第四話 日雇い提督と少女の哀願 ②
(今日も遅くなってしまったわね……)
ほぅっ……と小さな吐息を漏らすクレアは意識して歩を速めた。
新しく受け持った候補生達との面談があったとはいえ既に陽は大きく傾いており、遥か水平線の彼方に沈み往こうとしている。
最上級生を預かっているという気負いもあり、新学期が始まってからというもの帰宅時間は遅くなるばかりだというのに、週末が近づく度に、やれ食事だ、観劇だナイトクルーズだと、デートのお誘いは引っ切りなしという有り様だ。
異性との交際など眼中にないクレアは丁重に断ってはいるが、その対応に取られてしまう時間も馬鹿にはならず、結果的に私生活を犠牲にしなければならない事態にクレアは困り果てていた。
(子持ちの未亡人など誘わなくても、他に良い娘は幾らでもいるでしょうに)
腐れ縁の悪友が聞けば間違いなく呆れるであろう見当外れな自己評価を、クレア自身は信じて疑ってもいない。
彼女は今でも亡くなった夫を愛しており、他の男性など眼中にもないのだから、そう思い込むのも当然といえば当然なのだが……。
結婚歴があり五歳になる子供がいる女を、なぜデートに誘おうとするのか?
彼らの言い分を集約すれば、『それでも充分すぎるほどに魅力的だから』という理由に尽きるのだが、女の魅力云々など自分には関係のない話だと思っている彼女には、男達の考えがさっぱり理解できなくて困惑するしかないのだ。
そんなクレアを更に憂鬱な気分にさせているのは、休日返上で補習を行う約束を教え子達と交わしてしまった事だった。
勿論、休日出勤を忌避するわけではない。
だが、間の悪い事に、その日はさくらと交わした『進級祝いとして上海シティーにある人気の遊園地に連れて行ってあげる』との約束が入っている。
仕事の都合とはいえ、愛娘との約束を反故にせざるを得ないクレアにしてみれば、申し訳ない気持ちで胸が痛かった。
(きっと、がっかりするわね……あの娘……)
小さく吐息を漏らしたのと同時に彼女を乗せた無人カーはマンションの玄関前に停車し、開いたドアから降りたクレアは聞き慣れた声を耳にして顔を綻ばせる。
「ママぁ~~お帰りなさぁ~~いっ!」
敷地内の公園から駆け出して来た愛娘が、その勢いのまま腰の辺りに抱きついて来た所為でよろけたクレアは、辛うじて踏ん張って転倒を回避した。
「こらぁ、さくらったら。ママ、転んじゃうって、この前も言ったでしょう?」
「えへへっ……だって、ママは温かくていい匂いがするんだもん!」
困ったような顔で窘める母親と、言い訳しながらも甘える事をやめない幼い娘。
そこには一枚の絵画のような、穏やかで温かい母娘の姿がある。
「こんな時間まで一人で遊んでいたの? 危ないから、あまり遅くまで外にいては駄目よ?」
「うんっ! でもね、白銀のおじちゃんが、いっしょに遊んでくれるから大丈夫だもんっ!」
さくらがそう言ったのと同時に、遅れて公園から出て来た達也が笑顔で歩み寄って来た。
「白銀教官。本当にいつもすみません……お仕事が大切な時に……」
頻りに恐縮するクレアは、頭を下げて謝罪するしかない。
というのも、愛娘が達也に甘えては毎日のように遊んで貰っており、彼の学校での厳しい立場を思えば、負担を押し付けている様で申し訳ないと思っていたのだ。
達也と出会った日以降、さくらの口から『白銀のおじちゃん』という単語を聞かなかった日は一日もない。
夕食時は専ら愛娘の独演会であり、大好きなおじちゃんに遊んで貰ったことを、輝きに満ちた笑顔で話すのが日課になっていた。
そんなさくらの笑顔はクレアにとっても喜びに他ならず、『迷惑を掛けないように』という注意を、ついつい言いそびれてしまう日々が続いている。
「何を大袈裟な……さくらちゃんと遊んでいると俺も楽しいからね……遠藤教官や如月に比べたら正真正銘の天使だよ、この娘は」
そう言って屈託なく微笑む達也だったが、学校での事情をよく知っているクレアにしてみれば、自分に責任がある訳でもないのに恐縮するしかなかった。
志保の悪巫山戯の所為で、他の男性教官の妬みを一身に受ける羽目に陥った達也は、不本意ながら彼女の盾役を強要されて気苦労の絶えない状況に置かれている。
然も、如月候補生がグラス教官に叩きつけた啖呵が学校中に知れ渡るに至って、新任教官白銀達也には【強面教官】という不名誉なあだ名が付けられたものだから、クレアとしても同情を禁じ得なかった。
「本当に……志保のせいで……すみません」
「はっはは。君が気にする必要はないさ……さて、ママも帰って来たから、今日は此処でさようならだ。さくらちゃん、また今度な」
「うんっ! おじちゃん、ありがとうっ! また遊んでねぇ~~!」
エレベーターを降りたホールで挨拶をして、それぞれの家へと帰る。
幼竜と戯れながら今日の出来事を詳細に、そして嬉しそうに語るさくら……。
そんな愛娘に心の中で詫びるクレアは、頃合いを見て話を切り出す。
「あ、あのね、さくら……実は今度の日曜日の約束だけれど……」
◇◆◇◆◇
統合軍士官学校の休日は基本的に日曜と祝日のみであり、春夏冬にそれぞれ短期の休暇が設けられている。
月曜日から金曜日までは終日、土曜日は午前のみの授業となっていて、最上級生は平日の午後と土曜日の授業全てが特別研修に割り当てられていた。
午後の特別講習を受け持っている達也は、講義の内容をあれこれ工夫してみるのだが、どうにも納得いくものにならず、気持ちばかりが焦ってしまう。
(やはり座学だけでは駄目だな……放課後、イェーガー閣下に連絡してみるか)
そう結論付けたのと同時に、正門脇にそびえ立つ時計塔から正午を知らせる鐘が鳴り響き、一週間の授業が全て終了した事を告げる。
「よし。今週は此処までだな……来週用のテキストは既に送信してあるから、後で確認しておくように」
「「はいっ! 御教授ありがとうございました!」」
敬礼を交わしてから、達也は思うに任せない授業内容を詫びようと、教え子達に声を掛けた。
「すまないな。予定していた授業ができなくて……講義ばかりでは退屈だろうが、もう暫く我慢してくれ」
すると、意外にも蓮と詩織は揃って鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたかと思えば、両手を左右に振りながら、その憂慮を否定したのである。
「ちょっと待って下さい。何を仰っておられるのか分かりませんが。僕は退屈どころか凄く楽しくて……白銀教官に師事できて本当に良かったと思っていますよ」
「蓮の言う通りですよ。毎日更新されるテキストは凄く充実していますし、講義の内容も分かり易くて……それに、私達に意見を発言する機会を与えて戴けますから楽しいです。他のクラスでは、教官がテキストを読んで要点を解説し候補生は黙って聞くだけですよ。白銀教官の授業とは雲泥の差です」
その予想外の高評価に達也は面食らってしまったが、褒められて嬉しいのは人間の性であり、それは彼とて例外ではなかった。
「まあ、褒め過ぎではないかとは思うが、少しは安心したよ……どうだ、お礼代わりに新クラスの結成を祝して親睦会と洒落込まないか? 好きな店でランチを御馳走してやるぞ」
「本当ですかぁっ! ありがとうございますっ、ゴチになりまぁ~~す!」
「さすが白銀教官ですぅっ! 北部商業区にお洒落なフレンチがあるんです! ぜ、是非とも親睦会はその店で! 生涯教官に付いていきますからぁっ!」
蓮と詩織に否やはないし、教え子たちの性格を把握するには良い機会だと達也も気軽に了承したのである。
取り敢えず外出許可を取って、三十分後に正門前で待ち合わせと決めて講義室を出た途端、大気を切り裂くような爆音が頭上から降りそそぐや、それに続いた衝撃が硬質ガラスの窓を激しく振動させた。
同時に校舎の彼方此方から候補生達の悲鳴が立て続けに響き渡り、瞬く間に混乱が拡大していく。
その轟音に聞き覚えがあった達也は取り乱したりはしなかったが、正直なところ嫌な予感しかせず、冷や汗が背筋を伝い落ちる感覚に身震いせざるを得なかった。
(ま、まさか……あの音は……高速護衛艦のエンジン音?)
胸騒ぎに衝き動かされた達也は無言で駆け出すや教室を飛び出す。
すると、蓮と詩織も慌てて教官の後を追ったのだが……。
「あっ! ま、待って下さい、白銀教官! どちらに行かれるのですかぁっ!?」
「し、白銀教官っ! フ、フレンチの約束を忘れては駄目ですぅっ!」
非常事態であるにも拘わらず、緊張感の欠片もない教え子たちの言葉は無視して懸命に廊下を走る達也。
そして、彼の不安はものの見事に的中するのだった。
島の南西端に位置する伏龍の更に西側にある、未使用の港湾施設の沖合上空に轟音を発する物体の姿を視認した達也は、それが想定の代物に間違いないと悟って溜め息を零してしまう。
それは空中を滑空しながら高度を落とし、今まさに着水しようとする一隻の軍用航宙艦の雄姿に他ならず、こんな傍迷惑な真似をする人物を達也はひとりしか知らない。
見事に着水を成功させた艦船は、海上で艦首を回頭させ港湾部への入港を目指しているようで、それを目撃した多くの候補生達が、五百mほど離れた港湾部に殺到したのは至極当然の反応だった。
達也らが港の桟橋に到着した時には、目に鮮やかなブルーの船体を陽光に煌めかせた銀河連邦軍航宙艦が接岸係留されており、一同は唖然とした表情でその船体に見入ってしまう。
然も優美な流線型のラインと後部の尾翼がマッチした艦の前では、林原学校長と銀河連邦宇宙軍将官が握手を交わしながら、話に花を咲かせているではないか。
銀河連邦軍の将官はフレデリック・イェーガー准将であり、真紅のロングコートを颯爽と着こなす姿には充分な風格が備わっていた。
「随分と手荒い来訪じゃないか? 事前に知らせてくれれば、空港の敷地を空けさせたものを」
「いやいや。どうせ一年間の期限付きだからねぇ。この港湾部を借り受ける契約も結べたし、敢えて煩雑な空港業務に無理を言わずに済んで良かったよ」
「それにしても、三ケ月ぶりだな。今日はゆっくりしていけるのかい?」
「ゆっくりどころか、連邦軍のオフィスを上海シティーの出先機関に移す事が決まってね。女房が海の傍が良いと言うものだから、この島の北部の一軒家に引っ越したんだ」
「ほう! それは目出度い。とっておきの酒を振舞わなければならないな。わはははは!」
「おうっ! それは楽しみだね。期待しているよ。龍太郎。ふわはははは!」
二匹の腹黒狸の会話から現状把握は充分に可能だった。
(……プロミス級高速護衛艦、艦名はリブラか。外殻に標準装備されている主砲が二基とも取り外されている……という事は訓練航海専用艦か……)
品定めを終えたのと同時に二匹の狸が歩み寄って来る。
達也をはじめ周囲の教官や候補生たちが一斉に敬礼する中、イェーガーは悪戯を成功させた悪ガキのように得意げな笑みを浮かべた。
「これなら期待にそえるかな? 練習航海艦だから兵装の大部分は外してあるが、それ以外の性能は、実戦配備されている同型艦になんら劣る所はないよ。御所望のヴァーチャルシステムも十機以上搭載しているから、候補生諸君の訓練にも充分に役立つはずだ」
「期待以上ですよ、閣下。それにしても、よく統合軍の許可が下りましたね?」
「許可?……あぁ、担当者が好意的でねぇ~~直ぐに承認手続きをしてくれたよ」
「好意的ぃ? まさか……」
「おいおい。なんだねその眼は? ま、まあ……人間誰にでも後ろ暗い事の一つや二つはあるものじゃないか。私はそれを、ほんの少しだけ突っついただけだよ……本当だよ?」
暗に統合軍軍政官僚を脅迫したと白状するイェーガーに呆れ果てた時、ジェフリー・グラスと複数の教官達が語気を荒げて詰め寄って来た。
「これはいったい何の騒ぎですかッ! 銀河連邦軍の戦闘艦艇は一隻残らず太陽系から退去するように命令が出ている筈ですがッ?」
「そうだっ! 連邦軍は優越的地位に胡坐をかいて、平然と条約破りをするつもりなのかっ!?」
「直ちに艦を退去させなければ、統幕本部に訴え出るしかありませんぞ!」
ジェフリーが口火を切るや、取り巻きの教官達も口々に抗議の言葉を吐き出す。
折角、裏工作までして達也の請願を棄却させたのに、こんな裏技が認められたのでは苦労が台無しになってしまう。
だから、どんな手段を講じてでも、艦艇の搬入を阻止するべく、ジェフリーらは息巻いているのだ。
しかし、イェーガーは彼らの剣幕に動じた風もなく、懐から数枚の書類を取り出すや、彼等にも良く見えるように眼前に突きつけたのである。
「条例外適用要項を認めた地球統合政府発行の承認書と、この港湾施設の一年間の借り受け許可証……ついでに統合軍幕僚総本部からの全権委任状がこれらの書類だが……何なら各担当部署に問い合わせてみるかね?」
「そっ、そんな馬鹿なっ……」
絶句するジェフリーが目を皿のようにして何度も書類を見直すが、それらが本物の許可証であるのは疑いようもなかった。
(今回は彼らに同情するしかないな……こういった駆け引きで、イェーガー閣下の右に出る者は滅多に居ないからな)
強かな老将から軽くあしらわれたジェフリーらは不運だったとしか言う他はなく、今回ばかりは達也も彼らに同情せざるを得ない。
そんな時偶然ふたりの視線が交錯したが、屈辱に肩を震わせるジェフリーの双眸に深い闇を見た気がした達也は、その正体を訝しみつつも目を逸らせなかった。
それは僅か一秒にも満たなかったが、彼は無礼な態度を一言も詫びる事なく踵を返したのである。
そして、固唾を呑んで成り行きを見守っていた候補生達に剣呑な視線を投げつけるや、ヒステリックに喚き散らしたのだ。
「おまえ達っ! 何を屯しておるのかぁっ! 授業はまだ終わってはいないぞ! 速やかに教室に戻りたまえッ!」
苛立に満ちた金切り声に急かされるようにして、候補生達は足早に学校へと戻るしかなかった。
彼らにとって主任教官の機嫌を損なうことは自身の評価を貶める行為に等しく、将来を犠牲にしてまで好奇心を優先させるもの好きは一人もいなかったのである。
剣呑な空気を撒き散らす教官と足早に去っていく候補生達を見送ってから、達也はイェーガーに頭を下げて謝罪した。
「申し訳ありませんでした。御骨折り頂いたにも拘わらず、同僚が無礼な物言いをして……彼らに成り代わって謝罪いたします」
「なに構いはしないよ。あの程度の跳ねっ返りなど、十年前の君に比べたら可愛いもんさ」
台詞の後半部分には大いに不満を覚えたが、下手に突っ込んだりしようものなら、面白おかしく脚色された昔話を暴露されかねない……。
そんな羞恥地獄には耐えられないので無言を貫く。
若かりし頃の恥ずかしい武勇伝を披露されるなど死んでも御免被るし、ゲットした蓮と詩織の好感度を手放したくはない。
だから、イェーガーの巧妙な罠を達也は笑顔でスルーしたのである。
思惑を外され口元に微苦笑を浮かべたイェーガーは、その謝罪に鷹揚に頷いてから顔つきを改めた。
「この船はAI制御による航海も可能になっている。君一人でも操艦はできるから、随時訓練に利用するといい。ただし、艦に入るときは君か私が一緒でないと、セキュリティーが作動して自動防衛モードに移行するから注意してくれたまえ」
何気に恐ろしい事をさらりと宣うと、懐から一枚のカードを取り出して達也に手渡す。
「これがパスカード。登録チェックは君の声紋と瞳認証のダブルだから忘れないように。それから、現在ヴァーチャルシステムのアップデートが行われている。作業には丸一日かかるから、終了次第授業にマッチするように微調整したまえ。通達は以上だが……」
一通りの説明を終えたイェーガーは、緊張した面持ちで控える蓮と詩織の前まで歩を進めるや、人好きのする笑顔を向けた。
「君達が大尉の教え子か……いいかい、人生という長い道のりには、結構たくさんの幸運が落ちているものだ。ただ、人はそれが幸運だと気付かずに素通りしてしまう……だが、君達は彼に師事する事で人生最高の幸運を引き当てたと言っても過言ではない……それは私が保障しよう」
「か、閣下。こいつらの前で恥ずかしい事を言うのは止めて貰えませんか」
達也は流石に気恥ずかしくなって窘めたのだが、イェーガーはお構いなしに蓮と詩織に対し訓示を続ける。
「こいつは昔から顔に似合わず恥ずかしがりやでね……まあ、欠点は多々あるが、軍人としての能力は超一級品だ。卒業までに貪欲に彼から学び、彼の全てを自分のものにしなさい。それが出来れば、君達の軍人としてのキャリアに大きく寄与し、将来の道を切り開く力になると断言しておこう……一途に精進したまえ!」
「はいっ! 粉骨砕身の覚悟で精進いたします!」
「閣下のお言葉を胸に日々努力してまいります!」
連邦軍将官から直言の訓示を受けた二人は、感激も露に決意を口にする。
達也は褒め殺し同然の仕打ちに文句を言いたかったが、教え子達のやる気を削ぐこともないと思い直し、敢えて何も言わなかった。
しかし、その判断は大きな間違いだったと直ぐに後悔させられてしまう。
「候補生の身で僭越ではありますが。イェーガー准将閣下にお願いがあります」
「あっ! 私も同様であります。是非ともお聞かせいただきたい事があります」
勢い込む蓮と詩織。それを受けて悪い笑みを浮かべる嘗ての上官。
嫌な予感しかしない絵面に達也は会話を遮ろうとしたのだが……。
「ほう、何かな? この老骨で答えられる事なら遠慮はいらないよ」
我が策成れりと勝ち誇るイェーガーの物言いに、教え子達は幼さが残る顔を期待に輝かせて声を揃えるのだった。
「「十年前の可愛い白銀教官のお話しを、是非とも伺いたくッ!」」
◇◆◇◆◇
結局、教え子達の前での羞恥プレーは一時間にも及んだ……。
二匹の古狸が満足して解散に至る頃には、達也は精神値を大幅に削り採られた哀れな亡骸と化してしまった。
然もその後、蓮と詩織にランチの約束の履行を迫られ、今更無かった事にも出来ず承諾するや、その席で好奇心丸出しの苛烈な追及に晒されたのである。
漸く解放された時には午後三時を少し過ぎており、マンションに帰り着いた達也は、いつもとは違う様子に小首を傾げてしまう。
何時もならば、息せき切って飛び出して来る少女の姿が、今日に限って見られないのだから、不審に思ったのも無理はないだろう。
(まだ保育園から帰っていないのかな?)
しかし、何気なく公園を覘いてみれば、一人ブランコに腰かけてぼんやりしているさくらを見つけ、達也は無用な心配だったかと胸を撫で下ろした。
だが、いつもとは違い寂しげな少女の様子が気になり、歩を踏み出して近づく。
すると、さくらが眼前の空間に映像化された3Dホログラムを無言で見つめているのが分った。
いつも身に付けているハート型のペンダントがホログラム転写装置だったようで、淡く発光するそれが、少女の目の前に一組のカップルの立体映像を映し出している。
それは若い男女の結婚式の記念写真で、花嫁は達也も良く知っているクレアであり、写真の中の彼女は少女の面影が残る美しい顔を、幸せいっぱいの笑みで飾っていた。
(すると、お隣の方が亡くなった旦那さんか……確か、久藤悠也さん……ふむっ。日本人離れした結構ハンサムな男性だな)
そんな感想を懐いた達也は、さくらを驚かせないように正面に廻り込んでから声をかけた。
「やあ、さくらちゃん。ただいま。今帰ったよ」
「あ……白銀のおじちゃん、おかえりぃ……」
微かに口元に笑みを浮かべただけで、再び目を両親の写真に向けるさくら。
初めて見た少女の仄暗い態度に戸惑ったが、達也は少女の背後に移動してしゃがみ込んだ。
「この人が、さくらちゃんのパパなんだね。ほう。凄いハンサムさんじゃないか……おじちゃんもパパさんみたいにハンサムだったら良かったのになぁ」
気落ちしているさくらを少しでも元気づけようとしたのだが、それに対する少女の反応に達也の戸惑いは更に大きくなってしまう。
「そんなのっ、どうでもいいもんっ! 顔なんてどうでもいいよぉっ!」
そう叫んで振り向いたさくらが顔をくしゃくしゃにしたかと思えば、猛然と抱き付いて来て、堰を切ったように大声で泣きじゃくるのだった。
事情が分らず困惑した達也だが邪険にもできず、少女の震える身体を抱き締めてやるしかなかったのである。




