臭いと警戒していた矢先に決定的な事態が起きたのだ。
夢の中に腕輪の主なる者が現れるや、慇懃な態度でこう宣ったのである。
『我らはファーレン人の意識集合体であるっ……好意を向けてくれる少女の想いを汲んで、その恩恵を君に託す』
目を覚ましてから恩恵とやらを実際に試してみた達也は、夢中のお告げが冗談ではなかったと知って呆然とするしかなかった。
彼等の言う恩恵とは腕輪が発揮する能力のパワーアップについてであり、詳細は以下の通りだ。
※ 次元断層を任意の空間に展開させ、高性能のシールドとして使える。
※ 次元空間に任意の収納庫を確保し、装備や物資を無限に確保できる。
以上の二点だった。
どうか夢であってくれ……。
そう願うものの、無意識のうちに零れてしまう乾いた笑いが止まらない。
聖剣炎鳳と次元断層シールドがあれば理論的には完全無敵だ。
空間機兵仕様の装備を着用した自分が、航宙母艦のカタパルトデッキから単騎で出撃して敵艦隊へ殴り込みをかける……。
そんな世紀末的映像が脳裏に浮かんだ達也は、現実離れした未来予想図に身震いせずにはいられなかった。
(俺まで人外の烙印を押されるのはまっぴら御免だ。可能な限り使用しない方向でいこう……人間離れしているのは、ヒルデガルド殿下だけで沢山だよ!)
己の中でそう結論付けたのと同時に……。
「あっ! ママぁ──っ! お帰りなさぁ~~い! わあぁ、ティグルも一緒だったんだぁ!」
帰宅した母親を目聡く見つけるや、達也の上から飛び降りたさくらは満面に笑みを浮かべて駆け出し、手にしていた荷物を降ろしたクレアも愛娘を抱き止めて微笑んだ。
そんな彼女の肩にはティグルが鎮座しており、小さく羽ばたいてさくらの肩へと移動したかと思えば、大きく口を開けて欠伸をする様子も何処かコミカルで、達也は思わず相好を崩してしまう。
時間は一七:三〇を少し過ぎた辺りで、これでも帰宅時間としては比較的早い方であり、彼女が如何に候補生達の教育に心血を注いでいるかが窺い知れる。
だが、クレアの頑張りに敬意を懐いている達也も、その生真面目すぎる性格には漠然とした不安も感じていた。
教官としての能力は優秀の一語に尽き、立場の弱い自分にも何かと気配りをしてくれる素晴らしい女性だというのは良く分かっているが、だからこそ、無理をして身体を壊しはしないかと案じてしまうのだ。
(何か力になれればいいのだが……)
余計なお世話だと分かってはいても、そう思わずにはいられなかった。
「ねえ、ねえ、ママ! 今日の晩ごはんは、ハンバーグぅ?」
「もう……昨日作ってあげたでしょう? さくらは毎日ハンバーグじゃないと駄目なのかしら?」
「だってぇ、ママのハンバーグ、レストランのより美味しいんだもんっ!」
「はいはい。でも今日はオムライスとから揚げさんで我慢なさい。ハンバーグは、お泊り会が終わる日曜の夜に作ってあげるからね」
「わあぁ~いっ! 約束だよ! やったぁ、ティグルも楽しみだねぇ!」
微笑ましい母娘のやり取りを見て頬が緩むのを自覚する達也は、今自分は柄にもなく優しい顔をしているのだろうと思って苦笑いしてしまう。
希望が叶ったさくらは、ティグルとじゃれ合いながら砂場の方へ駆けて行く。
その愛娘の姿を優しい視線で追いながらベンチに歩み寄ったクレアは、会釈をして達也の隣に腰を降ろした。
「お疲れ様。余計なお世話だとは思うが、補習や残業もほどほどにしないと身体を壊してしまうよ?」
「お気遣い頂いてありがとうございます。ですが私はまだまだ若いので、この程度では参ったりしませんわよ」
心配げな顔で気遣う達也に、口元を綻ばせて微笑み返すクレア。
「それは、俺が年寄りだとでも言いたいのかな? ローズバンク教官」
「うふふ。さあどうでしょう……でも、そういう貴方こそ大変なのではありませんか? 学校ではトラブル続きなのに、私生活でも毎日さくらの相手をして下さっているじゃありませんか……本当に申し訳ないと思いますし、無理を重ねてお身体を壊さないか心配です」
「トラブルには慣れているよ。君や遠藤教官にも随分と助けて貰ったしね。それにあの娘の相手は俺が好きでやっているのだから、君が気に病む必要はないさ。寧ろ母親としては、可愛い愛娘の傍にムサイ中年が引っ付いている方が心配じゃないのかい?」
達也が態とおどけるとクレアは口元を片手で押さえ、くぐもった含み笑いを漏らした。
(私に気を遣わせまいと道化役まで演じて下さるのね……そう言えば、男性とこうして気安く話をするのは一体いつ以来かしら……)
少なくとも最愛の夫を喪ってからは思い当たる記憶がなく、精神的に余裕のない日々を送っているのだと、今更ながらに気付いてしまう。
しかし、この人に出逢えたお蔭で、さくらは見違えるほど溌溂とした笑顔を浮かべるようになった……。
その事には心から感謝しているし、教務に対する真摯な姿勢からも、クレアの中で白銀達也という人間に対する評価が高いのは事実だ。
尤も、赤の他人が愛娘を変えてしまったことに母親として釈然としない思いがないではないが、幼竜と戯れるさくらに優しい視線を向けている彼を見れば、他の男性教官や御見合い相手にはない何かがあるのではないか……。
そんな漠然とした思いを懐かずにはいられなかった。
「うふふ。ムサイ中年だなんて……まだ三十歳前ではありませんか。そんなに自分を卑下していては、素敵な女性との出逢いを逃がしてしまいますわよ?」
「おいおいっ。君まで揶揄う気なのかい? この顔の所為で女性に好かれた経験はないよ。見合いをしても『お顔が……』『ご面相が……』と断られ続けて。なにか前世で悪い事でもしたのかな、俺?」
げんなりとした顔とは裏腹におどけて見せる達也だったが、その返答に納得できなかったのか、彼女は不思議そうな顔で小首を傾げる。
「そんな大袈裟な……その様に悪しざまに言われるほど怖い顔だとは思えません。さくらや真宮寺君達を見ている時の貴方は、とても優しい表情をしていらっしゃいますもの……私は素敵だと思いますわ」
そう言ってくれた彼女の台詞は眩しい微笑みのオマケつき。
メガトン級の破壊力とはこの事だと、達也は改めて思い知らされた。
無邪気な顔で小首を傾げる仕種は少女の初々しさを失っておらず、そんな二十代半ばの優艶な美女から、清楚な微笑みと併せて『素敵だと思いますわ』と囁かれれば、転ばない男はいないだろう。
思わず見惚れて呆然としている己に気付いた達也は、努めて平静を装うしかなかった。
(いかん、いかん。危うく勘違いするところだった……しかし、この女性は自分の魅力に全く無頓着なんだな……なまじ悪意がないだけに性質が悪い。本当に罪作りな女性だ)
毎週必死にデートに誘おうとしては玉砕を繰り返しているにも拘わらず、それでもメゲナイ憐れな同僚教官諸君には心から同情せずにはいられない。
「そ、それはどうも。そんな風に言われたのは初めてだな。十年以上も同じ釜の飯を食った親友でさえ『お前が真面目な顔をすると部下達が畏縮するから、四六時中笑っていろ!』と言うんだ。だから少し嬉しかったよ……ありがとうローズバンク教官」
「うふふ、それはどういたしまして。でも、御見合いをなさるという事は御結婚も考えておられるのでしょう?」
「御見合いをするというよりも、させられていると言う方が適切でね。世話好きで見合いを勧めるのが趣味みたいなおばさん連中は何処にでもいてさ……今のところ結婚する予定はないんだが……」
心底困っているという風に顔を顰めた達也に、クレアは大いに共感し賛同の意を露にする。
然も、両の拳を握り締める程の力の入れ様に、何事かと驚くしかない達也。
「そうっ! そうなんですよ! 頼んでもいないし、望んでもいないのに煩わしい見合い話を持って来るのです……毎回毎回、お断りをしなければならない私の身にもなって欲しいですわ。本当に、もうっ!」
明らかに踏んではいけない地雷だった。
ひとり憤慨して愚痴るクレアの様子に気圧されした達也は、なんとも遣る瀬ない思いを心の中で呟くしかない。
(俺は断られる一択なんだが。まあ、確かにその方が気が楽なのかもしれないな)
そう自虐気味に自分を慰めながらも、納得し難い世の理不尽を思い苦笑いを浮かべた時だ。
先程から公園の奥の茂みの辺りで、ティグルと何やらゴソゴソしていたさくらが、此方に向けて小走りに駆けてくる姿が目に入った。
しかし、少女がやや不自然な格好をしているのに気づいた達也は、その違和感の正体が分からずに小首を傾げてしまう。
可愛い両掌を胸の前で重ね合わせ、何かを抱くような格好で駆けて来るさくらの姿は、やはり何処か不自然に見えた。
だが、見合い話に憤慨し熱弁を振るっていたクレアは、息せき切って駆け寄って来る愛娘の姿に気付くのが遅れ、その災厄を躱す機会を逃してしまったのだ。
「ママぁ~! 見て、見てぇッ! 可愛いカエルさん見つけたよぉ!」
歓喜の声と共に、クレアの眼前に突き出された少女の掌の上には、黄緑の肢体も鮮やかな雨蛙が一匹鎮座していたのである。
……至近距離で雨蛙君とクレアがにらめっこ……。
『げこ、げこ、げこっ』
…………………………。
「ひっ、ひいぃ──ッ!」
ほんの一瞬だけ、全てが凍り付いたかの様な静寂が周囲を包むかに思えた。
しかしそれは、絶叫と形容するに相応しいクレアの悲鳴で、瞬時に打ち破られてしまう。
「い、嫌あぁぁぁぁっ! だ、駄目、駄目よ、さくらぁぁ! マ、ママ、ママ駄目なのぉ! カ、カエルさんは駄目ぇぇぇ! どっかにやって、お願いよ! さくらあぁぁ──っ!」
余程苦手なのだろう。この世の終わりかと思える程の悲鳴を発して泣き叫ぶ母親の姿に愛娘はびっくりするしかなく、そして、達也は別の意味で驚いて間抜け面を曝すしかなかったのである。
恐怖のあまりカエルから逃げようとしたクレアが、反射的に抱きついて来たのだから、驚くなという方が無理だろう。
然も、パニックに陥っている為に見境や遠慮という概念が完全に欠落しており、あらん限りの力でしがみ付くという表現が相応しい、熱烈な抱擁を堪能する栄誉に浴しているのだ。
その美しい顔を左肩辺りに埋めたクレアが、華奢な両腕でしがみ付いている為に互いに上半身を正面から密着させる体勢になってしまい、不可避の現実として彼女の豊かな双丘が押し付けられる格好になってしまう。
(良い香りがするし、柔らかくて魅力的な身体……これで何事もなければラッキースケベの役得で済むんだが……絶対に無理だな)
比較的に身体の線が出ない服装を好むクレアが抜群のプロポーションの持ち主なのは、校内の男性諸氏に広く周知されている事実だ。
しかし、同僚との飲み会にさえ滅多に参加せず、異性との個人的なお付き合いに至ってはシャットアウトという身持ちの固い彼女の性格を考慮すれば……。
この後に起こり得る展開が容易に想像できてしまい、達也は深い溜息を零すしかなかった。
性格の悪い親友にヘタレと罵倒されようとも、この状態で彼女を抱き締めるような蛮勇は持ち合わせていないし……第一、まだまだ命が惜しい。
せめて無罪を主張するためにも、両手を身体の横でホールドアップさせて裁きの時を待つしかなかったのだが、その無慈悲な瞬間は、さくらが蛙を解放する事で早々に現実のものとなってしまう。
「ママぁ。ごめんなさい……カエルさん逃がしたから大丈夫だよぉ」
「う、うぅぅ……ほ、本当?……嘘言ってない?」
完全に恐怖が消えたわけではないが、それでも愛娘の言葉を信じて恐る恐る顔を上げたクレアは、そこで違和感に気付いた。
(あ、あれ? な、何だか温かい……私、誰かに抱きついているの?)
涙で霞んだ視界が急速に焦点を結んだ途端、眼前の至近距離にあったのは紛れもなく達也の顔だ。
恐怖に負けて見境なく抱きついてしまったのだと理解が及んだ瞬間に脳が沸騰し、爪先から頭の天辺まで突き抜けた羞恥心によって、もの凄い熱量が顔に集中するのが分かってしまう。
一方の達也は、眼前の美しい顔が、脅えから驚愕に変化していくさまを、諦めの境地で観察するしかなかった。
(うわぁ~~人間の顔って、こんなに真っ赤になるんだなぁ……)
何処か他人事のような感想を懐いた途端。
「きっ、きゃあぁぁぁぁぁ──ッッ!!」
ぱあ~~~んッ!
絹を裂くような悲鳴と頬を打つ乾いた音が夕闇迫る公園に響いたのである。
◇◆◇◆◇
翌日は金曜日。
週末を控え何処か浮ついた雰囲気が漂う伏龍にあって、白銀組はその限りではなかった。
神鷹とヨハンを含め四人態勢で授業を行う初日とあって、彼らは極めて意気軒昂であり、怪我の治療中であるヨハンでさえ、他のメンバーと同等のカリキュラムに懸命に取り組んでいる。
だが、そんな時に限って与えられる課題は厳しいものになり、彼らを大いに嘆かせるのだった。
「ううぅぅ~~どうして私や蓮までが死に戻り体験なんですかぁ~~? こんなの一回で充分ですよぉぉ……」
息も絶え絶えの詩織が、眉根を寄せて恨めしそうに非難の声を上げる。
蓮や神鷹、そしてヨハンに至っては、カプセルシミュレーターから這い出るのがやっとの状態であり、全員が疲労困憊してノックダウン寸前という有り様だった。
蓮と詩織はヴァーチャルシステム初体験組である神鷹とヨハンに付き合う形で、例の悪趣味な死亡体験シミュレーションを再体験させられたのだ。
勿論好んでという訳ではなく、達也からの命令に他ならない。
「な、何度体験しても慣れないな……足がガクガクだよ」
「うぷっ! す、凄くリアルで……し、死ぬって、こんなにも苦しい事だったんだ……」
「リ、リアル過ぎだろうっ!? 隣にいたおっさんの首が飛んだ時はマジで意識が吹っ飛んだぜ」
蓮、神鷹、ヨハンの情けない感想に達也は呆れ顔で説教した。
「何を情けない事を言っているんだ。お前達も任官すれば、いずれは部下を率いて戦場に出るのだぞ。今経験した惨めで無様な死にざまを部下が被らないよう指揮をする必要があるんだ。その為には自身の能力を極限まで磨かなければならない……甘ったれるのならば早々にギブアップしてもいいぞ」
その厳しい叱責を甘受するしかない教え子達は、表情を改め教官の前に整列して背筋を伸ばす。
「明日からは本格的な共同訓練を開始する。それぞれの端末に個別の資料を送信してあるから、予習と復習は念入りに行う様に……ヴラーグは、専門用語の理解力が劣っているので、資料を熟読し理解するようにしなさい。真宮寺、お前自身の復習にもなるから面倒を見てやれ」
「はい。了解いたしました。どうするヨハン? 俺の部屋でやるか?」
「そうだな……面倒かけるが、よろしく頼む」
憑き物が落ちた様にさっぱりした表情のヨハンが、小さく頭を下げて懇願するや、蓮も気にするなと言わんばかりに軽く片手を上げて承諾の返事とした。
つい先日までいがみ合っていたとは思えない程、親しげなふたりの雰囲気に達也は思わず相好を崩してしまう。
教え子達の提案通り、ヨハンを受け入れて本当に良かったと思ったのだ。
すると、そんなふたりに嫉妬した訳ではあるまいが、詩織が頬を膨らませて文句を言い始めた。
「ちょっとぉ! 蓮の部屋だと男子寮じゃない。私は除け者なの?」
「そんなつもりはないけど……あの騒ぎからまだ二日だぜ? 他の人間の見る目が急に変わるとは思えないしなぁ……」
どうにも歯切れが悪い蓮の返答に、詩織も気難しい表情にならざるを得ない。
自業自得とはいえ、悪名高いヨハンが改心したという事実を信じる候補生達は、ほぼ皆無だと言っても過言ではないだろう。
然も、彼に便宜を図っても高官である父親からの見返りはないと知ったジェフリーら反白銀派の教官達は、早々にヨハンを見限っていた。
それどころか、達也のクラスに編入された事で明確な敵と認識したらしく、担当している教え子らに悪口を吹聴する始末。
そんな状況で人目が多い図書館や自習室を使えば、狭量な偏見に晒され、彼が不愉快な思いをするのではないかと気遣い、蓮は寮の自室での勉強会を提案したのだが……。
詩織と神鷹も思案顔になり、当のヨハンも珍しく消沈した表情を浮かべる。
すると、黙って聞いていた呆れ顔の達也が教え子達に教授した。
「情報戦は先手必勝だぞ。自軍に都合の良い状況を作る為には、真実と虚偽を織り交ぜた情報を効果的に流すのが肝要だ……ほれ、如月。これを貸してやる」
胸のポケットから取り出した一枚のカードを詩織に手渡すと、そのカードを見た彼女の顔にパッと喜色が浮かんだ。
「これはっ!? 学内の全施設で使えるクレジットカードじゃありませんか?」
「ああ、学食で甘いものでも食いながら勉強会をすればいいさ。強面のヴラーグが、お前達と仲良くパフェでも食っている姿を見せてやれば、周囲の疑念や警戒心など直ぐに吹き飛ぶ……遠慮なく食い倒してこい」
この太っ腹の提案に、教え子達は大喜びして礼を言い食堂に移動するべく教室を退出していく。
「あぁ……如月。済まないが、学食に行く前に教官室に立ち寄ってくれないか? 教務主任に伝言を頼みたいんだ。『急用が出来たので直帰する』と伝えてくれるだけでいいから」
最後に達也は詩織に伝言を託した。
今日は金曜日であり、先週教官室で起きた禍々しい出来事を達也は忘れてはいなかった。
志保に好いように利用された挙句に、他の教官の怨みを買うなど堪ったものではない。
だから、早々に戦略的撤退を選択した達也は教え子達を見送るや、逃げ出すかのように帰宅の途につくのだった。
◇◆◇◆◇
「これで機嫌を直してくれるといいのだけれど……」
候補生達に人気のスイーツショップで購入したケーキの詰め合わせを手にして、苦笑いを浮かべながらそう呟くクレア。
昨日の出来事の所為でさくらから散々に叱られてしまい、愛娘の御機嫌取りの為のアイテムを購入したという次第だった。
ただ、言い訳をする気はないがクレアにも言い分はある。
達也の頬を叩いたのは悪気があった訳ではなく、ただ吃驚して反射的に手が出てしまっただけなのだ。
しかし、彼は笑って許してくれたものの、さくらはカンカンだった。
幸い、夕食の頃にはティグルと遊ぶのに夢中になって、すっかり忘れてしまったようだったが、それでも娘の御機嫌取りの為にケーキを買うあたり、母親として、自分もまだまだ甘いと自省せざるを得ない。
(うん。たまにはケーキのお土産もいいわよね。喜んでくれるかしら)
さくらが喜ぶ様を想像したクレアは、少しだけ心が浮き立つのを自覚して相好を崩してしまう。
最近は悩みや辛いことが多くて消沈しがちだったが、少しずつ良い方向に流れが変わっている様にも思えて素直に嬉しいとも感じていた。
(……あの人に出逢ってからかしら……)
お隣の同僚教官の顔を思い浮かべた途端、昨日の公園での出来事が脳内シアターで絶賛再放映されてしまう。
慌てて顔を振って恥ずかしい映像を打ち消したクレアは、深呼吸をして動揺した心を落ち着けようと躍起になる。
蛙や蛇が大の苦手とはいえ、取り乱し醜態を晒した挙句に子供の様に泣き叫んで抱きついたのだから、思い出しただけで恥ずかしくて仕方がなかった。
(いい歳をしてみっともない……初心な女学生でもあるまいし)
自分の反応が恥ずかしいやら可笑しいやらで、自虐的な呟きが心の中に零れる。
知り合って日が浅いとはいえ、彼の人となりを知る機会は幾らでもあった。
なにかあるたびに自分の損得は考えもせず、率先して貧乏くじばかり引く不思議な人……。
しかし、背負い込んだ難関を、確固たる信念に基づく行動で見事に解決する姿を目の当りにすれば、同じ軍人として、また教官としても尊敬の念を懐かずにはいられなかった。
心無い同僚からは『口先三寸しか芸がない』と批判されてはいるが、それが的外れであるのをクレアは誰よりも良く知っているし、だからこそ白銀達也という同僚に対する評価は非常に高いのだと認めてもいる。
尤も、母親である自分を差し置いて、愛娘を篭絡せしめた不届き者という評価も、心の参考欄に太字で書き込んではいるのだが……。
そんな思考に没頭していたクレアは何時の間にか自宅の近くまで帰って来ているのに気付き、普段とは違う周囲の情景に思わず見入ってしまった。
まだ夕方の四時を過ぎたばかりとあって、往来には結構な数の学生や親子連れが行き交っている。
何時も陽が暮れてから帰宅する彼女には、ちょっとした別世界の光景に思えてしまい感嘆せざるを得ない……丁度そんな時だった。
クレアは人波の中に笑顔いっぱいの愛娘の姿を見つけたのだが、達也に肩車をして貰っているのだと気付いて声を掛けるのを躊躇ってしまった。
許してくれたとはいえ、あんな事の後では気恥ずかしさが先に立ってしまう。
肩車をして貰っているさくらと、その肩にチョコンと鎮座しているティグルという、ひどく楽しげな絵面に見入ってしまったのも確かなのだが……。
事実、幼竜と少女の組み合わせが目を引くのか、周囲の人々の視線が二人と一匹に釘付けになっていて、携帯端末の被写体にされてしまっている。
(さ、さすがに、隣に並んで見世物になるのは……勘弁して欲しいかも……)
クレアが尻込みしていると、達也は周囲の視線など気にした風もなくスイスイと人波を掻き分けて歩いていく。
その進路の先には、小さなショッピングエリアや遊戯施設が集まったマリゾンがあり、クレアもさくらを連れて何度か訪れた場所だ。
(もう、さくらったら……また白銀さんに我儘を言ったのね)
困ったものだと嘆息しながらも、今度こそ声を掛けようと背後からふたりに近づいたのだが、もう少しで彼の背中に手が届こうかという刹那、耳に飛び込んで来たさくらの歓声にクレアは凍り付いたかの様にその歩みを止めざるを得なかった。
「お父さんっ! すっごく高くて気持ちいいよ!」
「そりゃぁ良かった。さくらに喜んで貰えて僕も嬉しいよ。それで、今日はメリーゴーランドと観覧車がいいのかな? それとも浜辺を散歩するかい?」
そう訊ねられた愛娘は照れ臭そうに満面の笑みを浮かべ、彼の頭に抱きつく。
「えへへへっ……お父さんと一緒なら、さくらは何でもいいの……大好きだよぉ、お父さんっ!」
楽しそうに会話する二人の背中は次第に遠ざかり、直ぐに雑踏に紛れて見えなくなったが、唖然として立ち尽くすクレアは、手にしていたケーキの箱が地面に落ちたのにさえ気付けないでいる。
(……お父さん? 誰が……どうして……)
混乱する頭で事態を理解しようとするが、それは叶わなかった。
苦々しい何かが口の中いっぱいに拡がり、不愉快な感覚に心が騒ついてしまう。
得体の知れない感情に憑かれたクレアは、ひどく頼りない足取りでその場を後にするのだった。




