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人は生死の境をさまようと、死んだ人や昔の風景、楽しかった思い出や辛かった思い出が次々にやって来ると聞いていた。最後には懐かしい人や二度と会えないはずの人がやって来て、天国か煉獄に連れて行ってくれる。ギレを見たのはその最初かも知れなかった。
でもそれからは、ぼくは真っ赤な大地でたくさんの人がもだえ苦しんでいる姿を見ていただけだった。それはもちろんあのパストの光景だった。頭に光線を受けて吹き飛んだ兵隊がやって来て、ぼくの腕を見なかったか?と聞いて来る。建物ごと焼けた兵隊が手を振ってくれるけど、頭がない。焼けただれた無惨なトラックや倒れた倉庫、崩れた石造りのアーチ。どれも鮮明で、ぼくはこれが夢だと信じたかったけれど、心の半分ではぼくは煉獄から転げて地獄に墜ち、無限にパストの無惨な有様を見続ける罰を受けているんだろう、と思った。
でも、もうどうでもよかった。ベンもエミリーも死んで炎の中に消えた。ぼくはと言えば、グリーンと敵対しベオウルフも邪魔になった監視者の手に落ちて安楽死させられてしまったんだ。
救いも助けもない真っ赤な空間で、ぼくは熱にうなされ、さまよい歩いた。倒れる人も立ち上がって歩き、再び燃え上がって倒れ、それが無限に繰り返されていく。ぼくは、燃えることも倒れることもなく、ただ歩くだけだったけれど、座ったり横になることは出来なかった。目を閉じることも出来ない。
そうして長い時間、歩き続けた先であの声が聞こえて来た。
「マレイ」「マレイさん」
「マレイ君」「マレイ・ソトマイヨール」
「マレイ」「マレイ」
「マレイ」
「マレイさん!」
目を開くと、そこは真っ白い部屋で、壁も天井も白くて眩しかった。直ぐに目を閉じ、今度は勇気を出して目を見開いた。
「マレイさん」
声はぼくの頭の上からする。ぼくは頭を後ろへ下げて見ようとすると、
「いや、待って。今、自由にします」
その若い男性の声は地獄でも聞こえていたあの声で、するとここも地獄なんだろうか?赤い地獄の後は白い地獄なのかも知れない。
ぼくは身構えたけれど、それも少しの間だった。何かで縛ってあったのか、腰や肩から重みが取れると体がふわりと浮き上がり、そのまま尻を上にうつ伏せに回転しそうな気がして、少し焦る。すると横から手が伸びてぼくの体をそっと押すと、回転しそうな動きが収まってすうっと滑るようにしてベッドに触れた。触れただけで落ち着かない。なんだか体重がないみたいだった。とすると、やっぱりぼくは死んでいるんだろう。ぼくは体重ゼロのゴーストになっているんだ。
視界に青い服を着た男性が入って、その手に幅広のベルトのようなものが見える。
「どうですか?気分は大丈夫ですか?」
「ぼ、くは……」
「どうです?気分」
「だいじょうぶ、で、す。ぼくは、死んでいるんですか?」
男性はにっこり笑ったようだった。はっきりしなかったのは大きなマスクをしていたからで、それが監視者を連想させたのか、ぼくは思わず身震いした。
「いいえ、マレイさん。ちゃんと生きていますよ。手術から一週間経ちました。もう強制睡眠を解いてもよいとのドクターの指示でしたので、今朝、ガスを絶ちました。数値は……よさそうですね」
そしてもう一度ぼくの顔をまじまじと見ると、
「やあ、生き延びましたね。マレイさん」
こうしてぼくは生還した。
あの注射は安定剤で、ぼくが痛みや出血や精神のショックでおかしくならないように眠らせる薬だった。そのまま監視者に運ばれ、意識不明のままぼくが憧れていたあの光の糸、キト近郊の軌道エレベーターで天に運ばれた。
病院は軌道ステーションの付属サイトにある簡易なものだったけれど、ぼく程度の「かすり傷」ならそこでも再生手術が出来るそうで、無重力の宇宙空間に浮かぶステーションでぼくは眠ったまま処置され、状態が安定するまで眠らされていたんだ。
監視者の医学はやっぱりすごく進んでいて、片手が切断されても新しい「手」を部品の交換みたいに着けることが出来るという。再生医療というもので、ほとんどの人がこの医療でなくした体の一部や内蔵、機能を元に戻すことが出来る。出来ないのは死んでしまった場合で、これはどうしようもない。心臓が無事で呼吸があれば瀕死の重傷でも回復率は九十パーセント以上だと聞いた。エミリーも環境さえ違えば助かったろうに、と思うとまた無念さと無力さが沸いて来た。
ぼくの場合、両手両腕と左足の複雑骨折に顔と鼻の骨折と腱の切断は簡単な手術で終わり、内蔵の一部潰れた部分の再生も大したことはなかったらしい。もっと重傷だったのは全身の火傷で、もう少し手当が遅れたら危なかったという。皮膚の再生はドクターが慎重に行って、鏡を見ても元の自分とほとんど変わらない姿で、ほっとしたぼくは思わず泣いてしまった。
そのドクターに頭を下げて感謝した後で、ぼくは監視者の男の待つ部屋に案内された。部屋に通された瞬間、ぼくはあの男だ、と分かった。
「ありがとうございます。あなたはぼくを助けてくれた方ですよね」
「そうだ。覚えていたか」
「ええ、覚えていました」
さて、何を話したらいいだろう。相手は名乗る気はないらしいから、後が続かなかった。ぼくはまだ生きているという事実に信じられない思いを抱いていたから、少し頭の回転が鈍かった。マスクを外した男の素顔は初めて見たので、想像した通り中年で、大きく張り出した顎と口角が少し上がった口元、そして印象に残った緑の瞳がこちらを見つめているのを、ぼくは穴が開くようにじっと見つめ返していた。
多分お偉いさんの監視者の男はそんなぼくの様子を察したんだろう、優しく微笑むと、
「助かってよかった。マレイ君と言ったね?」
「はい」
「エミリー・ブランドンの件では迷惑を掛けた。今一度お詫びしたい」
男は頭を下げると、
「我々はグリーン側と協議し、一定の範囲内で合意に至った。グリーンが発見し研究しているカメレオンウイルスの共同研究や、彼らの地球での限定的な活動の認可だ。時間は掛かるだろうが和解への第一歩になる。手始めにコロンビア地区の命令を逸脱し残虐な行為を繰り返していたベオウルフへの懲罰行動を共同で実施した。ベオウルフに関しては我々も手を焼いていた。彼らは我々の目を掠めて危険極まりない存在になっていた。君らの逃走は、地球の各地でベオウルフの活動を中止させる作戦が開始された矢先の出来事だったんだ」
男はぼくの反応をみるためか、言葉を切った。ぼくは話を聞いていることを示すため、こっくりと一回相槌を打つ。相手から見るとそのくらいぼくはぼうっとしているように見えるんだろう。
「今回、エミリーを使ったグリーン側の作戦は我々も察知していた。お恥ずかしい話だが我々の仲間にこれを阻止しようと主張する一派もいてね。この事態にどう対応するか話し合っている間に事がどんどん大きくなってしまった。我々が愚図愚図している間に、ウイルスの保菌者が彼らの下に到着した。グリーン側は直ちに解析に入り、遂にウイルスのRNA配列や遺伝子情報、そしてこれが大きかったが、感染者を介さなくとも生体を維持する方法を知ることが出来たのだ」
少し靄が掛かった状態のぼくでも話がおかしいのは分かる。
「あの、保菌者って」
「ああ、そうだね。君は知らなかったんだな」
男は一旦言葉を切ってから、
「エミリー・ブランドンは囮だった。本物のウイルスを保菌した女性は他にいて、君らの逃走劇の最中、グリーン側に確保されている」
瞬間、言葉が出なかった。一気に目が覚めた感じがして、次の瞬間ぼくは思わず叫んだ。
「そんなばかな!」




