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ぼくが天から戻って一週間が過ぎた夜のことだ。
「マレイ。マレイ、起きて」
がばっと跳ね起きた。確かに声を掛けられたけれど、そこはぼくの部屋で、ぼくのベッドの上だったし、人なんてどこにもいなかった。
「夢か」
何時だろう?蛍光塗料を塗った時計を見るとまだ二時半だった。暑いけれど風が吹いているからしのぎやすい夜だった。そしてふと窓の外を眺めると……
ぼくは文字通り飛び起きてベットから転げ降りた。窓の外に何かいる。いや、なにか小さなものが浮かんでいて……
もちろん忘れるはずもない。未だに夢に出てくるあのハチドリだった。こちらを見て宙に静止している。ぼくは深呼吸を一つする。あの悪夢は終わっている。ベオウルフはもういないし、監視者から何か嫌がらせを受けたり特別に監視されることもないだろう。とすれば、別の何かだ。
ぼくは窓際に寄って開いていた窓から首を出す。ハチドリはそのまま動かず、首だけクルっとぼくに向けた。
「何か用?」
ぼくはハチドリに向かって声を掛ける。すると。
「マレイ。おれだよ」
「ベン!」
ぼくの驚きをどう表現したらいいだろう。生きている内で、あの旅を含めてもあんなに驚いたことはない、そう言えばぼくの驚きを表現出来るんだろうか。
「夜中にすまない。でも今しかなかった」
「ベン!生きてたの」
ハチドリはベンの声を伝えるだけなのに、もうぼくには愛しいものに見えて来た。ベンが生きていた!
「会いたい。よかったら付いて来て欲しい」
ハチドリはベンの声でそう言うと、窓から離れた。ぼくは窓枠を乗り越え、裸足のまま外に出る。ハチドリはぼくの周りを一周すると、ふっと離れ、飛び始めた。ぼくはそれを見失わないよう、付いて行く。
夜間の外出禁止はまだ行われている。そのまま街の中や周辺に向かうのだったらホリットたち自警団に見つかってしまう。彼らはぼくに対して複雑な思いでいるようなので、父さんからも、自警団に対しては敬意を払い彼らを怒らせるようなことは絶対にするな、と言われていた。だからこのまま街中へ向かうのだったらちょっとまずいな、と思った。
しかし、ハチドリはジャングルに向かい、森の道を進んで行った。夜更けのジャングルは暗かったけれど、この辺りはぼくの遊び場だったし目をつぶっても歩けるくらいだったから問題はない。ベンもそれを知っているからこの道を行くんだ。真っ黒なハチドリは闇の中では見つけ難いけれど、時折ぼくの耳元まで飛んで来て、あのブーンという羽音を聞かせたから問題はなかった。
しばらく森の中を進むと、道は二つに分かれる。ハチドリは再びぼくの周りを回って、こっち、とばかり海側に折れる道の上を飛んで行く。
そのまま五分もすると、潮の香りが漂い始めジャングルのざわめきに別の要素が加わって来る。前方が開け始め、闇が薄くなり、そしてはっきりと潮騒の音が耳に届くようになった。
そこはサンマルティンと隣村との境目辺り、夜光虫の岬へ続く街道が崖沿いに続いている。ハチドリは星空を背景にはっきりと見えるようになり、夜目に慣れたぼくも辺りの様子が見えるようになって歩くのは楽になった。
街道に出るとハチドリはまたぼくの周りを一周してから更に先へと進んで、道から外れて海岸へ降りて行く小路に向かった。そしてぼくがその路を進み、トウダイグサの茂みが切れて視界が広がり、アマゾン海が一望に見えた時。
浜辺に人がいた。一瞬、自警団かも知れないと思ったけれど、それは本当に一瞬で、すぐにそれは違う種類の人たちと分かる。灯りも持たず、暗い浜辺に一人、二人、三人。足を止めたぼくを促すようにハチドリがブーンと飛んで来て耳元に留まり、ぼくが歩き出すと、すいっと高く飛び上がって離れて行った。
近付くにつれて、ぼくはその人たちがぼくの方を見ていて、手こそ振らないけれど歓迎の態度が滲み出ているのを感じた。三人とも監視者が着る例の防護服を着ていたけれど顔面を覆うマスクはしていない。ぼくはもう、泣きたいくらいに感動していて、それでも一歩、また一歩近付きながら自然と笑いが湧き上がるのを感じた。それは相手も同じようで、少なくとも男の一人が笑顔でぼくを迎えた。
「マレイ。マレイ。また会えるなんて思わなかった」
男が言う。見たこともない男だけれど、ぼくにはもう分かっている。姿は違っても声は変わらない。
「ベン。生きていたんだ」
「ああ。生きていたよ。グリーンの人間が、おれがほとんど死んだようになって転がっていたのを発見して助けてくれた。悪運が強いんだな、おれは」
あの惨事の後で、政府とグリーンは共同でパストで死んだ人たちの回収を行い、悪名高かったベオウルフの本部を更地にした。その時にベンが見つかって、まだ息があったからグリーンが引き取り、再生手術や整形を行った。脳にも損傷があったから無事な部分を残して電脳化した。つまりはもうベンは立派な監視者と言うわけだ。
「よかった」
こんな時は月並みな言葉しか出てこないものだけど、ぼくらはお互いを見つめ合うだけでも気持ちを交換していた。そして、ぼくは残りの二人に目を向ける。もう一人の大男は、ギレだ。むっつり黙っていたけれど、ぼくが、
「ギレさん。無事で何よりでした。ありがとう」
と声を掛けると、
「お前も助かってよかったな」
こちらも言葉は少ないけれど、その言葉は心からのものだとぼくには分かった。
そして、もう一人。こちらはぼくが仰天してもいいはずの人物なんだけれど、ぼくは事情を知ってしまっていたから驚かなかったし、少し複雑な気持ちだった。
「マレイさん。初めまして」
もちろん、「初めまして」だ。ぼくもそう返すと、
「エミリーさんと呼んでいいですか?」
「ええ、エミリー・ブランドンです」
何人目の、とかナンバー幾つ、とか聞くのは野暮と言うものだ。
「やはり、グリーンの方ですか?」
「はい。わたしはナンバー十三と同時にグリーンに参加しました。でも、わたしは彼女とは別のルートから参加したので結局最後までお互いに会うことはありませんでした。同じ変異者ですが、わたしの電脳化は一部だけです」
まさか。でも、きっと……
「では、カメレオンウイルスを運んだのは、あなたなのですね」
こちらのエミリーは、ぼくの知っているエミリーより少し感情が豊かな様子だった。彼女は大きく頷くと、
「はい。仰る通りです」
そして、ぼくに近付いて。
「ありがとう。本当にありがとう。そして、ごめんなさい」
ぼくは彼女に抱きしめられ、両の頬にキスされた。
「そうか……もう、元気なんですか?」
彼女はぼくを離すとにっこり笑う。
「はい。大丈夫です。対処療法が分かって来たので、わたしがその第一号です。完全に治すにはもう少し時間が必要とのことですが、日常生活には影響ありません」
彼女の笑みがぼくの知っているエミリーに重なって、ぼくは思わず抱きしめそうになったけれど、思い止まった。この人は同じ顔で同じ遺伝子を持つエミリーだけど、ぼくらのエミリーではないんだ。
「では、カメレオンウイルスの研究は順調なんですね」
「はい。研究はグリーンと政府との共同で進められることになりました。これは素晴らしいことです。ようやく、エスケイパーが『逃げ出した人』ではなくなる時が現実味を帯びて来ました。これが地上の人にも朗報であることは、わかりますよね」
「ええ。カメレオンウイルスが退治出来れば、女性が普通に生き抜くことが出来るし、そうなれば女性も品物みたいに売り買いされなくなる。人は普通に結婚して普通に子供を作ることが出来るようになるんですね」
「その通りです。人類は再び元に戻る。大破壊の日から百二十年ほどで人類は元の軌道に戻ることが出来るのです」
でも本当にそうなるのか、ぼくには疑問だ。
人間がいがみ合うことなく、監視者がその立場を捨てて地上人と同じ立場で行動出来るか、地上人も監視者を恨んだりおもねったりしないで一緒に世界を作っていけるかに掛かっている。ぼくはそんなに簡単じゃない、と思っている。
第一、監視者は今でも「汚れた仕事」に地上人を使っている。ベオウルフなんかその代表で、彼らはほとんどが元・地上人。つまりはここにいるギレと同じ地上から天に向かった「転向者」だ。確かに元・地上人ならウイルスや雑菌に抵抗力があるし、地上の風習や暮らしにも明るい。なにより宇宙生まれの監視者より重力に慣れている。監視者が地上で行動するために転向者を傭兵にして使うのは理に適っているんだ。グリーンも同じで、フィールドワーカーに転向者がたくさんいるらしい。このギレが正にそうだ。
この監視者が地上人を使う上下関係を真っ先に変えないと、監視者が地上人と平等に暮らすことなんか出来る筈がない。
監視者のなかでも地上人に対して寛容な考えを持つグリーンですらそれが出来ていないんだ。これには長い、長い時間が必要だろう。
この百十数年は簡単に元に戻すにはとても長い時間なんだ。




